第3章
胸がきゅっと締めつけられたが、紬は平静を装った。
「用件だけ伝えたら帰ります」
小林秘書を避け、社長室へ真っ直ぐに向かう。
ドアはきちんと閉まっておらず、隙間から雪乃の軽やかな笑い声が漏れていた。
紬は扉を押し開けた。
目の前の光景に、息が詰まる。
蓮はオフィスチェアに座り、雪乃はその膝の上。両腕を彼の首に回している。
二人は親密に言葉を交わし、雪乃は花が揺れるように笑い、蓮は甘やかすような目で見つめ、片手で彼女の腰を抱いていた。
開く音に気づき、二人が同時に振り向く。
蓮はすぐさま眉をひそめた。
「誰が入っていいと言った」
雪乃は膝から降り、服の乱れを整えながら嘲るような笑みを浮かべる。
「まあ、一ノ瀬の奥様。お久しぶり」
紬は眉を寄せ、落ち着いた声で言う。
「お義母さまに言われて、ニュースの件を処理しに来ました。クルーザーの報道をまだ追っているメディアがあります。あなたの意思を確認したくて」
「俺の意思だと?」
蓮は冷笑する。
「雪乃に一切の傷がつくのは嫌だ。それが俺の意思だ。メディアがどう書くかは、お前が解決すべき問題であって、俺に聞きに来ることじゃない」
雪乃は蓮の傍へ寄り、そっと彼の手を握る。
「蓮、怒らないで。白石さんも仕事をしているだけだもの」
紬は雪乃の整った顔を見て、ただひどく疲れた。
蓮は雪乃が傷つくかどうかだけを気にして、正妻である自分の気持ちなど一度も考えたことがない。
黙り込んだままの彼女に、蓮が冷たく言い放つ。
「まだ何かあるのか。ないなら帰れ」
「でも、お義母さまが……」
「母さんを言い訳にするな!」
蓮は苛立ちを露わにする。
「紬、これがお前の望みだろ? 卑怯な手を使って一ノ瀬の奥様になったくせに、その役目は果たしたくないのか」
嘲りの視線が刺さる。
「俺がお前を嫁にしたのは、楽をさせるためだとでも思ったか?」
その瞬間、下腹部がきゅうっと捻じれる。お馴染みの痛みが再び襲ってきた。
紬は反射的に腹を押さえた。指先が服に食い込み、額には冷や汗が滲む。
だが蓮は、ちらりとも見ようとしない。
そこへ雪乃が小さく甘えるような声を出す。
「蓮、お腹すいた。今夜、新しくできたフレンチに連れて行ってくれるって言ったじゃない」
蓮は当然のように彼女の肩を抱く。
「今から行こう。席は取ってある」
雪乃は彼の胸に凭れ、紬へ一瞥を投げた。誇示するような目。
二人が扉へ向かいかけたとき、蓮がふと足を止め、振り返る。
「そうだ。今夜のゴシップも忘れず処理しろよ。一ノ瀬の奥様」
わざと「一ノ瀬の奥様」と強調し、嘲るように言った。
紬はその場に立ち尽くした。去っていく背中を見ながら、心はとうに痛みすら麻痺している。
彼が自分を嫌っているのは知っていた。けれど、彼女を痛めつけるために、わざと雪乃を連れて目立つ場所へ見せびらかしに行くなんて。
なんて滑稽なのだろう。十年も愛した男に、ここまで憎まれていたなんて。
紬はゆっくり俯き、震える手を見つめる。
腹の痛みは増すばかり。机に手をついて身体を支えようとしたが、視界が真っ黒に落ち――完全に意識が途切れた。
次に目を開けると、病院のベッドだった。
「目が覚めましたか」
医師が水を差し出す。
「先ほど検査をしましたが、状態がかなり良くありません」
紬は一口ずつ水を飲み、黙っていた。
医師はカルテをめくり、険しい表情で言う。
「白石さん。カールマン症候群が合併症を起こしています。これ以上、感情の起伏や過労が続くと……次は助からないかもしれません」
水の入ったコップを握る手が震える。
「……すみません」
「謝る相手が違いますよ」
医師は苦笑して首を振った。
「ともかく、ご家族に電話してください。今後の治療方針を話し合う必要があります」
家族なんて、どこにいるというのか。
両親は亡くなり、姉には憎まれている。峥にも突き放された。そして蓮は――。
思い浮かべた途端、勝手に目が熱くなる。
「……家族はいません」
紬は小さく言った。
医師は言葉を失い、彼女の沈んだ表情を見て、結局ため息をついた。
「では今夜はゆっくり休みましょう。明日、入院するかどうか決めてください。いいですか、絶対に刺激を受けないこと」
医師が出ていくと、紬は枕に寄りかかり、虚ろな目で天井を見上げた。
一瞬、こうして死んでしまうのも悪くないのでは、と思う。少なくとも、もう苦しまずに済むから。
そのとき、枕元のスマホにニュースの通知が跳ねた。
【一ノ瀬グループ社長、深夜に初恋の恋人とフレンチ店へ。親密な様子で好事近し?】
添付写真は、蓮と雪乃が並んで店へ入る後ろ姿。さらに窓越しの盗撮――二人は窓際の席で、揺れるキャンドルの光の中、蓮が笑いながら雪乃のステーキを切っていた。
わかっている。蓮はわざと記者に撮らせたのだ。自分を痛めつけるために。
指先で画面を滑らせ、溢れる報道とネットの祝福コメントを眺めるほど、心は少しずつ凍っていった。
そこへ、スマホが震え出す。お義母さまからだ。
きっとニュースを見て、怒鳴りつけに来たのだろう。
紬はもう、何もしたくなかった。画面を見つめているうちに、呼び出しは勝手に切れた。
だが数秒後、再び着信音が鳴り響く。静かな病室に容赦なく響き渡る音。
これまでの紬なら、お義母さまの電話を無視することなどできなかった。一ノ瀬の奥様としての本分を、必死に守ってきたから。
でも今回は違った。出ずにそのまま通話を切り、メールを開いて、離婚協議書を蓮へ送信した。
それだけ済ませてスマホの電源を落とし、布団の中へ丸まる。
こうしていれば、この最悪な世界と切り離せる気がした。
一方、レストランで食事をしていた蓮は、スマホ画面に表示された「離婚協議書」の文字を見つめ、眉を深く寄せる。
「どうしたの?」
雪乃が心配そうに覗き込む。
「何でもない」
蓮はスマホをしまったが、目つきは明らかに冷えた。
「食べよう」
グラスを持ち上げて上の空で一口飲む。それでも視線は、ずっとスマホの画面へ向いていた。
考えた末、紬にメッセージを送った。
【どういうつもりだ?】
だが「送信失敗」。――ブロックされていた。
