第5章
「お願い、紬。悩まないで。ただ遊びに行くってだけでいいから、ね?」
恬子の甘えた押しに負け、紬は結局うなずいた。
それを見て、恬子は満面の笑みで立ち上がる。
「そうこなくっちゃ。あの蓮が見る目ないだけで、世の男が全員節穴なわけじゃないんだから。今夜はうちの紬で会場を驚かせるわよ!」
その言葉に、紬の胸は少しだけ苦くなった。
そう。三年間、蓮の背中を追い続けても、彼の心は一欠片も動かなかった。――もう前を向く時なのかもしれない。
気持ちを決めたせいか、不思議と体調も少し良い気がした。
二人で食事を済ませると、恬子はそのまま彼女をドレス選びへ連れて行った。
紬は何も言わなくていい。ただ微笑んで座っていればいい。
恬子はあちこち走り回り、目を輝かせている。
やがて決まったのは、白いオフショルダーのドレス。ダイヤのネックレスを合わせ、靴まで恬子が選んだ。
「こんなにしなくても……」
紬が言いかけると、恬子は彼女を更衣室へ押し込んだ。
着替え終えて出てくると、恬子はその場で固まる。
「ほらね。紬にはこれが一番!」
鏡を見る暇もなく、今度はヘアメイクへ。時間がない。
夕焼けが空を染め始めた頃、ようやく支度が整った。
「姫様、本日のエスコートはこの恬子が承ります」
恬子はふざけた口調で手を取り、二人で外へ向かう。
車が到着し、恬子がドアを開ける。紬が降り立った。
オフショルダーから覗く鎖骨、折れそうなくびれ。
弧を描く眉、艶のある唇、白い肌。首元のダイヤでさえ、彼女を前にすると霞んで見える。
淡い憂いを湛えた瞳は、帰り道を失った物語の姫君のようだった。
会場の視線が一斉に集まる。この界隈に、いつからこんな美人がいたのか――そんな顔ばかり。
恬子は予想通りとばかりに胸を張り、並んで歩いた。
「見て、あれ蓮の車じゃない?」
人の声が耳に入る。紬の足が止まり、反射的に目を向けた。
黒のベントレー。そこから降りたのは蓮。
だが彼はすぐ振り返り腕を差し出す。白い手がそこに重なる。
――雪乃。
二人は並び立ち、絵になるほどお似合いだった。紬の作った笑みが、ついに保てなくなる。
恬子も気づき、顔色が変わる。
「このクソ……まだ離婚もしてないくせに、堂々と連れてくるとか。恥ってもん知らないの?」
「大丈夫」
紬は目を伏せ、鼻をすすって涙を押し戻した。
「彼、外では一度も私のこと認めたことないから」
「……行こう」
ここにいても辱めを受けるだけだ。
だが蓮がこんな場に女を連れて来れば、周囲は放っておかない。好奇心に駆られた人々が一斉に群がった。
「一ノ瀬社長だ! 隣の人が一ノ瀬奥様?」
「違うって。雪乃だよ、幼馴染らしい」
「え、ロマンチック!」
あっという間に周囲は人でぎゅうぎゅうになる。
雪乃は人混みを見渡し、少し離れた位置に紬を見つけた。目が細くなる。
なぜここに? しかもあんなに綺麗に着飾って――。だが、蓮に紬を見せるわけにはいかない。
雪乃はすぐ策を決め、蓮の腕にわざと絡みつき、そちらの方へ歩いた。
親密な二人に群衆がついていく。
突然の流れに紬は反応が遅れ、人波に呑み込まれて押し流された。
恬子が腕を取ろうとしたが間に合わない。
ヒールで踏ん張れず、紬は押されて転倒した。
その瞬間、雪乃の笑みがさらに鮮やかになる。彼女はそのまま蓮と会場へ入っていった。
「紬!」
人が散り始めてようやく恬子が叫ぶが、紬の姿が見えない。
紬は地面に倒れ、目の前が暗くなる。腹の痛みが一気に襲い、惨めさが増した。
病気のことは恬子に言っていない。こんな姿も見せたくない。必死に意識を繋ぎ、人気のない場所へ逃げ込む。
深く息を吸い、鞄から薬瓶を取り出し、倒れないように堪えながら錠剤を口に放り込んだ。
喉を落ちていく感覚に、ようやく少し息をつく。
だが、さっきの二人の姿が頭から離れず、胸が痛む。
目を開ける前に、耳元で冷たい鼻息がした。
「……あいつのために、そこまでする価値があるのか」
聞き覚えのある声。紬が目を開けると、視界は元に戻っていた。
深く息を吸い、薬瓶を背後に隠すように拳を握り締めた。弱いところを見せたくない。
「峥」
そう呼ばれ、峥の表情が一瞬だけ柔らかくなった。だがすぐ消える。
「そこまで好きなのか。あいつが他の女を連れて堂々と出てきても?」
問い詰めるような口調に、紬は目を閉じる。逃げるように。
彼女が黙り込むと、峥は眉を強く寄せた。
「いつからそんな人間になった。男ひとりのために何もかも捨てて……蓮のどこがいい」
焦りの混じった声。そこには紬が気づけない種類の悔しさも含まれていた。
けれど彼女は、その感情に目を向けられず、ただ黙って目を伏せた。
その答えは自分でも知りたい。だが、今はもう何の意味もない。
「私に用がそれだけなら、答えることはないわ」
「……答えない、か。いい。いいぞ」
