第6章
峥の言葉には自嘲の色が混じっていた。ふいと顔を背け、胸の奥で渦巻く不満と怒りをぐっと押さえ込む。
再び口を開いたとき、その声はいつもの冷ややかなものに戻っていた。
「俺の余計なお世話だったな」
紬はこれ以上ここに留まりたくなかった。ちょうどその時、携帯が震える。きっと恬子が探しているのだろう。
だが、彼の横を通り過ぎようとした瞬間、再び激しい眩暈に襲われた。
峥は反射的に彼女の手首を掴んだ。その額に薄っすらと汗が浮かんでいるのを見て、さらに眉間の皺を深くする。
「どうした」
伸ばしかけた彼の手を、紬はさりげなく避けた。
「なんでもない。友達が探してるから、用がないなら帰る」
そう言って、彼の手から自分の腕を引き抜こうとする。しかし、力が入りすぎたせいで足元がふらつき、あわや床に倒れ込みそうになった。
それを見た峥はもう堪えきれず、右腕を伸ばして彼女の肩を抱き寄せた。
「お前、本当に男ひとりのために、自分をそこまで痛めつける気か!」
峥はそう吐き捨てると、通りかかったスタッフを呼び止め、休憩室の場所を尋ねた。
頭上から降ってくる声に、紬は彼の腕の中でもがく。
「友達が探してるって言ってるでしょ。自分の身体は自分が一番よく――」
「黙れ。休憩室が嫌なら、今すぐ病院へ連れて行く」
紬の顔色は見るに堪えないほど蒼白だった。このまま帰すわけにはいかない。
その言葉を聞いて、腕の中の彼女はようやく大人しくなった。
「行くぞ」
峥は手を離したものの、自分の上着を彼女の肩に掛け、そのまま休憩室へと連れ立った。
二人とも目の前のことに気を取られ、背後から一人の人影がこちらを探しにやってきたことなど、微塵も気づいていなかった。
雅は目を離した隙に峥を見失い、一体どこへ行ったのかと眉をひそめていた。
「おかしいわね、電話にも出ないし」
そう呟きながら歩いていると、同じく焦った様子の恬子と鉢合わせる。
彼女のことは当然知っている。だが、恬子がここにいるということは、まさか紬も来ているのでは?
その考えが頭をよぎった瞬間、雅の顔色が変わった。峥が突然姿を消したのは、紬のせいかもしれない。
恬子も電話に夢中だったうえ、雅が咄嗟に物陰へ身を潜めたため、暗がりから覗くその視線には気づかなかった。
やがて紬の電話が繋がり、恬子が足を止める。
「紬、どこ行ってたの? ずっと出ないから心配したじゃない」
恬子の心配そうな声に、紬は小さく口角を上げた。
「なんでもないの。外は人が多すぎるから、休憩室で少し座っていようと思って。さっきは騒がしくて、着信に気づかなかった」
その説明に、恬子は少しも疑いを抱かなかった。
「休憩室? じゃあそこで大人しく待ってて。今すぐ行くから」
電話を切った恬子は、「休憩室……」と無意識に呟きながら、再び歩き出した。
物陰に隠れていた雅は、二人の会話をそっと立ち聞きしていた。恬子が遠ざかるのを見届けてから、暗がりを抜け出す。
峥が本当に紬と一緒にいるという確証はない。だが、休憩室はすぐそこだ。確かめずにはいられなかった。
休憩室のドアの前まで来ると、案の定、中から峥の声が聞こえてきた。
「本当に大丈夫なんだな?」
先ほどは感情的になっていた峥も、落ち着きを取り戻してから改めて紬を見ると、顔色が悪いだけでなく、ひどく痩せ細って弱々しく見えた。
「平気よ」
紬は彼に心配をかけたくなくて、ただ短くそう答えると、肩に掛けられた上着を脱いだ。
「……これ、返すわ」
差し出された上着を見て、峥は一瞬固まり、すぐさまその瞳に怒りの色を滲ませた。
「お前の中では、誰も蓮には敵わないってことか?」
その問いに、室内は水を打ったように静まり返る。紬は両手をぎゅっと握り締め、明らかに答えるのを拒んでいた。
その無意識の仕草を見て、峥はたまらず歩み寄り、彼女の手を包み込むように握った。
「どうして自分を許してやれないんだ」
手の甲に伝わる突然の温もりに、紬はその場で呆然とし、咄嗟に彼を突き放すことができなかった。
たった一人で耐え忍ぶ苦しさが限界を超えていたからこそ――ほんの一瞬だけ、心が揺らいだのだ。
一方、ドアの外でその光景を盗み見ていた雅は、今すぐ飛び込んで二人を引き離したい衝動に駆られた。だが、理性がすんでのところでその行動を押し留める。
(どうして……蓮に嫁いで、高飛車な一ノ瀬奥様になったくせに、なんで峥にまでちょっかいを出すのよ!)
雅は心の中で激しく毒づきながら、二人の繋がれた手を親の仇のように睨みつけた。
背後から近づく足音にハッと我に返った雅は、素早くスマホを構えて目の前の光景を写真に収めると、すぐさま背を向けてその場を立ち去った。
雅が去った直後、紬の瞳に正気が戻る。
「……疲れたら、諦めるわ」
その言葉に、峥の目は暗く沈み、何も言わずにそっと手を離した。
ちょうどそこへ恬子がやって来た。ドアを押し開け、紬が無事に座っているのを見て、ようやく胸を撫で下ろす。
「もう、本当に心配したんだから。さっきは、てっきりあんたが……」
言いかけて、恬子は室内にいるもう一人の存在に気づいた。
「沈先生もいらしたんですね」
「友達が来たなら、俺は行く」
峥はそう言い残して部屋を出て行った。紬は最後まで顔を上げることはなかった。
一方、休憩室からそう遠くない場所にいた雅は、スマホの画面を見つめていた。そこには、峥と紬が親密に寄り添い、手を握り合っているような写真が映し出されている。次にどう動くべきか、彼女の腹はすでに決まっていた。
「一ノ瀬奥様。もし一ノ瀬社長がこの写真を見たら、どんな顔をするかしらね」
雅は口元を吊り上げ、会場の中心にいる蓮へと視線を投げた。彼は相変わらず、手の届かない高みにいるように見える。
指先を軽く滑らせ、その写真を匿名で蓮の元へと送信した。
画面に表示された『送信完了』の文字を見つめながら、雅の瞳は期待に打ち震えていた。
