第2章
午後三時、タクシーは私を柴田グループのビルの前で降ろした。
人事部長である中村のオフィスは三階にある。私は二度ノックをしてから、ドアを押し開けた。
「中村部長、退職させてください」
私はプリントアウトした退職届を彼女のデスクの上に置いた。
中村は椅子から勢いよく立ち上がった。
「えっ!? 玲奈さん、どうして? 健太さんは知っているの?」
私は困ったように微笑んだ。
「彼にはまだ話していませんが、もう決めたことですから」
「でも――」中村は退職届をひったくるように手に取り、慌てた様子で文面に目を走らせた。
「港のプロジェクトがもうすぐ終わるじゃない。あともう少しなのに、どうして今なの?」
私はただ首を横に振り、そのままの笑みを浮かべていた。
中村は退職届を机に置き、声を和らげた。
「玲奈さん、あなたはうちで一番の戦略プランナーよ。あなたがいなくなったら、私たちはどうすればいいの?」
「すみません、中村さん」
彼女はこめかみを揉みながらため息をついた。
「あなたの役職だと、退職には健太さんの直接の承認が必要なの。彼からサインをもらってきてちょうだい」
「わかっています」と私は答えた。
「今から彼のところへ行ってきます」
私はスマホを取り出し、健太の番号に発信した。二回目のコールで彼が電話に出た。
「今、どこ?」
「オフィスだ。どうした?」
「少しサインしてほしい書類があって」
健太のオフィスのドアは半開きになっていた。私はそれを押し広げて――そのまま立ち尽くした。
美咲が、健太の黒いレザーチェアに座っていた。彼の椅子。彼が絶対に、他の誰にも触れさせなかったあの椅子に。
健太は彼女の後ろに立ち、両手を肘掛けにつきながら身を乗り出し、彼女の手にしている報告書を指差していた。
「ここの数字、見えるか? ここが問題なんだ……」
美咲は頭を後ろに反らせ、憧れのこもった瞳で彼を見上げた。
「健太さんって、本当に頭がいいんですね。私にはこんなの、絶対に理解できません……」
私は動けなかった。息もできなかった。
三年前。私が彼のアシスタントになってまだ二ヶ月だった頃のことだ。その日、私は生理になり、立っているのもやっとなくらい酷い痛みに襲われていた。息を整えようと、ほんの一瞬だけ、彼の椅子に腰を下ろしたのだ。
健太はすぐに私を引っ張り上げ、厳しい顔で言った。
「玲奈、ここは職場だぞ」
「いくら俺の婚約者だからって、公私混同はするな。俺の椅子には座るな」
なのに、美咲は座っていいのだ。彼女には公私混同のルールなど存在しない。
あのルールは、私にだけ適用されるものだったのだ。
急激に込み上げてきた痛みが喉の奥につかえた。目の奥が熱くなるのを感じた。
私は慌てて俯き、強く瞬きをした。深呼吸をして。もうすぐ、この場所ともお別れなのだから。
私は背筋を伸ばし、デスクへと歩み寄った。
足音を聞いて、健太が顔を上げた。彼は姿勢を正し、美咲の椅子から一歩離れた。
「玲奈? 何の用だ?」
「サインが必要な書類よ」
彼は私の手から退職届を受け取った。
「痛っ!」突如として、美咲の悲鳴が空気を切り裂いた。
健太は瞬時に彼女の方へ顔を向けた。
「美咲、どうした!?」
彼は書類をろくに見もしなかった。ただペンを掴み、視線を美咲から外さないまま、紙の下部に雑なサインを書き殴った。
そして身をかがめ、彼女の手を取った。
「ホッチキスの芯で引っ掛けたのか? 見せてみろ……」
そんな甘く優しい声、私には一度も向けられたことがなかった。
なんて、馬鹿馬鹿しいんだろう。
私はサインされた退職届を拾い上げ、背を向けて歩き出した。健太が顔を上げることはなかった。
その後、私は社員証と社用スマホを返却し、最後の書類にサインをした。
小さな段ボール箱を抱え、私は柴田グループを後にした。
タクシーの中でスマホを取り出し、フライトを検索した。明日の午後二時半発。
クレジットカード情報を入力し、「購入を確定」ボタンを押す。
受信トレイに予約完了のメールが届いた。私は長く息を吐き出した。
明日の二時半、私は自由になる。
戻ってきたヴィラは静まり返っていた。私たちのヴィラ。でも、ここが「私たちのもの」だと感じたことなど一度もなかった。
私はまっすぐ寝室に向かい、クローゼットの奥からスーツケースを引っ張り出した。
健太が買ってくれたブランド物のバッグ。靴。ジュエリー。私はすべてをクローゼットに残し、一切手を触れなかった。
どうせ、どれも本当に私のものだったわけではないのだから。
疲れ果てていた。ソファに倒れ込み、無意識にスマホを開いてSNSのタイムラインをスクロールした。
一番上に表示されたのは、美咲の投稿だった。
写真には、高級ブティックで彼女の隣に立つ健太の姿が写っていた。店員の列が、彼女に選ばせようとジュエリーボックスやハンドバッグを差し出している。美咲は片手をダイヤモンドのネックレスに添え、カメラに向かって満面の笑みを浮かべていた。
キャプションにはこう書かれていた。
『最高のショッピングの一日をありがとう!♡』
私は画面を見つめた。
付き合って五年になるけれど、彼はいつも買い物は面倒だと言っていた。人混みは嫌いだ、と。
彼は買い物が嫌いなわけじゃない。私と一緒に買い物をするのが嫌なだけなのだ。
スマホを放り投げ、ソファの背もたれに寄りかかって天井を見つめた。
骨の髄まで疲労が染み込んでいた。
玄関のドアが開く音で身を起こした。午後八時、ネクタイを緩め、ブリーフケースを手に健太が帰ってきた。
彼は玄関で立ち止まり、リビングを見回した。
「玲奈、飾ってあったものはどうした? なんで全部片付けちゃったんだ?」
心臓が跳ねたが、私は平静を装った。
「業者に頼んで家中を大掃除してもらおうと思って。壊れやすいものは傷がつかないように片付けたの」
「ああ」健太は頷き、歩み寄って私の隣に腰を下ろした。
彼は何も疑っていなかった。
健太は申し訳なさそうな表情で私の手を取った。
「玲奈、今日は悪かった。俺が――」
「いいのよ」私は静かに彼の言葉を遮った。
「いや、よくない」彼は私の手を握りしめた。
「でも約束する。明日は完全に空けてあるんだ。誰にも邪魔はさせない。明日の朝、婚姻届を出そう、な? 今度こそ大丈夫だ。誓うよ」
彼の目はとても誠実そうに見えた。
私は口を開いた。会社を辞めて出て行くことを伝えようとして。
「健太、話があるの……」
彼のスマホが鳴った。
あの特別な着信音――軽快で楽しげなピアノのメロディー。彼が美咲のためだけに設定していたものだ。
健太は画面をちらりと見やり、ほんの一瞬だけその顔に躊躇いがよぎった。
そして、電話に出た。
「美咲? ……なんだって? 水道管が破裂した?」
スマホ越しに、甲高くパニックに陥った彼女の声が聞こえた。
「健太さん、家中水浸しなの! どうしたらいいかわからなくて……」
健太は立ち上がり、すでに車の鍵に手を伸ばしていた。
「すぐに行く。落ち着いて待ってろ」
彼は電話を切り、申し訳なさそうに私を見た。
「ごめん、美咲のアパートで水漏れのトラブルがあったみたいだ。修理を手伝いに行かないと」
水道管。大家に電話すればいいじゃないか。管理会社は? 水道業者は?
だが、私は何も言わなかった。
健太はジャケットを手に取り、ドアのところで立ち止まった。そして私の方を振り返った。
「待って、俺に何を言おうとしてたんだ?」
