紹介
無名のチンピラだった頃から、彼がのし上がって組長になるまで、ずっとそばで支えてきた。
頂点に立ったら、市役所に行って正式に籍を入れようって、彼は約束してくれていた。
そして今日こそが、ついに私たちが婚姻届を出すはずの日――そのはずだった。
でも健太は、初恋の女、佐藤美咲のせいで、これまでに8回も婚姻届の提出を延期してきた。
これは9回目の挑戦。
10回目なんて、私はもう許さない。
チャプター 1
市役所の記入台に座り、私は目の前に置かれた婚姻届を見つめていた。籍を入れようとするのは、これで九度目だ。
隣に座る健太は、スマホの画面をスクロールしている。自分の記入欄は、すでにぞんざいな字で埋められていた。
日付欄へとペンを走らせようとした私の手は、微かに震えていた。
今度こそ大丈夫。だよね、健太?
深く息を吸い込む。日付を書き入れようとしたまさにその時、ガラス扉が勢いよく開いた。
「健太!」
目を真っ赤に腫らし、涙ぐんだ美咲がロビーを駆け抜けてきた。私には一瞥もくれない。
「健太!」彼女は上ずった声を上げた。
「仕事で大変なことになっちゃって、契約書の条件が全然わからないの。お願い、一緒に見て!」
日付欄の上でペンがピタリと止まる。私はゆっくりと首を巡らせ、健太を見た。
彼は美咲を見つめ、私を見て、そして再び美咲へと視線を戻した。その額に、うっすらと汗がにじむ。
「美咲、俺は今、ちょっと取り込み中で……」
「健太、今日の午後にはこの契約書にサインしなきゃいけないの!」美咲は彼の腕にすがりついた。
「どうしたらいいかわからないのよ。お願い。こういうのがわかるの、健太しかいないじゃない」
健太の表情が変わるのを、私はただ見つめていた。罪悪感と心配が入り混じった、あの見慣れた顔だ。
またか。
一度目の記憶が脳裏をよぎる。市役所の外に立っていた時、健太のスマホが鳴った。
『美咲が海外から帰ってきたんだ。空港まで迎えに行かないと』
彼は私を階段に取り残し、角を曲がって消えていく車を、私はただ見送るしかなかった。
二度目は、入り口のドアのところまで来ていた。健太のスマホが震え、メッセージを読んだ彼の顔から血の気が引いた。
『美咲が病院に運ばれた。アレルギー反応だって。ごめん、行かなきゃ』
三度目。私たちは駐車場にいた。『美咲がバンジージャンプをするんだけど、怖がってて。俺がついててやらないと』
四度目。五度目。六度目。七度目。八度目。
いつだって美咲だ。いつだって緊急事態。いつだって『次は絶対に籍を入れよう、約束する』。
そして私は、その度に『わかった』と頷き続けてきた。
だが、今回は九度目だ。
「玲奈……」健太が私を見た。すがるような目をしている。
「俺……」
私はペンを置いた。不思議なほどの静けさが心を満たしていく。ふと、笑みがこぼれた。
健太が凍りつく。
「玲奈?」
「いいよ」と私は言った。
「仕事は大事だもの。行ってあげて」
あっという間に、健太の顔に安堵の表情が広がった。彼は急いで立ち上がり、ジャケットを手に取る。
「わかってくれてありがとう。次は必ず来るから、誓うよ。次こそ絶対に籍を入れよう」
前回も彼は同じことを言った。その前も。さらにその前も。
美咲と共に去っていく彼を見送る。急に、この空間が明るすぎ、そしてうるさすぎるように感じられた。
目の前の婚姻届を見下ろし、私はそれを真っ二つに引き裂いた。
九度、私は待った。
九度、彼は彼女を選んだ。
記入台の脇にあるゴミ箱へ、紙の切れ端をパラパラと落とす。
立ち上がり、一度も振り返ることなく、私はその場を後にした。
外は思いのほか冷え込んでいた。階段近くのベンチに腰を下ろし、スマホを取り出す。
メールの受信トレイは満杯だった。何十通もの未読メッセージ。そのすべてが、ここ数ヶ月間無視し続けてきた仕事のオファーだ。画面をスクロールしていく。
そして、その一通が目に留まった。
『Re: シニア経営企画ディレクター職の件 - 黒田グループ』
私はその名前を、長い間じっと見つめた。
黒田。
三年前、柴田家が港で黒田の積荷を襲撃し、数億円相当の物資を強奪した。その襲撃で黒田の人間が一人命を落とし、それが三ヶ月にも及ぶ血みどろの抗争の引き金となった。
上層部の介入によってようやく手打ちとなった際、柴田家はM市から永久追放され、同市は黒田の完全なる縄張りとなった。
M市。黒田の絶対的領域。健太の家族が、絶対に手を出せない唯一の場所。
私の親指が、キーボードの上を滑る。
『黒田様
オファーを謹んでお受けいたします。いつから勤務可能でしょうか?
高橋玲奈』
送信ボタンの上で、指を浮かせる。
そして、私はそれを押した。
健太、私がM市に着いた時、私たちの関係はすべて終わる。
最新チャプター
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*****
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地獄から帰った私を、頂点の男が甘やかすなんて聞いてない
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