第1章

 市役所の記入台に座り、目の前にある婚姻届を見つめていた。入籍を試みるのは、これで九度目だ。

 隣に座る健は、スマホの画面をスクロールしている。彼の記入欄は、すでにぞんざいな字で埋められていた。

 日付の欄へとペンを走らせる。私の手は、微かに震えていた。

 今度こそ、うまくいくよね。そうでしょう、健?

 大きく深呼吸をして、まさに日付を書き込もうとしたその時――ガラス扉が勢いよく開かれた。

「健!」

 結衣が足早に駆け寄ってきた。その目は赤く潤んでいる。彼女は私に一瞥もくれなかった。

「健!」結衣は上ずった声を上げた。

「仕事で大きなトラブルがあって、契約書の条件が全然わからないの。お願い、ちょっと見てくれない!?」

 日付欄の上でペンがピタリと止まり、私はゆっくりと首を巡らせて健を見た。

 彼は結衣を見つめ、私を見て、そして再び結衣に視線を戻した。その額には、うっすらと汗がにじんでいる。

「結衣、俺は今、ちょっと取り込み中で……」

「健、今日の午後にはこの契約書にサインしなきゃいけないの!」結衣は彼の腕にすがりついた。

「どうしていいかわからないのよ。お願い。こういうのがわかるの、健しかいないじゃない」

 健の表情が変わるのを、私はただ黙って見ていた。罪悪感と心配が入り混じった、あの見慣れた顔。

 まただ。

 一度目の記憶が脳裏をよぎる。市役所の外に立っていた時、健のスマホが鳴った。

『結衣が海外から帰ってきたんだ。空港まで迎えに行ってやらなきゃ』

 彼は私を階段に取り残したまま去っていった。角を曲がって見えなくなる彼の車を、私はただ見送るしかなかった。

 二度目は、入り口のドアのところまで来ていた。健のスマホが震え、メッセージを読んだ彼の顔から血の気が引いた。

『結衣が病院に運ばれた。アレルギー反応だって。ごめん、行かなきゃ』

 三度目。私たちは駐車場にいた。

『結衣がバンジージャンプをやるんだけど、怖がってるんだ。俺がついててやらないと』

 四度目。五度目。六度目。七度目。八度目。

 いつだって結衣だ。いつだって緊急事態だ。いつだって『次は必ず籍を入れよう、約束する』だった。

 そして私は、その度ごとに『わかった』と頷いてきたのだ。

 でも、これが九度目。

「玲奈……」健が私を見つめていた。すがるような目をしている。

「俺……」

 私はペンを置いた。奇妙なほど穏やかな波が、心の中をすーっと洗い流していく。私はふっと笑い声を漏らした。

 健が固まる。

「玲奈?」

「いいよ」私は言った。

「仕事は大事でしょ。行ってあげて」

 見る間に、健の顔に安堵の色が広がった。彼は急いで立ち上がり、ジャケットを掴む。

「わかってくれてありがとう。次は必ず来るから、誓うよ。次こそ絶対に籍を入れよう」

 前回も同じことを言っていた。その前も。さらにその前も。

 結衣と共に立ち去る彼の背中を見送る。突然、この空間がやけに明るく、そして騒がしく感じられた。

 目の前にある婚姻届を見下ろす。私はそれを真っ二つに引き裂いた。

 九度、私は待った。

 九度、彼は彼女を選んだ。

 引き裂いた紙片を、記入台の横にあるゴミ箱へと落とす。

 私は立ち上がり、一度も振り返ることなくその場を後にした。

 外に出ると、思いのほか空気が冷たかった。階段近くのベンチに腰を下ろし、スマホを取り出す。

 メールの受信トレイは溢れ返っていた。何十件もの未読メッセージ。そのすべてが、ここ数ヶ月間無視し続けてきた仕事のオファーだ。画面をスクロールしていく。

 そして、その一通が目に留まった。

 件名:【返信】シニア戦略企画ディレクター職のオファー ―― 伊達エンタープライズ

 私はその名前を、じっと見つめ続けた。

 伊達。

 三年前、柴田組が港で伊達の積荷を襲撃し、数百万相当の品を強奪した。その襲撃で伊達の構成員が一名命を落とし、それを引き金として、三ヶ月に及ぶ血で血を洗う抗争が勃発した。

 最終的に強大な上位組織が仲介に入り休戦が結ばれたが、その結果、柴田組はM区から永久追放され、同区は伊達の完全な縄張りとなった。

 M区。伊達の勢力圏の中心地。健の家族が、絶対に手出しできない唯一の場所。

 私の親指が、キーボードの上を滑る。

 伊達様

 いただいたオファー、謹んでお受けいたします。

 いつから出社すればよろしいでしょうか。

 何卒よろしくお願い申し上げます。

 神谷玲奈

 送信ボタンの上で、指が躊躇うように止まる。

 そして、私はそのボタンを押し込んだ。

 健。私がM区に足を踏み入れた時、私たちの関係はすべて終わるのよ。

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