決して実ることのない結婚

決して実ることのない結婚

渡り雨 · 完結 · 20.2k 文字

364
トレンド
364
閲覧数
0
追加済み
本棚に追加
読み始める
共有:facebooktwitterpinterestwhatsappreddit

紹介

私は柴田健と付き合ってもう五年になる。
無名のチンピラから組のトップにのし上がるまで、ずっとそばで支えてきた。
「てっぺん取ったら、一緒に役所に行って正式に夫婦になろう」──そう健は約束してくれた。
そして今日こそ、その婚姻届を出すはずの日だった。
でも、健はこれまでに八回も婚姻届を出す日を延期してきた。
理由はいつも、初恋の女──藤原結衣。
今日が九回目のチャレンジ。
十回目なんて、私はもう許さない。

チャプター 1

 市役所の記入台に座り、目の前にある婚姻届を見つめていた。入籍を試みるのは、これで九度目だ。

 隣に座る健は、スマホの画面をスクロールしている。彼の記入欄は、すでにぞんざいな字で埋められていた。

 日付の欄へとペンを走らせる。私の手は、微かに震えていた。

 今度こそ、うまくいくよね。そうでしょう、健?

 大きく深呼吸をして、まさに日付を書き込もうとしたその時――ガラス扉が勢いよく開かれた。

「健!」

 結衣が足早に駆け寄ってきた。その目は赤く潤んでいる。彼女は私に一瞥もくれなかった。

「健!」結衣は上ずった声を上げた。

「仕事で大きなトラブルがあって、契約書の条件が全然わからないの。お願い、ちょっと見てくれない!?」

 日付欄の上でペンがピタリと止まり、私はゆっくりと首を巡らせて健を見た。

 彼は結衣を見つめ、私を見て、そして再び結衣に視線を戻した。その額には、うっすらと汗がにじんでいる。

「結衣、俺は今、ちょっと取り込み中で……」

「健、今日の午後にはこの契約書にサインしなきゃいけないの!」結衣は彼の腕にすがりついた。

「どうしていいかわからないのよ。お願い。こういうのがわかるの、健しかいないじゃない」

 健の表情が変わるのを、私はただ黙って見ていた。罪悪感と心配が入り混じった、あの見慣れた顔。

 まただ。

 一度目の記憶が脳裏をよぎる。市役所の外に立っていた時、健のスマホが鳴った。

『結衣が海外から帰ってきたんだ。空港まで迎えに行ってやらなきゃ』

 彼は私を階段に取り残したまま去っていった。角を曲がって見えなくなる彼の車を、私はただ見送るしかなかった。

 二度目は、入り口のドアのところまで来ていた。健のスマホが震え、メッセージを読んだ彼の顔から血の気が引いた。

『結衣が病院に運ばれた。アレルギー反応だって。ごめん、行かなきゃ』

 三度目。私たちは駐車場にいた。

『結衣がバンジージャンプをやるんだけど、怖がってるんだ。俺がついててやらないと』

 四度目。五度目。六度目。七度目。八度目。

 いつだって結衣だ。いつだって緊急事態だ。いつだって『次は必ず籍を入れよう、約束する』だった。

 そして私は、その度ごとに『わかった』と頷いてきたのだ。

 でも、これが九度目。

「玲奈……」健が私を見つめていた。すがるような目をしている。

「俺……」

 私はペンを置いた。奇妙なほど穏やかな波が、心の中をすーっと洗い流していく。私はふっと笑い声を漏らした。

 健が固まる。

「玲奈?」

「いいよ」私は言った。

「仕事は大事でしょ。行ってあげて」

 見る間に、健の顔に安堵の色が広がった。彼は急いで立ち上がり、ジャケットを掴む。

「わかってくれてありがとう。次は必ず来るから、誓うよ。次こそ絶対に籍を入れよう」

 前回も同じことを言っていた。その前も。さらにその前も。

 結衣と共に立ち去る彼の背中を見送る。突然、この空間がやけに明るく、そして騒がしく感じられた。

 目の前にある婚姻届を見下ろす。私はそれを真っ二つに引き裂いた。

 九度、私は待った。

 九度、彼は彼女を選んだ。

 引き裂いた紙片を、記入台の横にあるゴミ箱へと落とす。

 私は立ち上がり、一度も振り返ることなくその場を後にした。

 外に出ると、思いのほか空気が冷たかった。階段近くのベンチに腰を下ろし、スマホを取り出す。

 メールの受信トレイは溢れ返っていた。何十件もの未読メッセージ。そのすべてが、ここ数ヶ月間無視し続けてきた仕事のオファーだ。画面をスクロールしていく。

 そして、その一通が目に留まった。

 件名:【返信】シニア戦略企画ディレクター職のオファー ―― 伊達エンタープライズ

 私はその名前を、じっと見つめ続けた。

 伊達。

 三年前、柴田組が港で伊達の積荷を襲撃し、数百万相当の品を強奪した。その襲撃で伊達の構成員が一名命を落とし、それを引き金として、三ヶ月に及ぶ血で血を洗う抗争が勃発した。

 最終的に強大な上位組織が仲介に入り休戦が結ばれたが、その結果、柴田組はM区から永久追放され、同区は伊達の完全な縄張りとなった。

 M区。伊達の勢力圏の中心地。健の家族が、絶対に手出しできない唯一の場所。

 私の親指が、キーボードの上を滑る。

 伊達様

 いただいたオファー、謹んでお受けいたします。

 いつから出社すればよろしいでしょうか。

 何卒よろしくお願い申し上げます。

 神谷玲奈

 送信ボタンの上で、指が躊躇うように止まる。

 そして、私はそのボタンを押し込んだ。

 健。私がM区に足を踏み入れた時、私たちの関係はすべて終わるのよ。

最新チャプター

おすすめ 😍

離婚後、ママと子供が世界中で大活躍

離婚後、ママと子供が世界中で大活躍

179k 閲覧数 · 連載中 · yoake
18歳の彼女は、下半身不随の御曹司と結婚する。
本来の花嫁である義理の妹の身代わりとして。

2年間、彼の人生で最も暗い時期に寄り添い続けた。
しかし――

妹の帰還により、彼らの結婚生活は揺らぎ始める。
共に過ごした日々は、妹の存在の前では何の意味も持たないのか。
家族の縁を切った日、兄たちはすべてを失った

家族の縁を切った日、兄たちはすべてを失った

353.8k 閲覧数 · 連載中 · 風見リン
前の人生で両親が交通事故で亡くなった後、長兄は世間体を気にして、事故を起こした運転手の娘を家に引き取った。
公平を期すという名目のもと、兄たちは彼女からリソースを根こそぎ奪い、その尊厳を踏みにじってまで、運転手の娘を支えた。
彼女は兄たちのためにすべてを捧げたというのに、家を追い出され、無残に死んだ。

生まれ変わった今、彼女は人助けの精神などかなぐり捨てた。許さない、和解しない。あなたたちはあなたたちで固まっていればいい。私は一人、輝くだけ。

兄たちは皆、彼女がただ意地を張っているだけだと思っていた。三日もすれば泣きついて戻ってくるだろうと高を括っていたのだ。
だが三日経ち、また三日経っても彼女は戻らない。兄たちは次第に焦り始めた。

長兄:「なぜ最近、こんなに体調が悪いんだ?」――彼女がもう滋養強壮剤を届けてくれないからだ。
次兄:「会社のファイアウォールは、なぜこうも問題ばかり起こす?」――彼女がメンテナンスに来なくなったからだ。
三兄:「新薬の開発が遅々として進まないのはなぜだ?」――彼女が治験をしなくなったからだ。
四兄:「どうしてこんなにつまらない脚本しか上がってこない?」――彼女がもう執筆しないからだ。
五兄:「この義肢は、なぜこんなに出来が悪いんだ?」――彼女が製作をやめたからだ。
六兄:「なぜチームが負けた?」――彼女が脱退したからだ。

兄たちは地に膝をついて許しを請うた。「戻ってきてくれ。俺たちこそが、血を分けた本当の家族じゃないか」

彼女は絶縁状を兄たちの顔に叩きつけ、冷ややかに笑った。
「車が壁にぶつかってから、ようやくハンドルを切ることを覚えたのね。株が上がってから、ようやく買うことを覚え、罪を犯して判決が下ってから、ようやく悔い改めることを覚えた。残念だけど、私は――許さない!」
つわり発覚!? 禁欲上司に甘やかされすぎて、胸キュンが止まりません!

つわり発覚!? 禁欲上司に甘やかされすぎて、胸キュンが止まりません!

24.7k 閲覧数 · 連載中 · 佐伯綾子
結婚3周年の記念日、私は妊娠検査薬の書き込み(結果)をプレゼントとして夫に贈った。だけど、返ってきたのは1枚の写真――女の胸に添えられた、男の手。その指に光る結婚指輪が、すべてを物語っていた。

それは私の夫の手。――彼は、浮気をしていた。
マフィア姫の帰還

マフィア姫の帰還

35.4k 閲覧数 · 完結 · Tonje Unosen
タリアは何年ものあいだ、母と義理の妹、そして継父と暮らしてきた。だがある日、ついにそこから逃げ出すことに成功する。

ところがその直後、自分にはまだ外に家族がいるのだと知る。そして本当に自分を愛してくれる人たちが大勢いることも――そんなものは今まで感じたことがなかった。少なくとも、彼女の記憶にあるかぎりでは。

タリアは人を信じることを学ばなければならない。新しくできた兄たちにも、ありのままの自分を受け入れてもらわなければならないのだ。
シングルマザーですが、元夫にまだ愛されています

シングルマザーですが、元夫にまだ愛されています

4.4k 閲覧数 · 連載中 · ほしの ちなつ
交通事故の後、私は死亡したと宣告された。あの時、私の夫は彼の心の中の最愛の人を必死に救おうとしていた。

五年後、私は最高峰の医術と二人の可愛い子供を連れて戻ってきた。今や世間の人々は私のことを名を轟かせるアヤメ先生と呼んでいる。

江原翼は目を赤くして私の前に立ちはだかり、声を詰まらせた。「雪音、俺たちの子供は……まだ生きているのか?
不倫夫を捨て、私は大富豪の妻になる

不倫夫を捨て、私は大富豪の妻になる

250.6k 閲覧数 · 連載中 · 七海
人生最良の日になるはずだった、結婚式当日。
新郎の車から出てきたのは、見知らぬ女の派手なレースの下着だった。

しかも、その布切れにはまだ。生々しい情事の痕跡が残されていた。

吐き気がするほどの裏切り。
幸せの絶頂から地獄へと突き落とされた私。

けれど、泣き寝入りなんてしてやらない。
私はその場でウェディングドレスの裾を翻し、決意した。

「こんな汚らわしい男は捨ててやる」

私が選んだ次の相手は、彼など足元にも及ばない世界的な億万長者で?
余命宣告された日、帰宅するとベッドに「引き裂かれた愛人の下着」があった

余命宣告された日、帰宅するとベッドに「引き裂かれた愛人の下着」があった

45.1k 閲覧数 · 連載中 · 七海
結婚して5年、夫とは円満だと思っていた。
しかし、運命は残酷だ。

病院で「白血病」という絶望的な診断を受けたその日。
震える足で帰宅した私の目に飛び込んできたのは、夫の裏切りの証拠だった。

私たちの神聖な寝室。
そのベッドの上には、無惨に引き裂かれたレースの下着がわざとらしく残されていたのだ。

それは明らかに、夫の愛人からの宣戦布告。
「あなたはもういらない」と嘲笑うかのような、残酷なマウントだった。

命の期限を突きつけられた日に、愛まで失った私。
絶望の淵で、私はある決断を下す。
跡継ぎ問題に悩む御曹司様、私がお世継ぎを産んで差し上げます~十代続いた一人っ子家系に、まさかの四つ子が大誕生!~

跡継ぎ問題に悩む御曹司様、私がお世継ぎを産んで差し上げます~十代続いた一人っ子家系に、まさかの四つ子が大誕生!~

376.7k 閲覧数 · 連載中 · 蜜柑
六年前、藤堂光瑠は身覚えのない一夜を過ごした。夫の薄井宴は「貞操観念が足りない」と激怒し、離婚届を突きつけて家から追い出した。
それから六年後——光瑠が子どもたちを連れて帰ってきた。その中に、幼い頃の自分にそっくりの少年の顔を見た瞬間、宴はすべてを悟る。あの夜の“よこしまな男”は、まさに自分自身だったのだ!
後悔と狂喜に押し流され、クールだった社長の仮面は剥がれ落ちた。今や彼は妻の元へ戻るため、ストーカーのようにまとわりつき、「今夜こそは……」とベッドの隙間をうかがう毎日。
しかし、彼女が他人と再婚すると知った時、宴の我慢は限界を超えた。式場に殴り込み、ガシャーン!と宴の席をめちゃくちゃに破壊し、宴の手を握りしめて歯ぎしりしながら咆哮する。「おい、俺という夫が、まだ生きているっていうのに……!」
周りの人々は仰天、「ええっ?!あの薄井さんが!?」
溺愛令嬢の正体は、まさかの霊能界トップ!?

溺愛令嬢の正体は、まさかの霊能界トップ!?

261.5k 閲覧数 · 連載中 · 朝霧祈
原口家に取り違えられた本物のお嬢様・原田麻友は、ようやく本家の原田家に戻された。
──が、彼女は社交界に背を向け、「配信者」として自由気ままに活動を始める。
江城市の上流社会はこぞって彼女の失敗を待ち構えていた。
だが、待てど暮らせど笑い話は聞こえてこない。
代わりに、次々と大物たちが彼女の配信に押しかけてくるのだった。
「マスター、俺の命を救ってくれ!」──某財閥の若社長
「マスター、厄介な女運を断ち切って!」──人気俳優
「マスター、研究所の風水を見てほしい!」──天才科学者
そして、ひときわ怪しい声が囁く。
「……まゆ、俺の嫁だろ? ギュってさせろ。」
視聴者たち:「なんであの人だけ扱いが違うの!?」
原田麻友:「……私も知りたいわ。」
離婚後、奥さんのマスクが外れた

離婚後、奥さんのマスクが外れた

315k 閲覧数 · 連載中 · 来世こそは猫
結婚して2年後、佐藤悟は突然離婚を申し立てた。
彼は言った。「彼女が戻ってきた。離婚しよう。君が欲しいものは何でもあげる。」
結婚して2年後、彼女はもはや彼が自分を愛していない現実を無視できなくなり、過去の関係が感情的な苦痛を引き起こすと、現在の関係に影響を与えることが明らかになった。

山本希は口論を避け、このカップルを祝福することを選び、自分の条件を提示した。
「あなたの最も高価な限定版スポーツカーが欲しい。」
「いいよ。」
「郊外の別荘も。」
「わかった。」
「結婚してからの2年間に得た数十億ドルを分け合うこと。」
「?」
監禁から1年、捨てられた令嬢は元婚約者の叔父を娶る

監禁から1年、捨てられた令嬢は元婚約者の叔父を娶る

62.6k 閲覧数 · 連載中 · 鈴木楓花
監禁から1年。ようやく帰宅した今井心晴を待っていたのは、変わり果てた日常だった。
家族は心晴を探そうともせず、あろうことか姉の今井優奈のために盛大な誕生日パーティーを開いていた。
しかも、その横には心晴の元婚約者の姿が……二人は婚約していたのだ。
しかし、心晴はただの被害者ではなかった。
彼女は人知れず巨額の資産と強大なコネクションを築き上げていたのだ。
真実を知った心晴は、復讐の狼煙を上げる。
彼女が選んだ新たなパートナーは、なんと元婚約者の叔父だった。
「これからは私のことを『おばさん』と呼ぶのよ、優奈!」
彼女を誘惑して、一夜で虜になった

彼女を誘惑して、一夜で虜になった

77.3k 閲覧数 · 連載中 · 月見光
結婚して三年——
彼は毎晩、私を抱きながらも、心はいつも“好きな人”にあった。
私は必死に「今泉夫人」としての役目を果たし、
愛のない結婚を繋ぎとめようとしていた。

けれど、妊娠がわかったあの日——
最愛の夫は私を手術台に押しつけて言った。
「小島麻央、子供とお前、どちらかしか生かせない。」
その言葉で、私の世界は雲散霧消した。粉々になった心を抱えて、私はすべてを捨てて去った。
──再会した時、
私はもう、かつての小島麻央ではなかった。
世界を驚かせるほど、美しく、強く、生まれ変わったのだ。跪く元夫が囁く。「麻央、帰ってきてくれ……」私は微笑んで答えた。「ごめんなさい。もう男には興味ないの。」その瞬間、彼は私を抱き寄せ、低く笑った。
「昨夜の君は、そうは言わなかっただろ……?」