第3章

 意識は、あの夜へと引き戻されていた。

 彩花の一周忌の夜だ。

 幸雄は泥酔し、彩花の遺影の前にへたり込んで泣き崩れていた。彼は同じ言葉を何度も、呪文のように繰り返す。

「俺が守ってやれなかった……守ってやれなかった……」

 私が傍にいて根気よく尽くせば、いつか彼の心の傷も癒える日が来る。そう信じていた。

 熱いスープを注いだお椀を手に近づき、私はそっと声をかけた。

「幸雄、少しスープでも飲んで。今日、一日中何も食べてないじゃない——」

 バァンッ!

 彼の手が荒々しくお椀を弾き飛ばし、熱い液体が四方八方に飛び散る。次の瞬間、獲物を狙う獣のように伸びてきた手が私の首を鷲掴みにし、壁へと激しく叩きつけた。

 血走った両眼。狂気に満ちた形相。

「どうしてお前が生き残った? 死ぬべきはお前の方だったんだ! 俺がお前なんかを助けなければ、あいつは今頃生きていたのにッ!」

 私の手は、本能的に自らの下腹部を庇うように動いた。そこにはかつて、小さな命が宿っていたのだ。幸雄の蹴りが容赦なく腹にめり込み、その命を強制的に終わらせるまでは。

 血の海に倒れ伏す私を見下ろし、彼は冷酷な嘲笑を浮かべて言い放った。

「まだ悲劇のヒロインを気取るつもりか?」

 前世での三年間に及ぶ結婚生活。私は愚かにも真心を捧げ、ひたすらへりくだり、従順に振る舞い、十分に『懺悔』すれば、いつか必ず幸雄が振り向いてくれると信じて疑わなかった。

 しかし、そんな日は決して訪れなかった。

 彼は私のことなど、一度たりとも愛していなかったのだ。

 私など、彼が藤森家の寵愛を得るための踏み台に過ぎない。そして彩花こそが、彼の心に輝く真の月光だった。冷たく死に絶えながらも永遠に完璧な月灯り。彼はそれを武器に、私の一生をいたぶり続けたのだ。

 これ以上、感情を抑え込むことなど不可能だった。目尻から零れ落ちた涙が、冷え切った肌を焼くように伝っていく。

 哲は私が泣いている理由を問いただすこともなく、ただタオルを傍らに置き、水の入ったグラスを差し出した。

 微かに唇を震わせ、私は小さく呟く。

「ありがとう」

「さっき俺に噛みついた時だが」

 不意に哲が口を開いた。その口調には、ほんの僅かながら笑みが滲んでいる。

「思ったより力強かったな」

 途端に、カッと頬が熱を帯びるのを感じた。

「……ごめんなさい」

 掠れた声で、私は謝罪を口にする。

 哲は私の視線を追って自らの肩へ目を向けたが、その表情は相変わらず静かなままだった。

「気にするな」

 そう言いながら、彼は私の毛布を胸元まで引き上げてくれる。

「他人に噛みつく気力があるなら、まだ生きている証拠だ」

 どういうわけか、その言葉が再び私の目頭を熱くさせた。

 慌てて顔を背け、窓の外を眺めるふりをする。

 彼を呼んだ。

「哲」

「ありがとう」

 私は心からの言葉を紡ぐ。

「助けてくれて、本当にありがとう」

 彼はベッドの傍らに立ち、静かに私を見下ろしている。

「熱がまだ下がっていない」

 彼が淡々と告げる。

「傷口が感染を起こしていたから、抗生物質を投与した。今夜はまだ熱が上がるかもしれないが、命に別状はない。手はずを整えて、藤森島の屋敷まで護衛をつけよう」

 私は暫し、沈黙に沈んだ。

 藤森の屋敷に戻る。

 あの『家』へ。母はとうの昔に他界し、父とは一年に一度顔を合わせるかどうか。執事でさえ私と口を利くのを嫌がるような、あの冷たくて空虚な巨大な館へ。

 授業参観のたび、教室の一番後ろでいつも一人ぽっちだったことを覚えている。十八歳の誕生日、ひどく酔っぱらって、母の肖像画を抱きしめたまま一晩中泣き明かしたことも。

 前世での、あの地獄のような三年間が脳裏を掠める。

 暴力。罵倒。自分が一体何を間違えたのか、どうしてこんな結末を迎えたのかと、ベッドの上で悶々と考え続けた眠れぬ夜。失われた我が子。私の存在そのものが亡き最愛の女に対する冒涜であるかのように、蔑みの目を向けてきた幸雄。

 そして今この瞬間、幸雄はおそらく彼の『白月の妻』に付き添っているのだろう。彼女の張り詰めた神経を宥め、水を運び、その華奢な肩に上着をかけ、『大丈夫だ、俺がついている』と優しく囁いているに違いない。波止場に見捨てられ、死を待つしかなかった婚約者のことなど、彼の頭には微塵も残っていないはずだ。

「嫌」

 私ははっきりと首を振った。

「帰りたくない」

 そして、縋るように問いかける。

「ここに、いさせてもらえない?」

 前世でのあるチャリティーパーティーでの出来事を思い出す。あの夜、酔った幸雄は人目につかない廊下の片隅で、私を激しく問い詰めていた。

 そこへ偶然現れたのが哲だった。彼は適当な理由をつけて幸雄を連れ出してくれたのだ。去り際、私を一瞥し、微かに頷いてから姿を消した。

 なぜ彼がそんな真似をしたのか、ずっと分からなかった。

 それでも心の奥底で、彼が悪い人間ではないことだけは理解していた。

 哲は、スッと目を細めた。

 彼が顔を近づけてくる。温かい吐息が私のこめかみを掠めた。そして彼が伏し目がちになった瞬間、その口角が僅かに持ち上がる——光の悪戯かと思うほど、ほんの些細な変化だった。

「瞳、ここに滞在するのはタダじゃないぞ」

 耳元で、低く甘い声が囁く。

「このまま俺の家に居座るなら、俺に借りができる。そして俺は、決して安く取り立てるような真似はしない」

 唇を震わせたものの、どう返答すべきか分からなかった。近すぎる。訳もなく鼓動が早まる——これが死地を脱したばかりの安堵からくるものなのか、それともこの艶めかしい空気のせいなのか、私には判別がつかなかった。

 彼は逞しい腕で私の身体を支える。

「地下の武器庫は療養に向かない。地上のセーフハウスへ連れて行こう」

 その口調はすっかり平素の冷淡さを取り戻しており、先ほどの親密さなど全て私の錯覚であったかのようだった。

 私たちが地上へ出て通りに足を踏み入れた途端、捜索活動の真っ最中であった幸雄と、彼が率いる毒蛇グループの連中に鉢合わせた。

 私を一目見るなり、幸雄は雷に打たれたように完全に硬直した。

「瞳?!」

 驚愕に震える声。彼は酷く心配そうな顔つきで、私に向かって駆け寄ってくる。

「無事だったのか? ずっと探していたんだぞ——」

 私は一歩後ずさりして哲の背に隠れるように寄り添い、冷え切った視線で幸雄を見上げた。

「私を探していたの?」

 極めて冷静な声で、私は問い返す。

「それとも、私の死体を探していたのかしら?」

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