第1章 台風前夜
日が西の山稜に沈み、潮見島の漁港は一面、燃えるような茜色に染まっていた。潮風が独特の塩辛い匂いを運び、波止場全体を吹き抜けていく。
私は潮見島漁協のジャンパーの襟をきつく締め、女性部の仲間たちに声を張り上げた。
「みんな、手を急いで!台風がそこまで来てるわよ!」
巨大な漁網が、濡れたまま無数に波止場へ広げられている。これらは漁師たちの命綱そのものだ。私は手際よく数を数え、それぞれを格納すべき倉庫を割り当てていく。
「紬部長、この台風、本当にそんなに大きいんですか?」
若い美香が、漁網の運搬を手伝いながら心配そうに尋ねてきた。彼女が潮見島に来てまだ日は浅い。このような緊急事態は初めての経験なのだろう。
「気象庁の予報だと、最大風速は『猛烈な』クラスになるかもしれないって。私たちは海で生きてるんだから、油断は禁物よ」
私は額の汗を拭い、そう答えた。
年配の漁師である松下さんが、大きなため息をつく。
「こうして網を陸揚げするたび、大損だねえ」
「松下さん、心配しないで。まずは安全が第一よ」
私はそう慰めつつ、内心では別の不安が渦巻いていた。
「組合の方で、何とか補填を考えるから」
ここ数年、漁獲量は減る一方で、漁協の台所事情も苦しい。しかし、部長として皆を不安にさせるわけにはいかない。
網を片付けながら、私は時折、海上保安庁の庁舎がある方角へ目をやった。圭一は今日、手伝いに来てくれるだろうか。以前は台風と聞けば、いつも一番に駆けつけてくれたのに。空が昏さを増していく中、彼の姿はまだ見えない。
「紬ちゃん、あんたんとこの圭一はまだ来ないのかい?」
松下さんが、遠慮のない口調で尋ねる。
「こういう時こそ、誰よりも張り切ってたもんだがねえ」
「圭一は今、仕事が大変なの。台風の時期は特に任務が立て込むから」
私は無理に笑顔を作った。隣で黙って網を引いていた美香が、探るような視線で私の表情を窺っていることに、気づかないふりをした。
私たちが最後の数枚の網を倉庫に運び込もうとしていた、その時だった。
遠くから、バイクの排気音が響いてきた。
振り返ると、圭一だった。
海上保安庁の制服を着た彼は、その顔に深い疲労の色を浮かべている。
私は思わず駆け寄った。
「圭一!来てくれたのね、てっきり来ないものだと……」
「通りかかっただけだ」
圭一はバイクを停めると、温度のない声で言った。まるで冷蔵庫から取り出したばかりのような、冷え切った声だった。
私の頬から、さっと笑みが消える。
「そ、それなら……少しでいいから手伝ってくれない?この網、すごく重くて……」
「台風の間は、海上での救助要請に備えて庁舎で待機だ。今夜は帰らない」
圭一は私と視線を合わせようともせず、ただ淡々と告げた。
周りで作業していた女性部の人たちが、ひそひそと囁き合う。その奇異な視線が、私の頬をじりじりと焼いた。
「……そう。じゃあ、気をつけてね」
必死に笑顔を保つ私に、圭一はさらに硬い声で応えた。
「お前もな」
彼はヘルメットを被り直すと、エンジンをかけて走り去った。その場に立ち尽くす私は、遠ざかる背中を見つめながら、必死に涙をこらえた。
美香がそっと隣に寄り添う。
「紬さん、圭一さん、本当にお仕事が大変なんですね」
「……ええ、そうなの」
私は自分の落胆を誰にも悟られまいと、再び網に手を伸ばした。
網の片付けがようやく終わる頃には、空はすっかり闇に包まれ、遠くに見える山の上の神社で、石灯籠の明かりが灯っていた。
「紬ちゃん、神社にお参りに行こうじゃないか」
松下さんが提案した。
「台風の前夜はね、家族の無事を神様にお願いするもんなんだよ」
それは、潮見島の古くからの習わしだった。台風が来るたび、島の人々は高台の神社で祈りを捧げる。
私は少し躊躇した。
「圭一は最近ずっと当直だし、私一人で行くのも……」
「私が一緒に行きます」
美香が、すっと手を挙げた。
「私も、島の皆さんのために祈りたいですから」
闇が天を覆い、山道はぬかるんで歩きにくい。神社の石灯籠が、風に揺れながら温かい光を投げかけていた。
私は神前に跪き、静かに両手を合わせる。
どうか、圭一が無事でありますように。島の皆が無事でありますように。
心の中で、何度も繰り返した。
隣で同じように跪く美香も祈っているようだったが、その意識はどこか別の場所にあるように感じられた。
年老いた宮司が、慈しむような眼差しでこちらへ歩み寄ってくる。
「紬さん。今日は、圭一さんはご一緒ではないのかね?」
「あ……はい。仕事が立て込んでいるそうで」
私は少し気まずく思いながら説明した。
風の音は次第に強まり、拝殿に吊るされた銅鑼が風に煽られ、ちりり、と不吉な音を立てていた。
帰り道、波の音は唸りを上げていた。私と美香は、細い道をゆっくりと下っていく。
「紬さん、圭一さんと……」
美香が、何かあったんですか、と慎重に切り出した。
私はしばらく黙っていたが、とうとう堪えきれずに胸の内を吐き出した。
「三年前からなの。圭一、すごく冷たくなった……」
「三年前?何かきっかけが?」
「思い当たることが、何もないの。新婚の頃はあんなに優しかったのに、今はまるで他人みたい」
記憶が、洪水のように胸に込み上げてくる。
あの頃の圭一は、いつも朝食を作ってくれた。仕事で疲れていると、黙って肩を揉んでくれた。台風の夜には、怖がる私を「俺がいるから大丈夫だ」と、強く抱きしめてくれた。
今はどうだ。圭一は私を、まともに見ようとさえしない。
「もしかしたら、ただ仕事のストレスが溜まってるだけかもしれませんよ」
美香が慰めてくれる。
「男の人って、そういうのをうまく言葉にできない時がありますから」
「だと、いいんだけど……」
その時、美香の目に何かが閃いた。そして、まるで義憤に駆られたかのように言った。
「まさか……他に好きな人でもいるとか?」
「ありえない!」
私は即座に否定した。
「圭一はそんな人じゃないわ!」
けれど、そう言い切った自分の声に、少しの自信もなかった。
島の中心にある分かれ道まで来た時、私たちはそれぞれの家路につくことにした。
「紬さん、明日、漁協の帳簿整理、手伝いましょうか?」
美香が不意に提案した。
「本当?助かるわ!」
私は心から感謝した。
「でしたら、明日のご予定は?それに合わせて伺いますので」
「午前中は漁網の被害状況を確認して、午後は事務所にいるつもりよ」
その時、風は明らかに強さを増していた。道行く人々は足を速め、商店は雨戸を閉め、窓を板で補強し始めている。
台風が、本当にやってくる。
突然、美香の携帯が鳴った。彼女は番号を一瞥するとわずかに顔色を変え、慌てて電話に出て二言三言話すとすぐに切った。
「どうしたの?」
私が心配して尋ねる。
「東京の友達から。台風を心配してくれて」
美香は少し強張った顔で説明した。
別れ際の彼女の眼差しは複雑だった。申し訳なさそうでもあり、何かを決心したようでもあった。
「紬さん、気をつけて帰ってくださいね」
彼女がそう言った時、その声にはどこか普段と違う響きがあった。
私は一人で家路についた。がらんとした家の中には、風の唸りだけが響いている。
圭一の写真立てを手に取った。まだ私たちが新婚の頃に撮ったもので、写真の中の彼は、あんなにも晴れやかに笑っているのに。
今の私たち、一体どうしてしまったんだろう。
台風は、間もなくだ。そして私は、かつてないほどの孤独を感じていた。










