第2章 消えた潮騒
風の唸りが激しさを増し、窓が絶え間なくガタガタと揺れている。ベッドに横たわるものの、何度も寝返りを打つばかりで、一向に眠気が訪れない。午後、網を片付けた際にどこかロープの結びが甘かったのではないかという懸念が、ずっと頭から離れなかった。
万が一、台風で漁網が吹き飛ばされでもしたら……。
スマートフォンの画面に目を落とすと、時刻は二十三時を回っていた。圭一からの返信は、まだない。
「……仕方ない。どうせ眠れないんだ。漁港へ行って、もう一度見てこよう」
そう自分に言い聞かせた。本当は、ただ何かをすることで、この家に一人でいることから気を紛らわせたいだけなのだと、心のどこかで分かっていた。
レインコートを羽織り、長靴に足を通す。懐中電灯を握りしめ、私はますます強まる風雨の中を漁港へと向かった。
台風の夜の漁港は、まるで別世界だった。巨大な波が防波堤に狂ったように打ちつけ、数メートルもの高さの水飛沫を上げる。停泊する漁船のマストが、心臓を鷲掴みにされるような軋み音を立てていた。風の音は、まるで鬼の哭き声のように、あらゆる隙間から吹きつけてくる。
私は慎重に倉庫へ向かい、その重い扉を押し開けた。中には、午後に引き上げた漁網がきちんと積み上げられている。ほっと一息つき、念のため点検を始めた。
すると、確かに数本のロープが緩んでいるのを見つけた。私が屈み込んで結び直そうとした、その時。倉庫の外で、不意に人影が揺らめいた。咄嗟に懐中電灯の光を入口に向ける。
三人の覆面の男たちが、出口を塞ぐように立っていた。心臓が喉元まで跳ね上がる。
「あなたたち、誰……?何がしたいの?」
リーダー格と思しき男が口を開く。その日本語には、奇妙な訛りがあった。「怖がることはない。協力すれば、傷つけはしない」
恐怖に駆られて後ずさると、背後の漁網に足を取られて倒れ込んだ。「来ないで!助けて!」
だが、私の声は台風の咆哮に虚しく掻き消された。横をすり抜けようと試みるも、彼らの動きはあまりにも速い。一瞬で取り押さえられ、手から滑り落ちたスマートフォンは、無情にもブーツの底で踏み砕かれた。
「大人しくしろ。お互いのためだ」
別の男がそう言いながら、手慣れた様子で私の両手をロープで縛り上げる。その動きは極めて専門的で、明らかに訓練を受けている者のそれだった。
その時だった。倉庫の入口に、新たな人影が現れた。黒いレインコートのフードが外されると、そこには見慣れすぎた顔があった。
「美香……!?」私は目を見開いた。信じられない。「どうして……あなたが、ここに?」
美香は私の視線を真っ直ぐに受け止めず、まるで他人に対するかのように冷たい声で言った。「ごめんなさい。……仕事なの」
絶望が、冷たい潮水のように全身に満ちてくる。昼間は一緒に網を片付け、夜には神社の祭りに誘ってくれた美香が、まさか。
「美香……友達だって、妹みたいに思ってたのに……どうしてこんな酷いことをするの?」声が、自分でも気づかぬうちに震えていた。
しかし、彼女はもう何も答えなかった。男たちが私の口を塞ぎ、用意されていた麻袋に乱暴に押し込む。後頭部を鈍器のようなもので殴られ、遠のいていく意識の中で最後に聞こえたのは、外で響く漁船のエンジン音だった。
保安庁の当直室で、圭一は海域救助の事前計画案に目を通していた。表向きは職務に集中しているが、心はとっくに紬の元へ飛んでいる。
これほどの台風だ。彼女は一人で家にいて、無事だろうか。
突然、私用のスマートフォンが鳴った。見知らぬ番号だ。一瞬の躊躇ののち、応答する。
「夏川圭一か」
電話口から聞こえてきたのは、ボイスチェンジャーで加工された、無機質な声だった。
圭一の心臓が、どくんと大きく脈打つ。「誰だ」
「お前の妻は預かった。身代金二千万円を用意しろ。さもなければ……」
心臓を氷の手に掴まれたような衝撃に、圭一は拳を固く握りしめた。だが、もしこれが自分の正体を暴こうとする敵の罠だとしたら?
この三年間で叩き込まれた偽装訓練が、脳裏をよぎる。彼は深く息を吸い込み、できる限り冷酷に聞こえる声色を作った。
「そんな稚拙な詐欺に引っかかると思ったか。それに、あの女は俺にとって厄介者でしかない。いっそあんたたちが始末してくれた方が、せいせいする」
電話の向こうは、明らかに虚を突かれたようだった。「……本気で、妻を助けないつもりか」
「ああ。永遠に消えてくれるのが一番だ」
圭一は歯を食いしばりながら、その言葉を口にした。一言一言が、刃となって自らの心を切り刻んでいく。
通話を切った直後、圭一は急いで紬の番号を呼び出した。しかし、返ってくるのは無機質な呼び出し音だけだった。
圭一は苦悶に頭を抱え、一筋の涙が頬を伝う。だがそれも束の間、すぐに手の甲で乱暴に涙を拭い、鋼のような表情を取り戻した。
「紬、すまない……!俺には……こうするしかない理由があるんだ」
深夜の島は、漆黒の闇に包まれていた。台風による停電で、潮見島全体が非常灯と懐中電灯の僅かな光だけを頼りにしている。
松下お婆さんが夜中に厠へ起きると、隣の紬の家が真っ暗で、人の気配がまるでないことに気づいた。
「こんなどえらい台風に、あの子はどこへ行ったんじゃろうか」
心配になったお婆さんは、他の隣人たちを起こして回った。あっという間に、紬がいなくなったという知らせは島中に広まっていく。
「漁港に行ったんじゃねえか?」
「こんな嵐の中じゃ、危なすぎる!」
島民たちは自発的に捜索隊を組織し、荒れ狂う暴風雨の中をそれぞれ手分けして探し始めた。懐中電灯の光が、闇夜の中で不安げに交錯する。
美香も捜索隊に加わり、誰よりも焦った様子を見せていた。
「紬姉さんは普段から責任感が強いから、きっと漁網が心配で出て行ったんだわ!」
「そうじゃ、あの子はそういう子じゃからのう……」松下お婆さんは、涙を拭った。
村長が圭一に電話をかけた。「圭一君、紬さんがおらんのじゃ!今みんなで探しておる、君もはよ戻ってこい!」
電話の向こうから聞こえてきたのは、圭一の苛立ちを隠そうともしない声だった。
「好きにさせとけばいいじゃないですか。いい大人なんだから、いちいち人の手を煩わせるな。こっちは公務中だ、あいつ一人に構ってる暇はないんですよ!」
島民たちは皆、耳を疑った。ここ数年、圭一がどこか冷たくなったと感じてはいたが、ここまで非情だとは思わなかった。
「圭一君、紬さんは君の奥さんじゃろうが!」
「見つからなくても構いませんよ。手間が省ける」圭一の口調は、さらに冷え切っていた。
電話を切った後、村長は圭一の言葉を捜索隊に伝えた。島民たちの間に、怒りの声が上がる。
「なんで紬さんにあんな態度がとれるんだ!」
「紬さんのような良い人を、あいつは大事にしとらんかったのか!」
美香が、ここぞとばかりに火に油を注いだ。「私、前から圭一さんのこと、少しおかしいと思ってたんです。紬姉さんから聞いたんですけど、よく夜中に『任務だ』とか言って出かけてたって……もしかして、他に女の人がいるんじゃ……」
島民たちの憤りは、頂点に達した。普段、紬がどれだけ島のために尽くしているかを知っているだけに、圭一の仕打ちが許せなかったのだ。
漁港、海辺、山道。捜索隊は考えられる場所を全て探したが、紬の姿はどこにもなかった。台風の威力はピークを迎え、捜索活動は已む無く中断される。
「夜が明けたら、また探そう」村長は、無念そうにそう告げた。
未明、保安庁の当直室には圭一一人が残っていた。彼は暗闇の中に独り座り、紬がスマートフォンに残した留守番電話のメッセージを繰り返し再生していた。
『圭一、台風がすごいから、気をつけてね』
紬の優しい声が、静まり返った部屋に響く。圭一は苦悶の表情でメッセージを削除し、また復元する。それを何度も何度も繰り返し、心は極限まで引き裂かれていた。
その頃、美香は捜索隊が休憩している隙を見て、物陰でこっそりとメッセージを送っていた。
『貨物は確保。予定通り進行中』
スマートフォンの画面が放つ青白い光が、彼女の歪んだ横顔を不気味に照らし出していた。
島の役場に集まった島民たちは、まだ圭一の冷血な態度について憤っていた。
「あの夫婦、一体どうしちまったんだか」
「紬さんは普段あまり口に出さんかったが、苦労しとるようには見えたのう」
「圭一君は、昔はあんな人間じゃなかったんじゃがなあ……」
空が次第に白み始め、台風は勢力を弱めてきた。だが、紬は依然として行方不明のままだ。その時、圭一のスマートフォンが再び鳴った。上司である田中警部補からの、秘匿回線の着信だった。
「状況が変わった。冷静に行動しろ」田中警部補の声は、低く抑えられている。「紬さんの件……計画通りに進める」
圭一の心は、奈落の底へと沈んでいった。「奴ら、本当に紬に手を出したのか……!」
ほぼ同時に、美香も一本の電話を受けていた。彼女は素早く人目につかない隅へ移動すると、聞き慣れない言語で短く応じる。
「了解。計画通りに」
台風の夜は、明けた。だが、さらに大きな嵐が、今まさに始まろうとしていた。










