第3章 波の証言
夜明け前の午前五時。台風一過の潮見島の海岸線は、無残な姿を晒していた。砂浜には嵐が残した禍々しい置き土産が散乱している――黒緑色の海藻、引き千切られた漁網、無数のプラスチックごみ。そして、深海から打ち上げられたのか、正体不明の生物の残骸が、吐き気を催すほどの生臭い匂いをあたりに放っていた。
田村爺さんが、杖を頼りに難儀しながら砂浜を歩いていた。島で最高齢の現役漁師である彼は、大時化の後は必ずこうして浜の様子を見に来るのが長年の習わしだった。ごう、と吹きつける潮風が、老人の白い髪を無遠慮に掻き乱す。
「やれやれ、今度のはとんでもねえ奴だったわい」
独りごちながら、杖で足元の海藻を掻き分けた、その時だった。
波打ち際にほど近い場所に、何か異様なものが打ち上げられている。老人は最初、大きなごみ袋か何かだろうと思った。だが、数歩近づいて、それが人の形をしていることに気づき、全身の血が凍りついた。
「ひっ……!」
声にならない悲鳴を上げ、思わず数歩後ずさる。顔色は瞬く間に土気色に変わった。
「こ……これは……!」
震える手で懐から携帯電話を取り出すと、島の駐在所へと電話をかけた。
「もしもし、駐在さんか!?浜に……浜に人が、死んどる!はよ来てくれ!」
老人の声は切迫し、ほとんど裏返っていた。
知らせは、狭い島を瞬く間に駆け巡った。三十分と経たないうちに、夜も明けきらぬ海岸に島民たちが続々と集まってくる。人々は遺体を遠巻きに囲んだが、誰も恐ろしくて近づこうとはしない。人垣のあちこちで、ひそひそと不安げな声が交わされていた。
「まさか……昨夜からおらん、紬さんじゃないか?」
「そんな偶然あるもんか。いなくなった途端に、こんな……」
「ああ、もし本当に紬さんだったら……可哀想に」
美香も人混みの中にいた。他の島民たちと同じように、ただただショックを受けたという表情で、その光景を呆然と見つめている。
やがて村長が駆けつけ、すぐさまロープで規制線を張ると、野次馬と化した島民たちを大声で制した。
「みんな、下がりなさい!ここから先は入るな!」
その時、圭一は当直室で通報を受けた。海上保安庁の事故調査官として、現場へと急行する。遠目に、波打ち際に横たわる人影を見た瞬間、足の力が抜け、膝から崩れ落ちそうになった。
違う。紬であるはずがない。彼は心の中で何度も否定しながら、無理やり己を律し、深く息を吸い込んで現場へと向かった。
「皆さん、危険です。規制線の外までお下がりください」
圭一の声は、努めて平静を装っていたが、心臓は警鐘のように激しく打ち鳴らされていた。
遺体の状態は、凄惨だった。長時間海水に浸かっていたせいで皮膚は白くふやけ、顔はもはや誰なのか判別できないほどに膨れ上がっている。圭一はゴム手袋をはめると、感情を殺し、専門用語を淡々と口にしながら記録を取っていく。
「遺体は女性、年齢およそ三十代。死亡推定時刻は十二時間以上前……」
彼の声は機械のように安定していたが、ペンを握る手は微かに、しかし確かに震えていた。
島民たちのざわめきが、背後から波のように押し寄せる。
「この体つき……紬さんによく似とるわ」
「着てる服も、昨日紬さんが着てたあの紺色のセーターじゃ……」
その言葉が耳に届いた瞬間、圭一は手にした記録用のペンを取り落としそうになった。彼は自分に鞭打ち検分を続けると、死者の衣服のポケットから、漁協の組合員証を見つけ出した。海水で損傷してはいたが、そこに記された名はまだ判読できた――夏川紬。その文字が、はっきりと印字されていた。
組合員証を目にした瞬間、圭一の世界から色が消えた。視界がぐにゃりと歪み、立っているのがやっとだった。
「圭一君、大丈夫かね?顔色が悪い。少し休んだらどうだ?」村長が、気遣わしげに声をかけた。
圭一は深く息を吸い、プロの仮面を被り直す。「いえ、大丈夫です。これが、俺の仕事ですから」
人混みの中から、美香が静かに圭一の反応を観察していた。彼が固く拳を握りしめた際、指の関節が白く浮き出ているのを、彼女は見逃さなかった。
遺体が紬であると確信した島民たちの感情は、一気に爆発した。
「紬!紬!」松下のお婆さんが泣き叫びながら遺体に駆け寄ろうとし、周りの人々に羽交い締めにされる。
すぐに、人々の激情の矛先は圭一へと向けられた。
数人の老婆が圭一を取り囲み、非難の声を浴びせる。「あんた、昨日の晩、どうして奥さんを探しに行かなかったんだい!」
「あんたが早う帰ってやりゃあ、紬さんは外に出ることも、こんな目に遭うこともなかったんじゃ!」
「この人でなし!紬さんはあんたによう尽くしとったのに、あんたは一体何をしとったんだ!」
それらの言葉は、一本一本が鋭い刃となって圭一の心を突き刺した。だが、彼は沈黙を保ったまま、現場検証を続ける。反論することも、弁明することも、今の彼には許されない。
そこへ、美香が絶妙なタイミングで割って入った。「皆さん、やめてあげてください!圭一さんだって、辛いんですから……」
しかし、彼女は続けて巧妙に囁いた。「でも……確かに不思議ですよね。どうして昨日の夜、あんなに紬姉さんに冷たかったんでしょう……」
その一言が、燻っていた島民たちの怒りに火をつけた。
「そうだ!昨晩、村長が電話した時、こいつは何て言った!?」
「『見つからなくても構わん、手間が省ける』だとよ!」
「これが夫の言うことか!」
罵声の嵐に耐えながら、圭一は苦痛の奥で、いくつかの決定的な痕跡を発見していた。
紬の手首には、明らかな締め跡がある。それはロープで縛られた痕と完全に一致していた。爪の間には、見慣れない繊維片。さらに重要なのは、遺体の一部の損傷が、波に打たれてできたものとは到底考えられない、不自然な形状をしていたことだ。
島の医者が現場に到着し、協力して初期検死を行う。遺体の状況を一瞥した医者は、重い顔で首を振った。「死因は、ここでは断定できん。本土で詳しく調べんと……」
圭一は、専門の法医学者が到着するまで、遺体を島の診療所に仮安置することを提案した。美香が「手伝います」と申し出たが、圭一は氷のように冷たい口調でそれを拒絶した。
「これは専門家の仕事だ。部外者は手を出すな」
美香の目に一瞬、刺すような光がよぎったが、すぐに悲しげな表情に隠す。「……ええ、もちろん。分かっています。ただ、何かお役に立てればと思っただけなんです」
圭一が現場の機材を片付けていると、ごく普通のジャケットを着た中年男性が近づいてきた。
「どうも。新聞社の者ですが、今回の事故について少しお話を伺えませんか」男――田中は、圭一に名刺を差し出した。
圭一は名刺を受け取ると、何気なくそれに目を走らせる。名刺の裏に、ごく小さな特殊なエンボス加工が施されているのを確認した。
「こういう事故は、この島ではよくあるんですか?」田中は、あくまで取材を装って尋ねた。
圭一はそれに合わせるように答える。「海難事故は時折ありますが、今回は……少々状況が特殊です」
二人は歩きながら言葉を交わし、徐々に人垣から離れていく。人気のない場所に着くと、田中が声を潜めた。「状況は想定より悪い。背後には、我々が追っている組織がいる可能性が高い。何があっても冷静さを失うな。絶対に正体を明かすんじゃないぞ」
圭一は、こみ上げるものを抑え、ただ頷いた。その目には、涙が膜を張っていた。「……了解」
「専門の法医学者は、こちらで至急手配する」。田中はそう言うと、再び記者の口調に戻った。「ご協力、ありがとうございました」
遠くで、美香が二人の会話を油断なく目で追っていた。彼女の卓越した読唇術が、話の内容の断片を拾い上げ、その表情を険しいものに変える。
田中は去り際に、最後に圭一へ念を押した。「気を強く持て。嵐の後には、大物が餌に食いついてくる」
圭一は、白い布に包まれた紬の遺体が運ばれていくのを、ただ立ち尽くして見送っていた。
(紬、すまない……。必ず、お前の仇は俺が討つ。この命に懸けて)
その時、美香の携帯電話が短く震えた。彼女は素早く電話に出ると険しい表情になり、人々の注意が逸れた隙に、音もなくその場を離れていった。










