第3章

エララの視点

 全身が氷みたいに冷えきっていた。

 終わった。もう、何もかも終わりだ。

「走りなよ。ほら、もっと走ってみせて」ライラが愉快そうに言う。「どこまで逃げられるのか、見てみたいんだよね」

 ガレスは顔面蒼白のまま、それでも私の前に立った。剣の柄に手をかけ、抜く寸前で踏みとどまっている。

「どうしたの? さっきは勇敢だったじゃない」ライラが薄く笑う。

「ずっと……私たちを、見てたの?」やっとの思いで絞り出した声は、掠れていた。

「見てた? はっ」ライラが鼻で笑う。

「自意識過剰。あの役立たずがあんたを解いた、その瞬間から、私は扉の外にいた。あんたたちの一歩一歩、ぜーんぶ私の目の前」

 絶望が氷水みたいに身体の奥まで染み込んだ。

 最初から罠だった。私たちは、遊ばれていたんだ。

 ライラは伝訊石を取り出し、魔力を流し込む。外放の術式が起動し、石が淡く光った。

「お兄ちゃん、面白い話があるの」甘ったるい声。

『何だ。セラフィナが佳境だ。邪魔するな』ドレイヴンの疲れた声が返ってくる。向こうではセラフィナの苦しげな荒い息と、医師の指示が途切れ途切れに混ざっていた。

「あなたの王妃が王宮から逃げようとしてたの」ライラはわざと間を伸ばし、私を見据える。

「今、私が現行犯で捕まえた」

 伝訊石の向こうが、すっと静まり返る。

『逃げた?』ドレイヴンの声が鋭くなる。

『あいつが、逃げただと?』

「それだけじゃないよ」ライラは舌で唇を湿らせた。

「衛兵をたぶらかして協力させてた。すごいよね。私ですら、ちょっと騙されかけたもん」

「違う! ドレイヴン! 私は誰もたぶらかしてなんか——」

「黙れ!」衛兵が私の腰を蹴り上げた。

 息が詰まり、視界が白く弾ける。私は床に丸まり、呼吸すらできなかった。

『男をたぶらかすだと?』伝訊石からドレイヴンの冷たい笑いが漏れる。

『いいだろう。ライラ。そこまで出て行きたいなら、二度と忘れられない教訓を刻ませろ』

「了解、お兄ちゃん」ライラは石の通信を切った。瞳に、ぞくりとするほどの興奮が灯る。

 そしてガレスを見る。

「跪いて」

 衛兵がガレスの膝裏を蹴る。ガレスは石畳に、どん、と重く膝をついた。

「お願いです……ライラ様……」ガレスの声が震える。「妹は、まだ十歳で……俺がいないと……」

「妹? かわいそ」ライラはしゃがみ、魔法の鞭で彼の顎をくいと持ち上げた。

「王家を裏切る前に、考えるべきだったね」

「何でもします! だから命だけは!」ガレスの涙がこぼれ落ちる。

「何でも?」ライラは立ち上がり、ゆっくりと言った。

「じゃあ、死んで」

 彼女は隣の衛兵に、軽く顎をしゃくる。

「やめ——!」喉が裂けるほど叫んだ。

 閃光。

 首が飛んだ。

 血が噴き上がる。破れた噴水みたいに、どくどくと、止まらない。身体は数拍だけ揺れ、次の瞬間、どさりと倒れた。

 月光が、瞬く間に広がる血溜まりを照らす。目を逸らしたくなる赤。

「いや……いや……ガレス……!」私は這っていった。狂ったみたいに、遺体へ。

 彼の目は開いたままだった。焦点は失われ、もう二度と、動かない。

「満足した?」ライラが見下ろす。

「これが裏切りの末路」

 私は血に濡れたガレスを抱え込み、心が音を立てて壊れていくのがわかった。

「連れて帰れ」ライラが手を振る。

「ゲームの続きだよ」

 衛兵たちが私の腕を乱暴につかみ、遺体から引き剥がす。ガレスの血が衣服にべったりと張りつき、冷たさが骨に刺さった。

 引きずられて戻されたのはパーガトリー。

 扉が、がん、と重く閉まる。

 ライラは腰のポーチから、もう一本の薬瓶を取り出した。中は白い液体。さっきのものより、濃く、重たい色をしている。

「一回で足りると思った?」彼女が瓶を揺らす。液体が中で渦を巻く。

「あれは前菜。本番はこっち」

「や……めて……」私は力なく首を振った。

「この子は……耐えられない……」

「耐えられない?」ライラはしゃがみ込み、瓶を私の目の前で揺らした。

「じゃあ、耐えなくていいようにしてあげる」

 彼女が私の口をこじ開ける。冷たい液体が喉へ流し込まれた。吐き出そうとした瞬間、口と鼻を押さえつけられる。息を奪われ、飲み込むしかない。

「飲め!」ライラが唸る。

 液体が喉を落ちた。

 次の瞬間、稲妻みたいな痛みが全身を裂いた。

 お腹の奥で、子どもが狂ったように暴れる。最後の抵抗みたいに。内臓が引きちぎられる感覚に、意識が遠のきそうになる。

 そして——

 ふっと、止まった。

「いや……お願い……赤ちゃん……動いて……」私は腹を押さえ、かすれる声で縋った。

「お願い……動いて……」

 返事はない。

 下腹から血が溢れ出した。じわじわじゃない。どっと、止まらず、増えていく。

「くそっ!」ライラが血の勢いを見て顔色を変えた。

「何でこんなに出るの……!」

 意識がほどけていく。血が石台を濡らし、竜火の熱で鼻を刺す臭いが立ち上った。

「医師を呼べ!」ライラが甲高く叫ぶ。

「死なせるな! ドレイヴンに殺される!」

 でも、遅かった。

 私は落ちていく。底のない闇へ、どこまでも。やがて黒に、完全に飲み込まれた。


 ドレイヴンの視点

「力を入れろ。もっとだ」

 俺はセラフィナの手を握り、胸が痛むほどに、歪んだ彼女の顔を見つめた。

「陛下、頭が見えました!」医師が弾んだ声で言う。

「もう一度、いきんで!」

 セラフィナが最後の咆哮を上げる。

 ——そして、部屋が静まり返った。

 数秒後、産室に赤子の澄んだ泣き声が響き渡った。

「王子です!」医師が朗らかに告げる。

「健康な男児! ケイル殿下の血脈!」

 皺だらけの小さな塊を見つめ、胸の内に、言いようのないものが渦巻いた。

 ケイルの息子。アッシュウィング王家の、真の継承者。

「ケイルに似てる」セラフィナが弱々しく笑う。

「ほら、鼻……顎も……」

 確かに似ていた。

 死んだ兄と、同じ顔。

 俺はようやく息を吐き、伝訊石を取り出した。王宮へ連絡する。セラフィナが産んだのなら、次はエララを連れて来させるだけだ。

 石が淡く光った瞬間、セロンの取り乱した声が飛び込んできた。

『陛下……』

「彼女を産室へ連れて来い」俺は短く命じた。

「セラフィナは無事に王子を産んだ」

 長い沈黙。

『王妃は……』セロンの声が震える。

『……亡くなりました』

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