第1章 金色のアイリス
「エステル、出て行きなさい!」
教鞭が鼻先を突きつけられた瞬間、小沢かなはようやく気づいた。自分が叱られている言葉を、フランス語で理解している。
顔を上げる。
目の前の女は怒りで唇を震わせ、その背後には薔薇の彫刻が施された白い机がずらりと並んでいた。ふわりとしたドレスの少女たちが一斉にこちらを見ている。口元を押さえる者もいるが、目の奥の笑いは隠しきれていない。
小沢かなは自分の姿を確かめた。
ローズパープルのスカートが膝の上に広がり、袖口から覗く手首は透けるほど白い。金色の巻き髪が一筋、これまで着たこともないレースの上へ滑り落ちる。
さっき、何を言った?
たしか誰かが訊いたのだ。ニール王子とレイン公爵、どちらを選ぶのか、と。
眠気で頭がぼんやりしていて、うるさいと思った。だから適当に返した。選ぶなら当然、いちばん上――光明神でしょ、と。
「神を冒涜する妄想を!」女は教鞭をさらに突き出す。「廊下に立ちなさい。一時間! 今すぐ!」
小沢かなは口を開きかけ、結局スカートをつまんで立ち上がった。
ハイヒールが思うように言うことをきかない。隣の机を支えにしたとき、押し殺した嗤いが耳に刺さった。
「綺麗だからって、何でも望めると思ってるのね」
「ヴィヴィアン姫のほうがずっと高貴よ。神の姫妾になりたいなんて言って、結局は豚にされたんだもの……」
背後で扉が閉まる。
六階の廊下に立つと、風が顔いっぱいにぶつかった。遠くに雪山が連なり、白い鳩が半円のドーム屋根をかすめて飛ぶ。ステンドグラスの光が足元に落ち、影さえも見知らぬ形をしていた。
腕をつねる。
痛い。
夢じゃない。
エステル。ニール王子。レイン公爵。
そして雪山の麓にあるのに寒くない、この城邦。
昨夜読んだばかりの名前が、目の前の世界と一つずつ噛み合っていく。
――『灰姑娘の華麗なる逆襲』。
そこへ入り込んだのだ。しかもシンデレラではない。シンデレラの、愚かで毒のある義姉のほう。
エステル・グラント。
彼女の母は元は貴族の未亡人で、その後、セシリーの裕福な父と再婚した。だが相手は商人で平民のまま。結婚しても、彼も実の娘もグラント家の貴族身分は得られなかった。エステルとセシリーは、もともと血のつながった姉妹ではない。
小沢かなは手すりに掴まった。さっきまで新鮮だった金髪が指先に落ちているのに、眺めている余裕はない。
この少女の結末を、小沢かなは知っている。
干からびた死体が絞首台に吊られ、その隣には母。セシリーは馬車の中から遠目に一度だけ見て、それ以降、哀れなシンデレラを虐げる者はいなくなった。
読んだときは、悪役の定番の末路だと思った。
けれど今、ドレスが自分の身体を包み、指の下で生きた脈が打っている。
死ぬのは自分だ。
なぜ死ぬ?
小沢かなは目を閉じ、必死に記憶を掘り起こす。
エステルは義妹をいじめ、猫で彼女の飼う灰色の斑雀を傷つけ、さらに落魄の少年の眼をえぐり取らせた。少年はただの平民、せいぜい取るに足らない小貴族だと思っていたのだ。
だが、彼はノアだった。
記憶を失った光明神の化身。
セシリーは彼を救い、庇護を得る。
彼を傷つけたエステルは不運続きで、最後には命さえ守れない。
眼をえぐってから死ぬまで、十五日。
小沢かなの指先が、じわじわと強張る。
今はいつだ?
扉の向こうから教師の声が漏れてくる。
「三日後、神使がソロン学院へ試験に来ます。あなたたちの中から、神に選ばれる者が出るといいのだけれど」
三日後。
さっき教室で囁かれていた話が脳裏をよぎる。昨夜の王子の成人宴で、星光のドレスを纏った謎の少女が王子と一晩中踊った――。
それがセシリー。
小沢かなははっとして手すりの外へ身を乗り出した。
教会の鐘が鳴る。息を止め、一つずつ数える。十一の音が落ちた瞬間、下の音楽噴水が水を吹き上げ、陽光が水面を砕けた金に変えた。
なのに、寒い。
遅かった。
危険は十五日後なんかじゃない。前の持ち主を止める時間など残っていない。
――前の授業の前に、ノアの眼はすでにえぐられている。
今ごろ彼は噴水の裏の人工岩の洞に横たわり、救いの手を待っているはずだ。
そして、その「救いの手」は本来、セシリーのもの。
小沢かなは階下を見渡す。
灰色がかった少女が校門をくぐってきた。花籠を腕にかけ、足取りは軽い。古い木綿のワンピースに、歩みに合わせて揺れるエプロン。
昼食を届けに来たセシリー。
小沢かなが彼女を認めた瞬間、脳裏に金色のアイリスが閃いた。
グラント家の紋章。
原作では、ノアがそれを握っていた。守衛がそれを手がかりにエステルを突き止める。そして今夜、彼女は牢へ投げ込まれ、三日間閉じ込められる。
小沢かなは反射的に身を探ったが、紋章は見当たらない。
迷っている暇はない。
小沢かなはスカートをたくし上げ、階段へ駆けた。
先に人を連れ出す。
ノアは記憶を失っている。誰が自分を傷つけたのか、わかっていない可能性が高い。セシリーより先に彼を見つけ、こちらに繋がるものを回収できれば、まだ望みはある。
その後のことは――。
今夜すら越えられないのに、未来なんて語れるはずがない。
階段が背後へ流れていく。ヒールが硬い音を立て、胸がざわつく。手すりに縋って最後の曲がり角を回り、芝生を突っ切る。噴水の飛沫が顔にかかっても止まらない。
人工岩は、炎のように赤い灌木に囲まれていた。
下には多くの骨が埋まっているという噂で、普段は誰も近づきたがらない。
だが今、その灌木のそばに花籠の少女が立っていた。
「エステルお姉さま?」
少女が振り向く。濃い栗色の長髪の下、茶色の瞳が驚きに揺れた。
小沢かなの足が止まる。
セシリーの開いた掌の上で、金色のアイリスが光っていた。
ルビーを嵌めた花芯が、目に痛いほど赤い。
――やはり遅かった?
小沢かなはその手を見つめる。指はきれいだ。エプロンにも血の跡はない。セシリーはすでにノアに触れたのか、それとも近くで拾っただけなのか。
息を整え、小沢かなは紋章を取り上げた。
「セシリー。わたしのアイリスを盗んだわね」
「違います!」少女は慌てて首を振る。「ここで拾ったんです。お姉さま、本当に盗んでない……」
小沢かなは紋章を握りしめ、すぐには返事をしなかった。
自分は十分に急いで下りてきた。セシリーが血まみれの少年を支えていたなら、血の一滴も付かないはずがない。
けれど原作では、この紋章はノアの手の中にあった。
外に落ちていたのなら、誰がそれを洞へ運んだ?
「エステルお姉さま……」
セシリーの目が赤くなり、指がエプロンを強く握りしめる。
小沢かなは彼女を見つめながら、ふと理解した。原作の「視点」は、いつだってこの子の目だったのだ。
自分はセシリーと一緒に喜び、彼女の受けた屈辱に怒った。
なのに今、目の前に立つ彼女の言葉を、ひと言たりとも鵜呑みにできない。
――それでも、紋章は取り戻した。
「泣くんじゃないわ」
小沢かなは花籠を奪い、エステルらしい傲慢さを必死に保つ。
「さっさと行きなさい」
セシリーは呆けたように瞬きをした。こんなに簡単に許されると思っていなかったのだろう。涙を拭い、数歩進んでから、もう一度だけ振り返った。
小沢かなは動かない。
灰色のスカートが道の先に消えるまで、じっと立っていた。
消えた瞬間、痛むほど握りしめていた手をほどく。
金色のアイリスが掌に食い込み、赤い跡をくっきり残していた。
それをしまい込み、灌木の奥を見る。
神を傷つけたのはエステル。
けれど今の自分は、その名を被ったまま、神に「助けに来た」と信じさせなければならない。
