第10章 神の記憶の中で
老爺は髭も髪も真っ白で、顔には風霜の刻みが深い。けれど眼差しは静かで、思わず背筋が伸びるほどだった。
白衣の神使と黄金の騎士がその後ろに控えるだけで、狭い事務所がまるで光の神殿の一室みたいに見えてくる。
小沢かなは脇に立ち、彼らが次々とノアの前へ進み出るのを見守った。すると、理由もなくあの感覚が胸に蘇る。どれほど立派な身なりの者が来ようと、少年の前では、皆どこか一段低く見える——そんな感覚。
「ノア。わたしと共に、光の神殿へ来る気はあるか」
「……あなたは?」
「ボンス大陸、光の神殿の紅衣主教、ルベンスだ」
小沢かなの視線が、ぴたりと止まる。
王よりも上位で、ふだんは神殿を離れないはずの主教が——自らここへ?
「ルベンス様。僕は……ただの盲人です」
「聖光は遍く在る。神は君に『聖光の器』を授けた。ならば、すでに道は用意されている」
老爺は穏やかに告げた。ノアは光明学院へ入り、神の予言と術法を学び、世界の奥義を探ることができるのだと。
「いつか、君は答えに辿り着く」
「……何でも、ですか」
「そうだ。神に不可能はない」
小沢かなは話についていけず、頭の中がふわふわした。けれどノアはしばし立ち尽くしたあと、ほんとうに礼を取った。
「同伴に別れを告げる時間をください」
少年は人垣から抜け、彼女の前で足を止める。
「エステル。僕は行く」
「今、なの?」
「うん。いつかは、行かなきゃならない」
別れを口にしているのに、表情はやわらかい。まるで天気の話でもするみたいに、淡々と。
小沢かなは彼を見つめ、ようやく悟った。昨日、珠を隠し、彼のために徽章を質に入れ、今日は白いドレスに着替えて手を引き街を歩いた——そんなことは、彼の心を少しも縛らない。
自分が少しずつ縮めたと思った距離など、彼は一歩で越えてしまう。
「……神恩者のテスト、一緒に受けるって約束したじゃない」
小沢かなは小さく言った。
「ノア。あなたまで、私を置いていくの?」
「エステル。僕たちが出会ったのは神の采配だ。今、別れるのも……神の御心だろう」
——ふざけるな。
小沢かなは指をきつく握り込む。
それは彼女が六階から駆け下り、セシリーより先に辿り着き、一歩ずつ奪い取ったものだった。
それでも彼女は、小さく返事をした。まるで、その答えを受け入れたかのように。
神の記憶を、彼女は隠し持っている。もしかすると、それを開く鍵は神自身の血だけなのかもしれない。確信はない。だが迷っているうちに、彼は行ってしまう。
ノアが背を向けた、その瞬間。
彼の手首が掴まれた。
「エステル?」
「ごめんね、ノア」
小沢かなはつま先立ちになり、彼の唇に口づけた。
少年が息を呑み、手が彼女の腕に添えられる。だが彼女は首に腕を回し、離れない。柔らかな唇を押し当て——そして、ぐっと噛みついた。
「……っ」
鉄の味が、じわりと広がる。
ノアの手が一瞬止まり、次の瞬間、強い力で彼女を引き剥がした。
「エステル。これは……違う」
小沢かなはよろめき、口元を押さえて後ずさった。頬が熱い。焼けるみたいに赤い。
「ごめんなさい……私、どうかしてた。もう二度と会えないって思ったら、私……」
声が尻すぼみになり、今にも泣き出しそうになる。
「もし私がテストに落ちたら……もう、あなたに会えない」
光明学院は外部に開かれていない。別れ際に取り乱した恋する少女——周囲は驚いても、責める気にはなれないだろう。
彼女は涙を瞳の縁に留めたまま、彼を見上げた。
けれどノアは、その言葉で足を止めなかった。
右手を胸に置き、優雅に別れの礼をして、主教の後を追って外へ出ていく。
白い法衣、金の甲冑が、彼女の前を次々に通り過ぎた。扉の外の光が差し込み、すぐに人影で遮られる。
小沢かなは立ち尽くし、呼びかけられてようやく我に返った。
「グラントさん、大丈夫ですか?」
先ほど応対していた事務員だ。
小沢かなは無理に笑い、手の中の——血がほんの少し付いた琉璃珠をしまう。
ノアに近づいたとき、彼女はすでにそれをそっと取り出していた。口元を押さえて退いた拍子に、指先が唇に残った血に触れ、そのまま珠を隠した掌へ擦りつけた。誰も彼女の手元など見ていない。皆が見たのは、恋人を手放せない少女の姿だけ。
「ありがとう。……私の徽章を」
事務員は鸢尾花の徽章を返し、明後日の学院のテストに受かるよう、心から祈ってくれた。
小沢かなはそれを受け取り、馬車へ戻る。
「ソロン学院へ」
言い終えてから、彼女はようやく掌を開いた。
血の筋が、少しずつ薄れていく。透明な珠に吸い込まれていくみたいに。
普通の血なら、珠にすら付かない。けれど彼の血は、吸われる。
小沢かなはその色を見つめた。どれほど時間がかかるのかも、吸い尽くされたら何が起きるのかも分からない。できるのは待つことだけ。自分の推測が役に立つか、確かめるために。
神の記憶の中に、道を探す。
水晶球は彼女を認めない。ノアはいつでも去れる。光明学院に入れなければ、この二日間、必死に掴み取った「近さ」はここで途切れる。
彼女は珠を握りしめ、窓の外を見なかった。
深夜。
最後の血色が、ついに消えた。
「ぽん」
小さな音がした気がして、小沢かなは全身がふっと軽くなるのを感じた。目の前の部屋が消える。
天も地も、白。
果てのない雲の中に漂っているみたいで、自分の身体がどこにもない。ただ遠くに、細い金色が見えた。そこへ向かう。どれほど進んだのか分からない。やがて、雲でできた梯子が現れた。
梯子の間で、百の鳥が歌っている。
小沢かなが一段目に足を置いた瞬間、ふわふわした感覚がすとんと落ち着いた。見下ろせば、自分の裸足。白い長裙。胸元へ流れる金髪。
彼女は梯子を上った。
鳥の声が遠のき、目の前に湖が現れる。澄み切った青に金が溶け、あまりに美しくて、人の世の匂いが一切しない。
湖畔に、一人。
すらりとした背。純白の法袍。地に届きそうな銀髪が、砕けた金を映している。彼は遠くを見ていた。風が衣の端を撫でても、まるで風の方が怯えているみたいに、彼を乱せない。
小沢かなは反射的に目を伏せた。
ここに立つのが、光の神以外であるはずがない。
そして——記憶珠の中で、こんなふうに会えるなんて。
その人が、振り向く。
一泓の緑が、視界に流れ込んだ。
小沢かなはノアの欠けた顔を見てきた。あの瞳が完全だったなら、と想像したこともある。
今になって分かった。
想像など、できるはずがなかった。
視線が交わった刹那、彼女は見た気がした。山河の連なり、星の海。日の出と月の満ち欠けが、気の遠くなる年月の中で幾度も巡るさま。想像も届かないほど遠い時が、最後にはひとつの静けさへ収束していく。
息を呑むことさえ忘れた。
その人は、ただ手をひらりと振った。
小沢かなの身体が、ふわりと外へ押し流される。雲梯も湖も、あの緑の瞳も遠ざかり——次の瞬間、どすん、と重く落ちた。
目が覚める。
琉璃珠は掌にあるのに、心臓が胸を突き破りそうなほど速い。彼女はしばらく起き上がれなかった。指先が震える。恐怖と興奮が絡み合い、どうしてもほどけない。
神とは、きっとああいうものだ。
凛として、高く、たった一度の視線でさえ、まともに受け止められない。
小沢かなは俯き、買っておいた糸で珠をゆっくり結び、ココの羽と一緒に首へ掛けた。
記憶から弾き出される、その刹那。
彼女は、水晶球を誤魔化す方法まで掴んでいた。
闇の力が染みついた媒介を体内へ取り込み、珠と羽の力を呼び起こす。光で闇を押し出せば、水晶球は反応する。
——ただの誤魔化しだ。
それでも、まずは偽りの神恩者にでもならなければ学院へ入れない。学院へ入れなければノアに近づけない。近づけなければ、本物の力を掴む機会すらない。
小沢かなは首元の珠に触れた。
今の彼女に足りないのは、闇の力を帯びた「何か」——それだけだった。
