第2章 神の記憶
小沢かなは、さらに数分だけ待った。
小径には誰も現れない。ようやく彼女は花籠を提げ、灌木の中へ身を滑り込ませた。燃えるように赤い枝葉がスカートをかすめる。外から見えるより奥はずっと暗い。記憶の位置を頼りに何度か回り込み、十分ほど歩いて、やっと岩肌がへこんだ洞の口を見つけた。
外の噴水の音は遠のき、代わりに洞の中では水滴がぽつ、ぽつ、と石を打っている。
身をかがめて踏み込んだ瞬間、つま先が何かに触れた。次の拍子、彼女は前のめりに倒れ、花籠も手を離れて転がった。
――触感が、おかしい。
叫び声を喉の奥で噛み殺し、小沢かなは手探りで籠を探り当てる。中から、ゼリーみたいな火口石を一つ取り出した。指先で軽くつぶすと、幽かな青い炎がふわりと灯る。
息が、一瞬止まった。
銀髪の少年が、血の中に横たわっていた。
長い髪が地面に散り、青い光を受けて、闇を流れる星の川みたいに見える。鼻筋も唇も、どこを切り取っても精巧で、白い頬に血がまだらに付いていても、その息をのむ美しさは損なわれない。
彼についての描写なら、彼女は何度も読んだ。
けれど実物を前にすると、文字のほうが追いつかない。
呆然と見つめたのち、彼女は視線をそらした。
顔がどれだけ整っていようと、まず自分の命を守らなければ。
少年は片手を床に投げ出し、もう片方の手は固く握りしめたまま、身体の脇に置いている。
アイリスは取り返した。だが、もしもう一つあったら? この物語への理解は、命を賭けられるほど確かじゃない。
もう少し近づき、拳を確かめようとした、そのとき。
少年のまぶたが、ぴくりと動いた。
「……っ、ああ、神さま!」
小沢かなは悲鳴まじりに飛びつき、狙ったように彼の腕の上へ体重を落としてしまう。
「だ、大丈夫ですか……?」
少年は苦しげにうめき、ようやく目を開いた。
そこには、空洞の眼窩があった。
固まった血がまぶたに貼りつき、人ならざる美貌の顔は、その欠損のせいで、ぞっとするほど凄惨に見える。
小沢かなの胃が、きゅっと縮んだ。
自分がやったことではない。けれど今の彼女は、加害者の身体を使っている。目をそらすだけでも、理由が要る。
「ごめんなさい、わたし……乱暴で……」
慌てて身体を起こし、立ち上がり損ねたふりで、もう一度倒れ込む。今度はちょうど、彼の拳の上だった。
少年の顔色がさらに白くなる。
固く握られていた指が、ついにほどけた。ころり、と丸い珠が一つ転がり出て、彼女のスカートの裾をかすめ、血の上を滑っていく。
――二つ目のアイリスではない。
小沢かなは胸の奥で息をつき、拾い上げようとして、指先がひやりと震えた。
冷たすぎる。
それに、妙にきれいだ。床は血だらけなのに、転がってきた珠には一滴も付かない。幽青の火が映り込んでも、まるで洗われたみたいに澄んでいる。
本の後半の場面が、ふいに蘇った。
セシリーがこの洞へ戻り、琉璃の珠を拾って、偶然それを開いてしまう。中に隠されていたのは、光の神の記憶――。
小沢かなは掌の上の珠を見下ろした。
静かに横たわるそれから、冷気が皮膚を伝って這い上がってくる。思わず握り込み、次の瞬間、動揺を悟られそうで、ゆっくり指を緩めた。
「……いい」
隣で少年が言った。
手で床を押し、起き上がろうとする。衣擦れが石に触れて、さらさらと小さな音がした。
小沢かなは慌てて肩を貸す。声は自然と柔らかくなる。
「血が……すごい。どこを怪我して……」
そして、今さら目に入ったように、彼の眼を見て息を乱した。
「……ああ、光の神よ。いったいどこの、心の腐った奴がこんな……」
言葉は喉で途切れ、小さな嗚咽に変わる。
涙が少年の衣に落ちた。彼は半身を支えたまま、彼女のほうへ顔を向ける。銀髪が肩からさらりと滑った。
「……君は誰だ」
低く、澄んだ声。湿った洞窟には不釣り合いな、天性の韻律がある。
「エステル……」小沢かなは鼻をすすった。「わたしは、エステルです」
「エステル……?」
「うん。あなたは?」
「ノア」
少年は長く黙った。まるで、その名が本当に自分のものか確かめるみたいに。
「エステル。君が、僕を助けたのか?」
「……はい」
答えは、ひどく小さかった。
違う。あなた自身だ。普通の人間なら、こんな出血でここまで持たない。神が形だけ与えた身体は、それでも起き上がり、彼女と話している。
けれど、誤解を正す必要はない。
小沢かなは指を伸ばし、彼がまだ何か言おうとする唇に、そっと当てた。
「しーっ。今はしゃべらないで。お医者さまのところへ連れていくから」
ノアは本当に黙った。
彼女は片手で籠を持ち、もう片方で彼の腕を支える。立ち上がった少年の体重がずしりとのしかかり、足元がぐらりと揺れた。それでも、どうにか踏ん張る。
さっきまで顔ばかり見ていて、気づかなかった。彼は彼女よりずっと背が高い。
「頭、下げて」
洞の口を抜けるとき、そう囁きながら、空いた手を引き戻す流れで琉璃の珠をそっとポケットへ隠した。
そのとき、隣の少年がふっと足を止める。
「……珠を、見なかったか」
小沢かなの指は、まだポケットから離れていない。
顔を上げ、声にほどよい戸惑いを混ぜる。
「珠? どんな珠?」
「……思い出せない」
ノアはかすかに眉を寄せた。血の気のない顔に、淡い喪失感が滲む。
「ただ……大事なものだった気がする」
「ないよ」
彼女は彼を支え、ゆっくりと陽光の中へ戻った。
洞窟が背後に遠ざかっても、小沢かなは振り返らない。
自分が何を隠したのか、わかっている。
けれど神が今すぐ記憶を取り戻し、助けた相手がまさに傷つけた相手だと知るくらいなら――この珠は、ずっと隠しておくほうがいい。
少なくとも、彼が彼女を殺すのを惜しむようになる、その日までは。
一族の馬車のそばまで来ると、まずノアを車内へ押し上げ、自分も続いて乗り込んだ。
御者は外で指示を待っている。
「診療所へ」
馬車が校門へ向けて走り出す。小沢かなはカーテンを持ち上げ、門前の兵士を見た。顔の柔らかさが、少しずつ削げ落ちていく。
「通して」
門番は検めもせず、道を開けた。
若い兵士は遠ざかる車影を見送りながら、耳まで赤い。
「授業中の外出は、監督の許可証が要るんじゃ……」
「校則が、お前の代わりに鞭を受けてくれるのか?」隣の兵が鼻で笑う。「真面目なご令嬢なら止めりゃいい。グラント家のあの方は、近づかないほうが身のためだ」
「でも、あの人……」
「きれいだから? 薔薇には棘がある。家に使用人を雇えるくせに、妹に三キロ歩かせて弁当を運ばせるんだぞ。ニール王子ですら見かねて、意地が悪い、家の品位が落ちるって言ってた」
若い兵士は黙り込んだ。
そんな会話を、小沢かなは一言も聞いていない。
カーテンを下ろし、影の中に座る銀髪の少年へ向き直る。声はまた、軽く、柔らかく。
「ノア。もうすぐ着くからね」
