第3章 あなただけが聞こえない
十二時の鐘が鳴った瞬間、馬車が止まった。
小沢かながそっとカーテンの端を持ち上げると、通りがまるごと息をひそめているのがわかった。巡回中の衛兵も、足早に行き交っていた人々も、御者でさえ手を止め、空へ向かって祈りを捧げている。
「慈悲深く、偉大なる光の神よ……」
四方から同じ調子の声が集まり、ひとつの恭順なささやきになって街を満たした。
かなは車内に座ったまま、背筋にひやりとしたものを感じた。
さっき教室で、冗談ひとつで追い出されたときは馬鹿馬鹿しいと思った。けれど今になってようやく理解する。ここでその名が、どれほどの重さを持つのか。
この街の誰もが、自分の暮らしを神の手に預けている。
そして、その神が――彼女の隣にいる。
血にまみれたまま、静かに座って。
かなは花籠の中を探り、布を取り出して彼の頬の血をぬぐった。それから自分の白いレースのリボンで、彼の目元を覆う。結び目を作るときは、できるだけ指先の力を抜いた。銀色の髪に触れるたび、ひんやりと冷たい。
「エステル?」
かなは手を止める。
「……痛い?」
ノアは首を横に振った。
血の汚れが消えると、顔立ちはいっそうくっきりする。白いレースが傷を隠し、通った鼻筋と淡い唇だけが覗く。かなはまた、ぼうっと見とれてしまった。
彼にもう一度名を呼ばれて、ようやく手を引っ込める。
情けない。
心の中で自分を罵り、かなは花の焼き菓子を一つ手に取った。
「お腹、空いてない?」
ノアはまた首を振る。
「少しでも食べて。御者さんが言ってた。ライル診療所へ行くには城の中央を通るって……」
馬車が再び動き出す。かなは反射的に外へ目を向け――後半の言葉が、喉の奥で消えた。
白い大理石の広場。その中心に、巨大な神像が行き交う人々を見下ろしていた。
翼を大きく広げ、空の半分を覆いそうなほど。左手の純金の杖には太陽が載り、右手には銀の三日月が受け止められている。
その眼差しは慈愛に満ち、同時に威厳を帯びていた。
かなの胸がきゅっと縮む。石だとわかっているのに、ポケットに隠した秘密を見透かされた気がした。
次の瞬間、白い光が天へ突き上がった。
「神像が……!」
御者がぎょっとして手綱を引き、馬車から飛び降りる。人々が広場へ雪崩れ込み、粗布の者も絹の者も、皆いっせいに跪いた。
「光の神よ……!」
かなは彼らを見ていられなかった。
肌身離さず持っていた琉璃の珠が、突然熱を帯びる。火傷しそうなほどで、思わず掴み取りたくなる。だが、その灼ける痛みより、目の前の光景のほうがよほど恐ろしかった。
ノアが片手を胸に当て、わずかに顎を上げる。
彼の身体から、細かな白い光の粒が浮かび上がっていく。
神像の光と、まったく同じ。
止めなきゃ。
そう思った瞬間、かなはもう飛びついていた。
「どんっ!」
ノアは車壁に押しつけられ、眉をひそめて彼女を押し返そうとする。けれどかなはさらにしがみつき、両腕で彼の腰を固く抱え込んで離さなかった。
「エステル?」
彼の光が、ふっと散った。
かなは頬を寄せたまま、揺れるカーテン越しに外を見る。神像の白光も消えている。珠はまだ熱いが、温度は少しずつ下がっていった。
ようやく息ができた。
――注意を逸らせば、あの感応は途切れる。
少なくとも、今回は。
「ノア、ごめんね」
かなは彼の胸元に顔を埋め、震える声を作った。
「びっくりしちゃって……外が急にあんなに明るくなって、みんな跪いて……」
半分は本当だ。
確かに怖かった。ただし怖かったのは奇跡ではなく、隣にいる神が目を覚ましてしまうこと。
ノアの眉間には、まだわずかな不快が残っている。かなはそれを見ても見ないふりをして、抱きついたまま尋ねた。
「ねえ、どこか変だと思わない?」
「声がする。僕を呼んでる」
少年は窓のほうを向き、戸惑った表情を浮かべた。
「……あたたかい」
「悪魔じゃない?」かなは小さく囁く。「悪魔って、人を惑わすのが上手だって聞いた。ノア、今は行こう? ね?」
座席に手をついて立ち上がろうとしたが、足元がぐらりと崩れ、また彼の上に倒れ込む。
ノアが喉の奥で短くうめいた。
「ごめん、足が……」かなは息を乱しながら言い訳を重ねる。「捻ったみたい。ここ、怖いよ。先に診療所へ……」
「違う。悪魔じゃない」
ノアは彼女の手を外し、少し姿勢を正した。
「エステル、聞こえるだろ。みんな祈ってる。神に」
そして彼は、ひとつひとつ名を口にした。
ジータは来年の春、娘がいい男に出会えるようにと願っている。モサンは家の母豚が子豚をたくさん産むようにと祈っている。サンチェフは末の息子の病が早く良くなるようにと――。
かなはそれを聞くうちに、すすり泣きすら忘れていった。
外にあるのは賛美と泣き声だけだ。彼らはまともな文章ですら口にできていない。娘のことも、病の子のことも、誰ひとり言っていないのに。
「……みんなの心の祈りが、聞こえるの?」
ノアは頷き、すぐに首を振った。
細長い指が持ち上がり、かなの胸元の前で宙に止まる。
「違う。全部じゃない」
「エステル、君のは……ない。君のだけ、ない」
まるでとても不思議なものを見つけたみたいに、彼は言った。
「僕には、君の心の声が聞こえない」
かなの身体が、ほんの一瞬だけ固まった。けれどすぐ、足が痛いふりを続ける。
小さく息を吸っては吐きながら、彼の手を取った。その微かに冷たい手のひらを、自分の胸に重ねる。
「じゃあ、こうしたら? 聞こえる?」
馬鹿。
心の中で吐き捨てる。
ノアは首を横に振った。
「聞こえない」
「もう一回、ちゃんと聞いて」
馬鹿、馬鹿、馬鹿。
顔は引きつらないように保ちながら、心の中で何度も繰り返す。指先だけが緊張で微かに震えた。
「……やっぱりない」
ノアは戸惑いながら手を動かした。なぜここに押しつけられているのか、理解できないらしい。
「エステル、今……何て言った? それと……これは何だ?」
彼がそっと握り込む。
かなは歯を食いしばり、悲鳴を大きくしないよう堪えた。
「私が言ったのは、ノアは綺麗で、好きってこと」
「好き?」
彼の疑問は深まるばかりだ。
「好きって、何だ?」
かなは今、神に恋を教える気分ではなかった。彼の手を外し、さらに問いを重ねる。
「願いごとだけが聞こえるの? それ以外は?」
「聞こえる。……でも、君の中は静かだ」
ノアは確信をもって答えた。
かなはゆっくり息を吐いた。
理由はどうでもいい。自分がこの世界の人間じゃないからかもしれないし、神を信じていないからかもしれない。大事なのは――光に当てられたら終わるような考えが、まだ自分の頭の中に隠せるということ。
ノアには聞こえない。
かなは花の焼き菓子を籠に戻し、乱れたスカートの裾を整えた。
車外の泣き声と叫びは次第に遠のき、御者がようやく戻って手綱を取り直す。
「診療所へ」
短く促してから、かなは振り返った。少年の静かな横顔と目が合い――その瞬間、最初に確かめるべきことを確かめられた自分を、心の底から幸運だと思った。
これから口にする言葉は、慎重に選べる。
口にしない言葉こそが――今の彼女にとって、本当に隠せる唯一のものなのだから。
