第4章 九十六ルソス
ライル診療所の尖塔に掲げられた赤い十字は、遠目にもはっきり見えた。
馬車が停まるやいなや、入口にいた下働きの男が二人、車軸のアリスを見てすぐに気づく。
「トーマス、お前の番だろ」
「やだね。グラントさんの鞭はごめんだ」
もう一人が声を潜めて笑った。
「どうせあの手の紳士は、彼女とちょっとロマンチックに遊びたいだけさ。持参金なし、母親も表に出せない身分……誰が嫁に欲しがるってんだ?」
扉が開いた瞬間、二人は同時に口をつぐんだ。
金髪の少女がローズパープルの裾をつまんで降りてくる。顔を上げた瞳は、陽だまりを溶かしたみたいに澄んでいた。二人とも思わず見とれ、さっきまで押しつけ合っていたトーマスのほうが、かえって一歩前へ出てしまう。
けれど小沢かなはすでに身を翻し、車内へ手を差し入れていた。
銀髪の少年が彼女に支えられて降りてくる。白いレースが目元を縛り、光の中に立った。
トーマスの膝が、ふっと折れた。
自分が何をしているのか理解したときには、隣の男も半身ほど低くなっていた。通りでは、膝をつく者、頭を垂れる者が次々に現れ、まるで広場で神像に祈るときのようだった。
彼らはぎょっとして互いの顔を見合わせ、それから、見知らぬ少年を見た。
小沢かなはその力を感じ取れないまま、ただノアの手を引いて中へ入る。
「気をつけて。段差があるわ」
トーマスは我に返り、慌てて追いすがった。
「カーリ医師で?」
「ええ」
彼女はその言葉に合わせてうなずく。
二階の曲がり角。太った大ひげの男が、机の向こうから立ち上がった。
「エステルさん、また具合が?」
「私じゃありません。友人です」
小沢かなはノアを窓際へ座らせると、声が一気に切迫した。
「血をたくさん流してるんです。先生、目を……見てください……」
カーリが目隠しの布をほどく。彼の表情が、じわりと重くなる。
手が離れたところで、小沢かなはようやく訊いた。
「治りますか?」
「残念ですが……これは神の領分です」
「エステル」ノアが言った。「これは、僕の運命だ」
平静だった。失ったのが、たいして大事でもない物みたいに。
けれど小沢かなは、その言葉に留まらない。
「神術なら?」彼女は医師へ向き直る。「神の領分だって言うなら、神使さまなら何とかできませんか?」
カーリは彼女を一瞥した。
「保証はできません」
「私が神術を学べば……試せますか?」
矢継ぎ早の問い。ノアの袖口を握った手はほどけず、どんな小さな希望でも掴みたい、と訴えているみたいだった。
「お嬢さん。貴族の身分だけでは神術は身につきません。まず神眷者の試験を通り、適性がある者だけが修められる」
「学院の試験は三日後です」
「なら受けるといい。ただし神眷者になれたとしても、彼の目が治るとは限りません」
「わかりました」
小沢かなは目を伏せた。落胆しただけ、という顔で。
もちろん覚えている。原作では、セシリーはのちに試験を通った。けれどこの診療室に座って初めて、彼女は現実として考え始めたのだ。もし自分も力を手にできるなら、いろんなことをノアだけに背負わせずに済む、と。
問題は、エステルにその資格があるのかどうか。
原作の継姉は試験を逃した。答えは、どこにも書かれていない。
カーリはすでにノアの傷の処置に取りかかっていた。小沢かなは思考を畳み、少年の肩に手を添えて、薬を塗られ包帯が巻かれるのを見届ける。終わると処方箋を受け取った。
「失血で少し弱ってはいますが、身体はとても健康です」医師はようやく表情を緩めた。「こんな完璧な身体、見たことがない」
少女は胸の前で手を合わせた。やっと息ができたみたいに。
「光の神に感謝を」
「96ルソスです」
カーリは請求書を差し出した。
小沢かなの手が、ぴたりと止まる。
このドレスは確かに綺麗だ。でも金を隠せる場所なんて、どこにも触れなかった。請求書を見て、顔を上げ、貴族の令嬢らしい体面を必死に整える。
「グラント家のツケにして、明日お届け……ではだめですか?」
「申し訳ありません。こちらはツケはお受けできません」
医師は相変わらず、にこにことしている。
小沢かなは視線を落とし、ついさっき取り戻した家徽を見た。
それはエステルに、顎を上げて学院の門をくぐる資格を与える。けれどここでは、一日の猶予すら買えない。
彼女は親指でアリスの枝葉を押さえ、しばらく擦った。それから、ゆっくり差し出す。
「それなら、これを預けます」
カーリは受け取り、うなずいた。
「96ルソス。明日、必ず引き取りに来ます」
最後のほうは声が震え、泣き出しそうだった。彼女はもう一度その花を見てから、処方箋を握って外へ向かう。
入口まで行っても、まだ不安らしく振り返った。
「大切なものなんです。どうか、丁寧に保管してください」
「お任せを」
小沢かなは敷居をまたいだが、すぐには階段を下りなかった。
案の定、背後でカーリの声がする。
「エステルさんがあんなふうなの、初めて見た。家族の徽章を命みたいに大事にしてるのに、君のために抵当に出すなんて……」
「君のことを、よほど愛してるんだろうな」
小沢かなは、口元だけそっと持ち上げた。
ノアの返事を待たず、彼女は階下へ降りて薬を取りに行く。
薬局の前が、妙に空いていた。薬剤師まで入口に立っている。つられて覗くと、白衣に刺繍された金の太陽と銀の月が、広い通りを次々に横切っていく。
白衣の神使の後ろには、黄金の戦甲をまとった騎士たち。
隊列のあいだから光が立ち上り、歌声が風に乗って流れてくる。さっきまで忙しく騒がしかった人々が、みな息を呑んで立ち尽くし、呼吸さえ細くした。
「今日は神像が顕現したんだ。だから神使と黄金騎士が一緒に動いた……」
隣の誰かが囁いた。
小沢かなは掌をきゅっと握る。
その「存在」は、彼らが拝む対象は、いままさに楼上にいる。薬を持って戻るのを待っている。
人々の恭しい横顔を見つめていると、さっき医師が言ったことが浮かんだ。
貴族は平民の上に立つ。神眷者は、その貴族のさらに上だ。セシリーが越えたあの門は、もしかしたら自分を元の死路から引きはがしてくれるのかもしれない。
でも、もし越えられなかったら?
小沢かなは視線を引き戻し、薬剤師がカウンターへ戻るのを待って処方箋を差し出した。
まず、生き残る。
道が一本増えたからといって、すでに掴んだ手を離すわけにはいかない。
薬を受け取り二階へ戻ると、ノアはまだ窓辺に座っていた。小沢かなは彼の手を取る。階段を下りながら、さっきの隊列の様子を小声で説明した。
「私も試験に通れたらいいのに」
憧れが滲む声。それに、少しだけおずおずとした響き。
「ノア。三日後の試験、あなたも行くの?」
「わからない。何も覚えてないんだ」
「じゃあ、一緒に来て。いつか本当に、目を治せる神術が見つかるかもしれない」
彼女は彼の手を、軽く揺らした。
「……ああ」
あまりにあっさり頷くから、小沢かなは危うく笑いそうになる。
「エステル」彼が続けて訊く。「足、もう痛くないのか?」
その瞬間、彼女の足取りがふにゃりと崩れた。
「いったんは良くなったの。でも薬を取りに行くのに、けっこう歩いちゃって……」
ノアが支える。
小沢かなはそのまま身を寄せ、声を落とした。
「母さまが、私がアリスをここに預けたって知ったら……少しは怒鳴るの、減るといいけど」
少年はしばらく黙ってから言った。
「……ごめん」
「いいの」彼女は顔を上げる。「私たち、友だちでしょう。友だち同士は、助け合うものよ」
ノアはそれを受け止め、真面目に答えた。
「僕も、君を助ける」
