第5章 帰宅

馬車がテンル大通りの近くへ差しかかった頃、小沢かなは道中ずっと握りしめていた薬包を、ようやく指から解いた。

ノアをグラント家へ連れ帰るわけにはいかない。

あそこにはセシリーがいる。まだ顔も合わせていない母親もいる。素性の知れない、しかも重傷の少年を連れ込んだら――どう説明する。そこまで考えが追いついていなかった。

家の近くに宿がある。かなは御者に停めさせ、グラント家の名で一泊分をツケにして、ノアをそこへ落ち着かせた。

部屋は狭い。窓の外では紫のライラックが咲いている。

ノアは机のそばまで行き、指先で天板の縁をそっとなぞったところで動きを止めた。かなは薬を彼の手が届く位置に置き、椅子も少し近づける。立ち上がるときにぶつけないように。

「ここは宿なのか?」

「うん。うちからすぐ近く。今夜はここにいて」

彼の手を取り、ベッドの柱に触れさせる。次に椅子の背。机は窓際、ベッドは反対側。入口までの間に障害物はない。

少年は、彼女の案内に合わせて、ゆっくりと身体の向きを変えた。

かなは最初、早口で説明していた。けれど途中から、自然と声が落ちていく。彼は本気で覚えようとしている。どこに座れる、どこに何がある――かなが何気なく言うたび、ノアは一度止まり、手を伸ばして確かめた。

洞で見た、息を呑むほど美しい人が、いまは数歩進むのにも、彼女の言葉を必要としている。

一通り終えると、かなはその場に立ち尽くした。

帰らなきゃ。

けれどノアは窓のほうを向いたまま、ぴくりとも動かない。新しく結ばれた白いリボンが、清潔すぎて目に刺さる。見ているうちに、かなは結局また腰を折り、水の入ったカップを彼の掌に押し込んだ。

「先に薬、飲んで」

彼は受け取った。どうしてまだ帰らないのか――そんなことは訊かなかった。

午後の光が、窓から机の脚へとじわじわ移っていく。かなは隣に座り、ノアが薬を飲むのを見届け、椅子の背に預けて休むのも待った。最初は家にいる見知らぬ人のこと、今夜誰かが扉を叩いて捕まえに来るのではないか――そんな不安ばかりが頭を占めていたのに、張り詰めていた肩と背中がほどけていく。気づけば自分まで机にもたれ、ぼんやりと長い時間を過ごしていた。

窓の外の紫が沈み、暗さを帯びたころ、ようやく立ち上がる。

「ノア。私、行かなきゃ」

少年が顔を上げた。

かなは彼の頬を両手で包み、身をかがめて額に口づける。

「神のご加護がありますように」

言い終えた瞬間、自分で自分が可笑しくなる。けれど笑みが唇に浮かぶ前に、彼の静かに垂れた手が目に入った。

長く、きれいな手。指先はカップのそばで止まり――まるで、この机だけが、いま彼が確かだと信じられる世界のすべてみたいに。

かなは扉口まで行き、振り返ってもう一度だけ見た。

過去のことを何ひとつ知らず、しかも見えない人を、ひとり置いていくのは――残酷なのかもしれない。

その考えが、足を止めさせる。

それでも彼女はスカートの裾をつまみ、扉の外へ出た。

相手は神だ。

可哀想だと思うなら、まず自分を哀れめばいい。

御者は階下で待っていた。かなが姿を見せると、馬車を寄せてくる。

「グラント家へ」

通りの灯がともり、車輪が石畳をゆっくりと踏みしめる。テンル大通りの突き当たりに、白い壁と尖塔の小さな屋敷が現れた。窓には光があるのに、庭の小径は暗い。

御者が馬車を引きに行き、かなはひとりで中へ向かう。

途中で足が止まった。灌木に隠れるように置かれた椅子に腰を下ろし、しばらく動けない。

家は目の前だ。

見知らぬ母。見知らぬ妹。彼女に頭を下げるのか、それとも陰で噂するのかも分からない使用人たち。

――入りたくない。

ここまで、ただ生き延びることだけを考えてきた。セシリーに会ったときも、深く考える余裕なんてなかった。静けさが戻ったいまになって分かる。自分はまだ準備ができていない。別人の顔を被ったまま、その人の縁も、恩讐も、全部まとめて受け取るなんて。

夜空は磨いた青い宝石みたいに澄んで、弓なりの月が掛かっている。見上げながら、北都ではこんなに星が見えなかったことを思い出した。

けれど、どこでどんな月を見ても、いつだってひとりだった。

三歳で養子に出され、十歳で孤児院に戻された。

あのとき、かなは院長先生の袖にしがみついて、息が詰まるほど泣いた。

「神様がいるなら、どうして私の祈りは一度も聞いてくれないの? 私、いい子にしてたのに。どうしてパパとママは、やっぱり私をいらないって言うの?」

院長先生は頭を撫でて言った。神様は忙しくて、ひとりひとりまで手が回らないのだと。もしかしたら、もっと待てば――ずっとずっと待てば、届くかもしれない、と。

それから、かなは待つのをやめた。

いま神は目の前にいる。なのに自分が最初にしたことは、彼を騙すことだった。

草むらで虫が鳴く。指先が風に冷やされるまで座ってから、かなはスカートの皺を撫でて立ち上がった。

屋内では暖炉が盛んに燃え、テーブルには食べ残しのパンがある。

そこでようやく空腹を思い出し、バゲットをひと切れ掴んで噛みついた。歯がきしみ、酸っぱくなるほどの硬さ。

……固い。

かなは戻し、台所へ回る。扉に着く前に、声が先に漏れてきた。

「こんな時間まで外で遊び歩いて……」

「貴族の舞踏会なんて徹夜も珍しくないだろ」

「セシリーさんは違うわ。ウィギンズ様が亡くなってから、可哀想に。お嬢様には頼れる人がいないもの」

「聞いた話じゃ、奥様とその情夫が遺産目当てで手を組んで、ウィギンズ様を――」

かなの足が、扉の外で止まる。

「ニャア」

黒猫が足元にすり寄り、顔を上げて鳴いた。

台所の声が、ぴたりと途切れる。

「誰だ?」

「エ、エステルさん……」

ギブスとシリアがこちらを認めた瞬間、二人の顔色が同時に変わった。

かなは屈んで猫を抱き上げ、背中の毛を指先でゆっくり撫で下ろす。

「母はずいぶん大したものね。海の荒れまで操れるなんて」

薄く笑う。

「神使に見てもらったほうがいいわ。うちにはまだ、神恩者が一人残ってるみたいだもの」

ウィギンズは海上交易の途中、嵐で死んだ。原作でも継母が手を下したという噂は曖昧に書かれていた。真相は分からないし、ここで誰かの罪を引き受ける気もない。

二人の使用人は、気まずそうに目を伏せる。

「次に同じ話を聞かせたら、ソロン監獄で続きでも語りなさい。半月分の給金も、惜しくないんでしょう?」

「お嬢様、もうしません……」

「薄いクレープを焼いて。パンも温めて」

そう言いながら、かなの視線が二人の肩越しに滑り、階段の踊り場で止まった。

灰色のスカートの裾が、ほんの少し覗いている。

かなは指摘せず、猫を抱いたまま踵を返した。

居間を横切る間も、腕の中の小さな生き物は何も知らずに頬をこすりつけてくる。温かな耳に触れた瞬間、かなは別のことを思い出した。

この猫は、今朝セシリーの鳥を噛んだばかりだ。

あの灰色の斑雀。

灰かぶり姫の舞踏会のドレスも、馬車も、一夜で人の魂を奪うような魅力も――全部、あれに関わっている。

かなは目を伏せる。黒猫は無垢な顔で見上げてきた。

「ギブス」

かなは猫を差し出す。

「遠くへ連れていって。私の後をつけさせないで」

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