第1章
午後二時、桜原芸術ギャラリー。
私は壁にかけられたモネの『睡蓮』を調整していた。ベージュのタートルネックセーターに、膝下まであるAラインスカート。悠真が求める「清純で無垢な」印象を演出するため、メイクはほとんどわからないほど薄く施して。
スマホが震えた。
いつもの午後の挨拶だろうと、無意識に手に取る。
しかし、画面に映し出されたのは、『桜原金融街ジャーナル』からのニュース速報だった――
『金融界の帝王・黒崎悠真とメディア王の令嬢・白峰美和が婚約。二大財閥の統合に桜原金融街が激震』
写真の中で、彼は美和の顔を優しく包み込み、その銀灰色の瞳は慈しむように彼女を見つめている。彼女は白いシャネル風のスーツをまとい、その微笑みは気品に満ちていた。
一方の私は?
悠真が選んだ古風なセーターを着て、ギャラリーで主人の帰りを待つペットのように突っ立っている。
自分の姿を見下ろす――手は埃まみれで、爪の間には額縁を調整した時の汚れが黒く詰まっている。私の指は、何もはめられていない、空っぽのまま。
彼女が手に入れたのは、婚約指輪と世界中からの祝福。
私が得たものは? 八年間の秘密の関係と、「卒業したら、公表する」という嘘。
彼女は未来の黒崎夫人。
じゃあ、私は何? 日の光を浴びることなく、地下室に隠れ住む鼠?
「嘘……ありえない……」
ガシャン!
クリスタルの花瓶が手から滑り落ち、大理石の床で粉々に砕け散った。
血。
ガラスの破片で切れた掌から、真っ赤な血が流れ出す。白い床の上に滴り落ちるそれは、まるで残酷な生贄のようだった。
「クソ野郎……」
がらんとしたギャラリーに私の声が響き、やがて抑えられた嗚咽に変わる。足元には花瓶の残骸――五万ドルはする代物だ。由美さんに見つかったら殺される。
でも、だから何だというの?
心臓が引き裂かれるようなこの苦痛に比べれば、五万ドルなんて。
「由香里? きゃっ、どうしたの!?」
部屋の向こうから由美さんの悲鳴が聞こえた。
恐怖に歪んだ彼女の顔を見上げる。彼女の目には何が映っているのだろう。虚ろな目をして、血まみれで震える狂人?
「何でもない」私の声は機械的に、恐ろしいほど冷静だった。「ちょっと滑っただけ」
「滑っただけって、その手! 救急車を呼ぶわ――」
「やめて!」私は叫び、それから自分の声の大きさに気づいて声を潜めた。「平気だって言ってるでしょ」
血の流れる掌を押さえ、私はトイレに駆け込み、背後でドアに鍵をかけた。
鏡の中の女は、恐ろしいほど見知らぬ顔をしていた。
紙のように青ざめ、虚ろな瞳。そして、口の端に浮かんだ不気味な笑み――いつから私、笑っていたんだろう?
「八年よ」私は鏡の中の自分に、震える声で語りかけた。「丸八年。由香里、あなたは何を待っていたの?」
十五歳、両親の葬儀の日。黒いスーツに身を包んだ彼が、私に向かって歩いてきた。あの銀灰色の瞳が、初めて私に優しく向けられた。「怖がらなくていい。僕が君を一生守るから」
嘘つき。
十八歳の誕生日。黒崎邸の書斎で、ソファに押し倒され、息もできなくなるほどキスをされた。「由香里は僕のものだ。永遠に」
嘘つき!
大学の四年間、毎週末、彼は私を迎えに来た。いつになったら関係を公にしてくれるのかと尋ねるたび、彼はいつもこう言った。「卒業してからだよ。ゆっくりいこう」
大嘘つきッ!!
私は鏡を殴りつけた。
ガラスは割れなかったが、拳の皮が破れて血が滲んだ。痛みが少しだけ頭をはっきりさせたけれど、同時にもっと腹が立ってきた。
ブンッ。
再びスマホが震える。
悠真からのメッセージだった。
【今夜、黒崎邸に来い。話がある】
画面に表示されたその言葉を睨みつけ、私はふと声を出して笑った。
以前の私なら、このメッセージにどう反応しただろう?
胸を高鳴らせ、すぐに身なりを整え、メイクが崩れていないか鏡で確認し、彼が何を言いたいのかと緊張しながら考えたはずだ――ついに私たちの関係を公にしてくれるの? どこか大事なディナーに連れて行ってくれるの?
彼を待たせてはいけないと、一時間も前に家を出ただろう。
車の中で、どう話せばいいか、どう笑えばいいか、「彼にふさわしい」女性であるための振る舞いを練習しただろう。
そして屋敷に着けば、主人の愛撫を待つ子犬のように、期待に満ちた目で彼を見つめ、「いい子だ、おかえり」と言われるのを待っていたはずだ。
なんて惨め。
なんて滑稽。
なんて……吐き気がする。
彼が私と話す必要がある? 何を?
結婚するけど、君はこれからも僕の愛人でいていいよとでも言うつもり?
美和とは政略結婚で、本当に愛しているのは君だけだとでも?
あるいは、これまでの毎回のよう、あの銀灰色の瞳で私を見つめ、「由香里、君が一番大切だってこと、わかってるだろう」と言いながら――ベッドに押し倒し、事が済んだら運転手に命じて監視付きのアパートに送り返させるのか?
「地獄に落ちなさい」
私の指は、削除ボタンの上で震えていた。
震える。
それは私たちの最初の写真だった――十八歳の誕生日、黒崎邸の書斎で、彼に抱きしめられながらこっそりと撮った一枚。あの夜の月の光を、彼が「君は僕のものだ」と言ったときの優しい声を、覚えている。
指の震えが激しくなる。
削除する? 本当に?
八年間の思い出を、指一本で消してしまうの?
いや。
私は深く息を吸い込み、固く削除ボタンを押した。
写真は消えた。
そして二枚目、三枚目……手の震えは止まっていた。
最後の一枚を消す頃には、私の指は氷のように冷たく、微動だにしなかった。
チャット履歴。通話履歴。
一つずつ、手際よく、綺麗に。
削除するたびに、心は少しずつ壊れていった。
しかし同時に、かつてないほどの高揚感が湧き上がってくる――檻から解き放たれる快感だ。
悠真からの一通のメッセージで一晩中眠れなくなる由香里は、もう死んだ。
「由香里?」由美さんがドアをノックする。「大丈夫? 本当に心配なんだけど……」
私は深呼吸し、蛇口をひねって手の血を洗い流した。傷口からはまだ血が滲んでいたが、もうどうでもよかった。
「絶好調よ」ドアを開け、由美さんに完璧な笑顔を見せる。「こんなに気分がいいのは初めて」
彼女は絆創膏を渡してくれたが、その目は疑念に満ちていた。「本当に? 早めに帰る?」
「必要ないわ。まだ仕事が残ってる」
それからの数時間、私はロボットのように働いた――作品を整理し、客を迎え、注文を処理する。私を見た誰もが、今日の私は特に効率的でプロフェッショナルだと言った。
私の心が完全に崩壊したことなど、誰にも知る由はなかった。
午後六時きっかりに、私はタイムカードを切った。
ギャラリーの外には見慣れた黒のセダンが停まっており、運転手の亮介がすでに後部座席のドアを開けて待っていた。
「お嬢様、ボスがお待ちです」
以前の私なら、飼いならされた小鹿のように、素直に車に乗り込んだだろう。
だが、その由香里はもう死んだ。
「いつから私を監視してたの、亮介?」私は車のドアの前で立ち止まり、氷のように冷たい声で言った。
亮介の表情が凍りつく。「お嬢様、どういう意味か……」
「とぼけないで!」私は彼の言葉を遮った。「GPS追跡? スマホの盗聴? それともこの車にも盗聴器が仕掛けてあるの? 教えてよ、亮介。黒崎悠真は私を監禁するためにいくら払ったの?」
「お嬢様、ボスはただ、お嬢様の安全を心配して……」
「安全?」私は冷たく笑い、スマホを取り出して彼の目の前で振った。「それとも、今日のニュースを見た私が何か『理性的でない』ことをするのを心配してたのかしら?」
亮介の沈黙が答えだった。
「もう心配しなくていいって伝えて」私は背を向け、歩き出した。「ゲームは終わりよ」
「お嬢様! 黒崎さんは、その……」
「失せなさい!」
その一喝に、道行く誰もが振り返った。気にしない。見ればいい。桜原市の人間全員に見せてやればいい。
悠真に関わる誰かに「ノー」と言ったのは、これが初めてだった。
その気分は……最高に気持ちよかった。
夜の帳が下りる頃、私は自分のアパートの下に立ち、三階の窓を見上げた。
カーテンの向こうで、監視カメラの赤いランプが点滅している。
彼は見ているのだろうか? 今この瞬間、悠真は黒崎邸の監視室で、スクリーンに映る私の姿を見つめながら、どうやって私を「処理」しようか考えているのだろうか?
私はスマホを取り出し、彼の番号に電話をかけた。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
発信者IDを見た彼の表情が目に浮かぶ――最初は驚き、次に安堵、そして全てを支配する者の自信に満ちた笑み。
繋がる寸前で、私は電話を切った。
そして、電源を落とした。
「これは始まりに過ぎないわ、悠真」私は地下鉄の駅に向かって歩きながら、唇の端を冷たく歪めた。「あなたが私に苦しみってものを教えてくれた。今度は私がお返しをする番よ」
地下鉄が轟音を立てて駅に滑り込み、私は車両に乗り込んで席に座った。
窓の外を光が流れていく。車輪の轟音が耳を満たす。目を閉じると、ふと一つの疑問が頭をよぎった――
一体いつから、全ては始まったのだろう?
八年前。
十八歳の誕生日。
ついに彼の心を手に入れられると、そう思ったあの夜に。
