第1章 胎児の残骸
神谷承吾はグランドビュー・ホテル最上階のスイート、その扉の前に立っていた。薄暗い廊下の灯りが、氷のように冷えた横顔を照らす。
助理から送られてきた監視カメラのスクリーンショット――一時間前、神谷彩夏が男に身体を支えられ、この部屋へ入っていく姿が映っていた。
神谷承吾は薄い唇をきゅっと結び、カードキーをかざしてドアを開けた。
リビングはもぬけの殻。寝室の扉だけが半開きで、奥から「ドンッ!」という大きな衝撃音が響く。
神谷承吾の瞳孔が、ぎゅっと縮む。
大股で踏み込み、扉を一蹴りして蹴破った。
ベッドの上。
神谷彩夏は服が乱れ、小腹はわずかにふくらみ、手には砕けた花瓶の破片。顔色は紙のように白い。
その上にいた男は頭を押さえ、怒りに任せて罵声を飛ばしていた。
「このクソ女! 誘ってきたのはてめぇだろ? 今さら清純ぶってんじゃねぇ!」
神谷彩夏は扉口の神谷承吾を見つけ、目に一筋の希望を灯す。
助けを求めるように身を起こそうとして、力が抜け、ベッド脇の絨毯へ崩れ落ちた。
「承吾……助けに来てくれたの……?」
ただ友人と食事に行き、ドリンクを一杯飲んだだけだった。そこから意識が霞み、気づけば見知らぬ男に連れられ、ホテルの一室にいた。
残ったわずかな意識で花瓶を振り下ろし、男の頭を割らなければ――。
神谷承吾の視線は、毒を塗った刃のように彼女を貫いた。
そして、ふっと笑う。凍えるような笑い声が、神谷彩夏の背筋を冷たく撫でた。
「彩夏、結婚して二年……俺はお前を甘く見てた」
神谷彩夏はまだ力が戻らない。歯を食いしばって訴える。
「違う……そうじゃない。誰かに薬を盛られたの。私を陥れようとして――!」
「薬?」
神谷承吾はしゃがみ込み、彼女の顎を乱暴に掴んだ。声は底冷えするほど低い。
「お前が自分で男を連れてホテルに来たんじゃないのか? 随分と『はっきり』してるじゃないか」
指の力が強すぎて、神谷彩夏は眉を寄せる。それでも、頑なに見返した。
「承吾……一度だけでいい、信じて。私は――」
「信じる?」
神谷承吾は彼女を突き放し、立ち上がる。汚物でも払うような仕草で。
「彩夏、雅子を殺した日から、お前に信用なんて欠片もない」
胸が、大きな手で握り潰されるように痛む。息が詰まるほどに。
神谷承吾の言う雅子――菅野雅子。幼なじみで、彼の高嶺の花。
あの時、神谷彩夏と菅野雅子は一緒に誘拐された。犯人は神谷彩夏だけを解放し、菅野雅子を輪姦し、殺した。さらにその暴行映像を神谷承吾へ送りつけた。
菅野雅子の両親は、神谷彩夏が犯人を買収したのだと泣き叫び、責め立てた。
その日から神谷承吾は、彼女を骨の髄まで憎むようになった。
神谷彩夏が震える唇で何か言いかけた、その時――。
廊下から、柔らかな女の声が聞こえた。
「承吾……中にいるの……?」
菅野詩音が、ハイヒールを鳴らしながら優雅に入ってくる。室内の光景を見た瞬間、驚いたように口元を押さえた。
「……まあ。彩夏さん、どうして……」
彼女は神谷承吾の隣へ寄り添い、そっと手を取る。
「承吾……彩夏さんも、きっと一時の気の迷いよ。落ち着いて……」
神谷彩夏は、はっと顔を上げた。
菅野詩音の目に一瞬だけ走った、得意げな色。
その瞬間、すべてを悟る。
彼女は菅野詩音を睨みつけ、歯ぎしりするように言った。
「……あなたね! あなたが仕組んだんでしょう!」
菅野詩音は菅野雅子の妹で、ずっと神谷承吾を慕っている。表向きはか弱い妹を装いながら、何度も神谷彩夏を陥れてきた女だ。
菅野詩音は目に涙を溜め、唇を噛んで震える。
「彩夏さん……どうしてそんなこと言うの? 姉のことで私が嫌われてるのは分かってる。でも……こんなやり方で仕返しなんて……」
その今にも泣きそうな顔――まるで自分が被害者だと言わんばかり。
神谷彩夏の頭の奥が、かっと熱くなる。
よろめきながらも立ち上がり、残る力をかき集める。
そして――。
パァンッ!
乾いた音が部屋に響き、神谷彩夏の平手が菅野詩音の頬を打ち抜いた。
「菅野詩音……その芝居、いい加減にしなさい! この男を雇ったのも、私を完全に潰して、神谷夫人の座を奪うためでしょ!」
菅野詩音は頬を押さえ、一歩だけ後ずさる。
涙目で神谷承吾を見上げ、怯えた声を出した。
「承吾……私、ほんとに違う……!」
その言葉が終わる前に、菅野詩音が短い悲鳴をあげた。
まるで神谷彩夏に突き飛ばされたかのように、ふらりとよろめき――腕を絡めて、後ろへ倒れ込む。
薬で身体が弱っていた神谷彩夏は引きずられ、背中から絨毯へ叩きつけられた。
次の瞬間、腹部に、重い衝撃。
激痛が下腹部で弾け、全身へ走った。声が喉で詰まり、視界が何度も暗転する。
「詩音!」
神谷承吾の叫びが響く。
彼は長い腕で菅野詩音を引き起こし、焦りを隠しもしない。
「詩音、大丈夫か? どこか痛いか?」
菅野詩音は彼の胸に寄りかかり、涙をぽろぽろ落とした。
「私は平気……でも、彩夏さん……どうして私を押したの……」
「彩夏!」
神谷承吾の怒りに満ちた視線が神谷彩夏へ向く。
だが彼女は身体を折り曲げ、両手で腹を押さえ、額の髪は冷や汗で濡れていた。
――赤い。
彼女の下から、鮮血が溢れ、床に深い染みを広げていく。鼻を刺す鉄の匂いが漂った。
「……子ども……助けて……私の子……」
神谷彩夏は口を開くが、まともな声にならない。破れた呻きがこぼれるだけだ。
神谷承吾の表情が、ようやく変わった。
赤い染みに目を落とし、拳を握り、ほどく。
二秒後、彼は神谷彩夏を抱き上げ、扉へ走った。
「車を出せ! 病院だ!」
声が、わずかに震えていた。
神谷彩夏は彼の腕の中で意識が遠のきながら、かすれ声で言う。
「承吾……私は……裏切ってない……」
神谷承吾は答えず、足を速めた。
手術室の前。赤いランプが刺すように光っている。
神谷承吾は廊下の窓際に立ち、冷たい彫像のように動かなかった。
「承吾……そんなに心配しないで」
背後で菅野詩音が柔らかく言う。
「彩夏さんも大丈夫。赤ちゃんだって……」
その時、手術室の扉が開き、看護師が駆け出してくる。
「妊婦さんが危険です! ご家族の方! 母体を優先するか、お子さんを――」
神谷承吾は振り向きもしなかった。
横顔だけを向け、眉間に露骨な不耐を刻んだまま言い放つ。
「子どもは処置してくれ。そもそも生まれてくるべきじゃない厄介者だ。やり方まで教えろって?」
看護師は言葉を失い、目に驚愕が走る。
家族の苦悩は数え切れないほど見てきたが、こんなにも即断で冷酷な例は稀だった。
菅野詩音は口元を押さえ、残念そうに息を吐く。その瞳の奥には、薄い歓喜が揺れていた。
「いちばん手っ取り早い方法で」
神谷承吾は淡々と続ける。
「時間を無駄にするな」
看護師は何も言わず頷き、扉は重く閉じた。
廊下に静寂が戻り、窓の外で風が呻く。神谷承吾の指先の煙草は、とっくに燃え尽きていた。
――一方、手術室。
神谷彩夏は冷たい手術台に横たわり、下腹部を引き裂くような痛みに耐えていた。
そこへ扉が開き、菅野詩音が無菌服で入ってくる。
「どうしてあなたが?」医師が眉をひそめる。
「神谷様が心配されて。様子を見て、意思を伝えるようにと」
マスク越しの声が、やけに優しい。
菅野詩音は手術台の脇に立ち、神谷彩夏を見下ろした。
神谷彩夏は嫌悪に顔を背ける。
「……出ていって」
菅野詩音は小さく笑い、耳元へ身を寄せる。
二人だけに聞こえる声量で、羽のように軽く――しかし氷の毒を含んで囁いた。
「彩夏さん。さっき外でね、承吾が『はっきり』言ったの。お腹の中のは忌むべき子だって。残しておくのは恥。だから、きれいに処理しろって」
神谷彩夏の身体が、こわばった。
「……嘘よ……」震える声が漏れる。
「嘘?」
菅野詩音は身を起こし、ポケットからスマホを取り出す。操作音のあと、短い録音が流れた。
『子どもは処置してくれ。そもそも生まれてくるべきじゃない厄介者だ。やり方まで教えろって?』
神谷承吾の声。
間違えようがない。
神谷彩夏の血が、凍りついた。骨の芯まで冷たい。
菅野詩音は彼女の蒼白を楽しむように見つめ、主治医へ目配せをする。
「永橋先生。引産で。後始末も、ちゃんと」
医師は明らかにためらった。
「五か月での引産はリスクが高い。患者さんの精神状態も不安定です」
「神谷様の意思は明確です」
菅野詩音は遮り、脅しを滲ませる。
「母体の安全のためにも、早く。神谷様は感謝されますよ」
医師はモニターの不安定な胎児心拍を見て、茫然とする神谷彩夏を見た。
やがて、重く頷く。
「……準備しろ。引産を開始する」
「やめて! 私の子ども! 承吾! 承吾、どこ!」
神谷彩夏はようやく叫び、起き上がろうとして押さえつけられる。
菅野詩音は一歩退き、マスクの下で口角を吊り上げた。
冷たい針が脊椎へ刺さる。下半身の感覚が、じわじわと消えていく。
なのに意識だけは、異様なほど冴えていた。
裂けるように目を見開いたまま、神谷彩夏は見た。
冷たい鉗子が、体内から――小さな、丸まった肢体を引きずり出すのを。
小さい。けれど、腕の形だと分かる。
見たくない。
心が叫ぶ。だが目は、釘で打ちつけられたように逸らせない。
次々と、欠けた手足が取り出され、最後に――未成熟な小さな頭部。
閉じた瞳が、神谷彩夏の見開いた目と重なる。
心臓が止まった。
刺すような痛みが全身へ染み込み、声が出ない。
それでも終わらない。
菅野詩音が近づき、トレイを持ち上げると――中身を床へぶちまけた。
冷たい床に、赤い飛沫がぱっと散る。
「彩夏さん、よーく見て。忌むべき子ってのはね、徹底的に潰してやるのが正解なの」
菅野詩音は笑い、赤裸々な残虐を瞳に浮かべる。
そして、足を上げ――。
ぐしゃり、と。
残骸を踏み潰した。
「……やめろォォォッ!!」
獣のような咆哮が、手術室に響いた。
どこにそんな力が残っていたのか、神谷彩夏は手術台から転がり落ち、菅野詩音を突き飛ばす。
真っ赤な目で震える手を伸ばし、床の残骸を一つ一つ拾い集め、胸に抱きしめた。
守るように、必死に――。
