第3章 病院で
神谷承吾は反手で神谷彩夏の――ナイフを握ったままの手首をがっちり掴み、容赦なく捻り上げた。
「――あっ!」
神谷彩夏が悲鳴を上げる。果物ナイフが指先からすべり落ち、カラン、と床に転がった。
神谷承吾は彼女を乱暴に振り払うと、血の滲む肩を押さえたまま、目の前の女を信じられないものでも見るように睨みつけた。怒りが、腹の底から噴き上がる。
「彩夏! 正気か! 俺を殺すつもりだったのか!」
神谷彩夏は机の角にぶつかり、痛みに身体を小さく折り曲げた。それでも歯を食いしばり、ふらつきながら立ち上がる。
血走った目で神谷承吾を見据えたまま、ひきつった笑いが喉から漏れた。ひたすらに、凄惨で、壊れた笑い声。
「正気じゃないわよ! 子どもが死んだ! あんたが自分の手で『処置』したのよ! 妹は……あんたの手下に踏みにじられて、飛び降りて、植物状態になった! 十八よ! 神谷承吾……これで狂わない方がおかしいでしょ!?」
叫ぶうちに、堰が切れたように涙が溢れ出す。顔の血と混ざり、醜く、哀れで、見ていられないほどだった。
「どうして私にこんなことするの? 私が何をしたっていうの!? 菅野雅子に借りがあるなら、私の命で返せばいい! それで終わりでしょ! なんで清美に手を出したの! あの子は……私の命より大事だって、知ってるくせに! 答えなさいよ!!」
泣き血のような言葉が、広い執務室に虚しく反響する。
神谷承吾は「須藤清美」という名に、ほんの一瞬だけ眉をひそめた。だが「雅子の死」をあまりにも軽く口にしたことが、次の瞬間、彼の怒りに油を注いだ。
神谷承吾は神谷彩夏の喉元を掴み上げ、そのまま引きずり起こす。歯を食いしばり、唸るように吐き捨てた。
「よくも雅子の名前を出せるな。忘れたのか。どうやって死んだ。輪姦されて、動画まで撮られて、身体だって――」
「二十二だったんだぞ! あいつが何をした!? 雅子は死んだのに、お前はのうのうと生きて……それどころか、俺の子どもまで産もうとしてたのか!?」
声がどんどん荒くなる。最後は咆哮に近かった。積もり積もった憎悪が、堰を切って噴き出す。
「お前にそんな資格はない! 須藤家の人間は……誰ひとり、まともに生きていいはずがない!」
「いいわ、資格なんてない!」
神谷彩夏は掠れた声で笑った。虚ろで、狂っている目。
「神谷承吾。お互い『生きる資格がない』って言うなら……一緒に死にましょうよ!」
再び、彼に飛びかかる。今度は武器なんてない。歯で、爪で、使えるものすべてで噛みつく――完全な相討ちのやり方。
「離れろ!」
神谷承吾はその狂気に怯んだように、怒り任せに突き飛ばした。
神谷彩夏は限界まで弱っていた。恨みだけで立っていた身体が、押された瞬間、あっさりとバランスを失う。
背後は――秘書室へ続く螺旋階段。
神谷承吾の瞳孔が、ぎゅっと縮んだ。
神谷彩夏が、階段の上から――転がり落ちていく。
ゴンッ! ゴンッ!
硬い段に身体が叩きつけられ、鈍い音が連続する。骨が砕けるような鋭い痛みが、衝撃のたびに全身を貫いた。
最後は後頭部。
内側で何かが炸裂したように、ぶおん、と耳鳴りが世界の音を食い潰す。
骨の隙間から痛みが這い出してくる。こめかみから、ぬるりと温かいものが流れた。
バラバラになった布人形みたいに、冷たい床に投げ出される。指先ひとつ、曲げられない。
神谷承吾はその場に固まった。肩の傷はまだ血を流しているのに、痛みがない。
しばらくしてようやく我に返り、階段を駆け下りた。
彼女の傍にしゃがみ込む。だが、触れるのが怖くて手が出ない。
神谷彩夏は目を閉じ、血と傷が顔に交差している。呼吸は、あるのかないのか分からないほど薄い。
「……救急車を呼べ」
自分の声が、やけに掠れて聞こえた。
神谷承吾は血に濡れた上着を脱ぎ、頭部から止まらず溢れる血を押さえようとする。
指先が彼女の冷たい肌に触れた瞬間、説明のつかない恐怖が心臓を握り潰した。
……
救急車はすぐに来た。
神谷承吾はストレッチャーに合わせて救急へ駆け込み、白衣の医師たちが一斉に取り囲む。
「頭部強打! 瞳孔不同、頭蓋内出血疑い!」
「血圧低下が止まりません! 緊急CT!」
「脳外と整形、至急コンサル!」
慌ただしい処置ののち、医師が神谷承吾の手からストレッチャーを受け取り、そのまま神谷彩夏を奥へ押していく。
救命処置室の扉が閉まる。
神谷承吾は外で立ち尽くし、さっきまでの激しい感情から抜け出せないまま、ただ呆然としていた。
肩の出血は袖の半分を濡らしている。幸い深くはないらしく、看護師が止血と包帯を手早く巻いていく。だが彼の視線は、閉じた扉から一度も離れなかった。
菅野詩音も慌てて駆けつけた。
神谷承吾を見るなり、息を呑む。
「承吾……その傷、大丈夫?」
神谷承吾は返事をしない。扉だけを見ている。
菅野詩音は唇を噛み、優しい声で続けた。
「彩夏さん、ほんとに衝動的すぎるよ……どうして刃物なんて。承吾が反応早かったからよかったけど、下手したら……」
言い終える前に、神谷承吾が不意に顔を向けた。冷えた目。
「どうしてお前が、あいつがナイフで俺を傷つけたって知ってる」
菅野詩音が一瞬、凍りつく。慌てて目を伏せ、髪を弄るように誤魔化した。
「……病院の看護師さんから。彩夏さんが急に病室を飛び出して、様子がおかしいって……それで、皆が追いかけたって聞いたの」
神谷承吾は答えない。視線も戻さない。
菅野詩音の瞳に悔しさが走るが、すぐに柔らかな慰めの表情へ塗り替える。
「承吾、自分を責めないで。彩夏さん、きっと大丈夫」
「それに、今回の件は彩夏さんが悪いよ。姉のことだって、あなたは責めずに来たし……引産だって、命を助けるためだった。どんなに取り乱しても、刃物を向けるなんて……」
神谷承吾は目を閉じた。
そのとき、救命処置室の扉が勢いよく開く。看護師が飛び出し、切迫した声を投げた。
「緊急手術になります! ご家族の方、同意書のサインを!」
神谷承吾は同意書を受け取る。そこに並ぶ文字が目に刺さる――頭蓋内血腫除去術、植物状態の可能性、術中大量出血による死亡……
息を吸う。胸に石を乗せられたみたいに重い。呼吸するたび、ずしりと痛む。
彼は迷いなく署名した。
看護師は同意書を抱え、奥へ戻っていく。
扉が再び閉じ、上に灯る「手術中」の赤が、やけに眩しい。
一分一秒が、削られていく。
廊下は静まり返り、窓に当たる風の音さえ聞こえそうだった。
神谷承吾は窓際に立った。外が少しずつ白んでいくのに、瞼の裏には神谷彩夏が階段を転げ落ちていく光景ばかりが焼きついている。
――そんなに俺が憎いのか。
雅子を殺した女だ。流産して、転落して、苦しめばいい。それは自分が望んだはずだ。
それなのに、あの瞬間を思い出すと、どうして心がざわつく。
夜通しの手術ののち、脳外科の主任が出てきてマスクを外した。
「神谷様」
神谷承吾は歩み寄る。自分でも気づかないほど焦った声が出た。
「……どうなんだ」
「手術自体は、ひとまず順調でした。血腫は除去できています。ただ、頭部の損傷が大きく、まだ危険期です。それから腰椎に骨折と亀裂があり、こちらも厄介です。追加の治療が必要になります」
「いつ目を覚ます」
「正直、分かりません。回復はご本人次第です」
医師は続ける。
「ただ神谷様、患者さんの状態は極端に悪い。引産直後にこの重傷です。仮に目覚ましても、重い後遺症が残る可能性は高いでしょう」
神谷承吾は拳を握り締め、息を深く吐いた。
「……頼む。最善の方法で、薬も一番いいものを使ってくれ。金はいくらでも出す」
「尽力します」
医師はそう言って去った。
菅野詩音も一晩付き添っていた。神谷承吾が無意識に神谷彩夏を案じる様子を見せるたび、胸の奥が嫉妬と憎しみで焼ける。
それでも顔には、変わらぬやさしさを貼りつけたまま。
「承吾、一晩ずっとだったでしょ。少し休んで」
「ここは私が見てる。彩夏さんが目を覚ましたら、すぐ連絡するから」
神谷承吾はICUの奥を一度だけ深く見てから、鼻で笑った。
「目を覚まそうが、俺に関係ない」
「俺を殺そうとした女だ。心配するわけないだろ」
吐き捨てて、背を向ける。
菅野詩音は微笑みで見送った。扉が閉まると、その笑みはゆっくり消える。
彼女はICUのガラス窓へ近づき、管だらけの神谷彩夏を見下ろした。瞳に嘲りの冷たさが揺れる。
「しぶとい命」
小さく嗤う。
「でも、まあいいか。じわじわの方が、面白い」
……
神谷彩夏が目を覚ますまで、三日かかった。
長く、底なしに恐ろしい悪夢に閉じ込められていたみたいに――ふいに瞼が跳ね上がり、視界が天井へ突き刺さった。
身体がびくりと震える。
最初に来たのは痛みだった。
頭は割れそうに痛く、全身は大型車に轢かれたみたいに重い。腰から下は、痛いのに痺れていて、まるで動かない。
次に、骨髄まで染みる恐怖が皮膚の下から這い上がってくる。腕の産毛が逆立ち、ぶつぶつと鳥肌が立った。
――私、死んでない?
――病院……?
――動けない。これから先も、ずっと?
――このまま寝たきりで、餓死して、腐っていくの?
だって、私を世話する人間なんて、この世界にいるわけが――。
絶望が喉を塞ぎかけたとき、ベッド脇で、幽かな声が落ちた。
「思ったより早かったね。目、覚めるの」
神谷彩夏は必死に眼球だけを動かす。
菅野詩音がベッドサイドに座り、優雅にリンゴの皮を剥いていた。白く光る刃先が、指先でちらちらと瞬く。
「残念。今度こそダメかと思ったのに」
菅野詩音は剥いたリンゴを一口大に切る。しかし神谷彩夏へ差し出す気配はない。爪楊枝でひと切れ刺し、ゆっくり自分の口へ運んだ。
「でも、死なれたら拍子抜けじゃない? 一瞬で終わるなんて、つまらない」
「ベッドの上で、生きたくても生きられない、死にたくても死ねない……そっちの方がずっと楽しいよね」
そして、言葉を甘く歪める。
「――あんたのクズ妹みたいに」
神谷彩夏の目が見開かれた。憎しみが火花になって迸りそうなのに、口は動かない。喉が乾ききって、音が出ない。
「水が欲しい?」
菅野詩音はコップを手に取ったが、自分でひと口だけ含んだ。
「残念。今は飲食禁止だって。先生が言ってた。耐えてね」
「……出て……いけ……」
神谷彩夏が絞り出したのは、掠れた息みたいな音だけ。
菅野詩音は可笑しそうに笑う。
「そこまでボロボロなのに、まだ口だけは元気なんだ」
「妹は植物状態、子どもは生きたまま引きずり出されて、あんた自身も半分死んでる。神谷承吾なんて、あんたが消えてくれたらせいせいするって思ってるのに」
「私にお願いしたら? もしかしたら気が向いて、楽にしてあげるかも」
神谷彩夏は彼女を睨みつけた。今すぐ喉を噛み切りたいという目。
心電モニターが、ピィィィ、と鋭く鳴り出す。
「ほら、興奮しないで」
菅野詩音は少し距離を取る。
「でも忘れないでね。こうなった原因は神谷承吾だよ?」
警報音に気づいて看護師が駆け込み、設定を調整して音を止める。
菅野詩音は人が入った瞬間、表情を切り替えた。心配そうに眉を下げる。
「看護師さん、彩夏さん、起きたばかりで辛そうで……どうか、よろしくお願いします」
看護師は頷き、点滴の速度を整え、呼吸を落ち着かせるよう声を掛ける。感情を乱さないよう、念を押して去っていった。
扉が閉まると、菅野詩音はもう演じない。バッグを手に取り、帰る支度をする。
そのとき、病室の扉が開いた。
神谷承吾が入ってくる。
菅野詩音はまた瞬時に表情を作り、弾む声で言った。
「承吾、彩夏さん目を覚ましたよ。ちょうど呼びに行こうと思ってた。すごく辛そうで、ずっと震えてて……」
神谷承吾の視線が神谷彩夏へ落ちる。
紙みたいに白い顔。ひび割れた唇。それでも、目だけが異様に明るい。憎悪を隠そうともせず、彼を射抜いている。
「……お前は出ていろ」
神谷承吾は菅野詩音へ言った。
菅野詩音は素直に頷き、出ていく。出る前にドアを丁寧に閉め――振り返りざま、神谷彩夏へ嘲るような視線を投げた。
病室に残ったのは二人。
神谷彩夏は口角をほんの少し持ち上げた。声は紙やすりみたいに擦れる。
「なに……私が死んだか見に来たの?」
神谷承吾はベッド脇に立ち、見下ろした。複雑な目。
「しぶといな」
神谷彩夏は天井へ視線を泳がせ、それでも目の端で彼を捉え続けた。声に濃い憎しみが滲む。
「あんたの期待、外れたわね。あの階段で、都合よく死んでやれなくて」
神谷承吾の眉間が深く刻まれる。声も冷える。
「彩夏、先にナイフを向けたのはお前だ」
「そうよ」
神谷彩夏はふっと笑った。乾いた喉で引っかかる、割れた笑い。
「あの一刺し……なんで外したのかしら。ちゃんと刺せてたら、今ここに寝てるのは、あんたの方だったのに」
神谷承吾の目に怒りが跳ねた。だが包帯だらけの頭、血の気のない頬を見た途端、怒りが奇妙に沈む。
「分かってるのか。あのときのお前は……完全に狂ってた」
「狂うに決まってる!」
神谷彩夏の声が裂けた。必死で息を吸うたび、喉がずたずたに裂けるような音が混じる。
「神谷承吾……それと、外にいた芝居の上手い菅野さん。あんたたちが手を組んで私をここまで追い詰めたんじゃない。私が狂うのを、待ってたんでしょ!?」
「詩音が関係あるか。ここ数日、お前に付いて、世話して、看病してたのはあいつだ。恩知らずもいい加減にしろ」
「……ふん。恩知らず、ね……」
神谷彩夏は言葉の途中から、ほとんど声にならない。ひゅっ、と干いた呼気が数回漏れ、呼吸のたびに喉が裂けるようにざらついた。
神谷承吾の瞼が小さく跳ねた。一瞬、水でも持ってきてやろうかと思う。喉を湿らせるだけでも――。
だが、神谷彩夏の瞳に燃える憎悪を見て、踏みとどまる。拳を硬く握り締めた。
しばらくして、神谷彩夏がようやく言葉を繋いだ。
「神谷承吾……私をバカだと思ってるの? それとも、あんたがバカ?」
「関心? 世話? 看病?」
唇の端が歪む。
「彼女は私が死ぬのを、誰より望んでる」
