第4章 お姉ちゃん、何してるの?
彩夏は荒い息を吐き、鼻で笑った。
「……そっか。あなたに分かるわけないよね」
「あなたの中じゃ、菅野詩音はいつだって守ってあげなきゃいけない『妹』で……私は須藤彩夏。生まれつき意地が悪くて、下品で、あなたの大事な人を殺した最低の犯人」
「だから、あの子が何をしても正しくて、私が何を言っても言い逃れ……そうでしょ?」
後半は息が続かず、掠れた声が喉の奥で消えた。
神谷承吾はその連打のような言葉に胸の奥を逆撫でされ、苛立ちを隠さず声を荒げる。
「彩夏! もういい! 自分がやらかしたくせに、詩音に泥を塗る気か!」
「まだ痛い目が足りないらしいな」
彼はいきなり身を屈め、彩夏の手首を乱暴に掴み上げた。指が骨に食い込み、ひとつひとつ噛み砕くように言う。
「警告しておく。これ以上、くだらない離間を狙うな。詩音を侮辱するな」
「いまここに寝てるのは自業自得だ。まだ戯言を吐くなら――俺が二度と喋れないようにしてやってもいい」
ピッ、ピッ、ピッ……と機械が単調に鳴り、手首に鋭い痛みが走る。けれど、ナースは入ってこない。
彩夏は眉を寄せ、歯の隙間から声を絞り出した。
「……だったら、いま……いま絞め殺せばいい」
「じゃないと……私が、まだ……息をしてる限り……あなたたち、誰ひとり……許さない……!」
神谷承吾は、彼女の瞳に宿る決裂した憎悪に一瞬、射抜かれた。胸の奥が、理由もなくひくりと痛む。
反射のように手首を放す。まるで熱いものに触れたみたいに。
彼は立ち上がり、乱れた袖口を整えた。背を向け、視線を切ると、声もいつもの冷淡さに戻る。
「怪我を治せ。無駄なことを考えるな」
「それから、おとなしくしてろ。くだらないことをまだ言うなら――上の階で寝てるお前の妹の延命費用、俺がいつまで出すか分からない」
言い捨てると、彼は病室を大股で出ていった。
バタン。
ドアが閉まる。
病室は、死んだみたいに静かだった。
彩夏が必死に握りしめていた「折れない」という気持ちが、音もなく崩れていく。気づけば涙がこぼれ、熱い雫がこめかみへ吸い込まれた。
唇を噛みしめる。血の味が滲んで、ようやく声を殺せた。
……
それから半月あまり。
彩夏の容体はようやく落ち着き、集中治療室から一般のVIP病室へ移された。
腰から下は相変わらず痺れて力が入らない。それでも上半身なら少し動かせるし、流動食も口にできる程度にはなった。
午後の陽射しがよかった。窓から差し込む光が肌を温め、病室に柔らかな輪郭を作る。
彩夏は窓際で、外をひらひら舞う蝶をぼんやり目で追っていた。
そのとき。
ドン、と乱暴な音を立ててドアが押し開けられた。
入ってきたのは中年の女だった。原色の服にけばけばしい化粧、ふくよかな体つき。後ろには二十歳前後の男がついてくる。
男は間の抜けた顔をしているのに、彩夏へ向ける視線だけが妙にぬめついていた。
彩夏は一瞥しただけで目を逸らす。
須藤百合――継母。そして連れてきた息子、須藤太郎。
須藤百合は嘲りの笑みを浮かべる。
「まあ! 神谷家の奥様じゃない。どうしてこんなとこで寝てるのぉ?」
「子どもを失くして、自分も階段から落ちたって聞いたけど。ほんっと、うっかりねぇ?」
彩夏の顔色が沈む。
「誰が呼んだの。出ていって」
須藤百合は腰に手を当て、肥った頬を吊り上げた。
「なにその口の利き方。なんだかんだ言っても、私は母親でしょ? 入院したって聞いたから見舞いに来てあげたのに」
――聞いた?
縁を切って久しいのに、病院まで突き止め、子どもを失くしたことまで知っている。誰が吹き込んだかなんて、想像するまでもない。
彩夏は眉間に皺を寄せ、氷みたいな声で言った。
「私の母親は、とっくに死んだ」
「あなたとも、そのバカ息子とも、何の関係もない」
「二度と言わせないで。出ていけ」
須藤百合の顔が、みるみる歪んだ。
「このアバズレ! なに偉そうに!」
彼女は彩夏の鼻先を指さし、唾を飛ばす。
「いい男に取り入ったら、もう昔を忘れたってわけ?」
「昔、私が情けをかけて金を残してやらなきゃ、あんたら姉妹なんか路上で飢え死にしてたんだよ! それが羽が生えたら、この口かい!」
笑わせる。
父が破産したあの日。須藤百合は十五の自分と六歳の妹を置き去りにして、家中の金目のものを掻っ攫って消えた。知人たちが警察沙汰にして、ようやく取り返した金が少しだけ――それを「残した」と呼ぶのか。
彩夏は相手にする気も起きず、ナースコールに手を伸ばす。
だが須藤百合の方が早かった。
ぐいっと手首を掴まれ、次の瞬間――
パァン!
乾いた音が病室に弾けた。
頬が横に跳ね、顔が熱を持つ。くっきりと赤い指の跡が浮かび、耳の奥がじんじん鳴った。
「母ちゃん! 打て! 打てぇ!」
須藤太郎は怖がるどころか手を叩いてはしゃぎ、歯をむき出しにして笑う。目だけがぎらつき、病衣の緩んだ襟元へ釘付けになっていた。
「この恩知らずが!」
須藤百合はまだ気が済まない。彩夏の髪を掴んで引き上げ、無理やり顔を上げさせる。
「グダグダ言うな。あんたの父親が残した金、返しな! 元々あれは私のもんだろ、小娘!」
頭皮が引き裂かれそうに痛い。
彩夏は身を捩るが、腰から下に力が入らず、上半身も押さえ込まれて動けない。
その隙を縫うように、須藤太郎がへらへら笑いながら近づいてきた。汚れた手を伸ばし、彩夏の胸元へ――。
「きれい……へへ……さわる……」
指先が病衣に触れた瞬間、彩夏の全身に鳥肌が立つ。
残った力を振り絞り、渾身で突き飛ばした。
「やめて! 触らないで!」
太郎はよろめき、壁に手をついた。転びかけた顔が、途端に荒くなる。
「たたく……たたく……!」
呪文みたいに呟きながら、また飛びかかろうとする。
須藤百合は押さえつけたまま、煽り立てた。
「太郎! このクズが触らせないなら、余計に触りな! 痛い目見せてやりな!」
彩夏は抵抗できず、悔しさと恐怖で涙が溢れる。須藤百合の腕に噛みつこうと口を開いた、その瞬間――髪を引かれて顔を逸らされた。
「……彩夏さん! な、なにしてるんですか……!」
入口に立っていたのは菅野詩音だった。口元を押さえ、目を大きく見開いている。
その背後に、神谷承吾が続く。
詩音は震える声で叫んだ。
「彩夏さん! 病気で入院してるからって……そんな、自分を大事にしないことしちゃだめです……! そ、その……あんな人相手でも、手を出すなんて……!」
「承吾さんの立場が、どうなると思ってるんですか!」
