第2章
男の、苦しみに滲んで赤く染まった眼差し。それが、私の脳裏に焼きついた最後の光景だった。
控室の空調は最大のはずなのに、身体の芯まで冷えきっている。
胸のあたりを生きたまま抉られて、さらに何度も捻られたみたいで――痛みのせいで息が続かない。
ここに座り込んで、もうきっちり一時間。頭の中で繰り返し再生されるのは、爆発の瞬間と……原崎野矢が最後に残した言葉。
「君を一人にしたくない」
でも、私だって――あなたを一人にしたくない。
……そう。
私は死んだはずなのに、なぜか生きている。重ねるように、もう一度。
奥歯をぎり、と噛みしめた。喉の奥に押し込めた掠れた笑いが、ひゅ、と漏れる。
今度こそ。
もう二度と、まな板の上の魚みたいにやられっぱなしの馬鹿はやらない。
私を欺いて、踏みにじって、裏切った連中――全員、代償を払わせる。
「お姉ちゃん? 着替え、終わった?」
扉の向こうから届く声は、甘ったるいほど柔らかい。
その一音だけで指先が跳ね、今すぐ飛び出して口を引き裂きたくなるのを、私は必死に抑えた。
広瀬有香。
その名を思い浮かべるだけで、胃の底がぐらりと捻じれる。
この時点で、広瀬有香はすでに広瀬家へ「実の娘」として迎え入れられている。前の私は、彼女を本当の妹みたいに可愛がった。
――なのに彼女は、私の夫になる男と通じて、背中から何度も刃を突き立てた。私のものは全部奪われ、最後には腎臓まで、二人が仕組んだ罠で抉り取られた。
今すぐ殺したい。
けれど、できない。
生きているなら、帳簿を一枚ずつめくるみたいに、きっちり回収していくだけだ。
私を害した人間は、一人も逃がさない。
「お姉ちゃん? いるの? なんで返事しないの?」
ノックの間隔が苛立たしく短くなる。
私は不機嫌のまま、勢いよく扉を引いた。
「きゃっ……!」
広瀬有香は不意を突かれて前のめりになり、顔から床にいきそうになる。私は表情ひとつ動かさず、半歩だけ下がって、彼女がみっともなく体勢を立て直すのを眺めた。
「ちょっと! 急に開けないでよ! 転ぶところだったじゃない!」
壁に手をついて、委屈そうに文句を言う。
私は視線を落とし、淡々と告げた。
「汚れるのが嫌だっただけ」
「……え?」
広瀬有香が目を丸くする。信じられない、という顔。
彼女の瞳の奥に、ほんのわずかな怯えと逃げが走ったのを、私は見逃さない。胸の内では冷笑しながら、口元だけをゆっくり持ち上げた。
「今日は私と田村成川の婚約の日でしょ。ドレスはオーダーメイドで高いの。メイクの顔を擦りつけられたら困るじゃない?」
言いながら、私は自分から彼女の腕に絡み、やけに親しげに身体を寄せてみせた。
広瀬有香の口角がひくりと引きつる。罵声が喉までせり上がったのがわかる。
――でも、飲み込んだ。
「……そうだね。大事な日だし、気をつけたほうがいいよね」
無理に笑って取り繕い、甘い声で続ける。
「儀式、もうすぐ始まるよ。早く下りよう!」
その甘い笑顔の分だけ、吐き気がする。
前の人生の今日、このあとに待っていたのは――私を人前で叩き潰すための「本番」だった。恥をかかせ、名誉を奪い、この街で二度と顔を上げられなくするための。
「時間だね。行こ」
胸の奥で渦巻く悪寒を押し殺し、私は彼女に腕を取られたまま廊下へ出た。
数歩進んだところで、廊下の向こうからトレイを持ったスタッフが近づいてくる。照明が暗く、顔は影に沈んでよく見えない。
「お姉ちゃん、羨ましいなあ。成川さんとすっごくお似合い。婚約って聞いて、パパも嬉しくて仕方ないみたいだし!」
広瀬有香の声は相変わらず甘い。
けれど私は知っている。前の人生で父がこの婚約に首を縦に振るまで、彼女は父に嘘を吹き込み続けた。怒りと失望を煽られた父は倒れ、入院するほど追い詰められ――ようやく、渋々の承諾。
私は笑ってみせ、彼女の手の甲を軽く叩いた。
「適当なこと言わないの。あなたはあなたで、もっといい人に出会えるよ」
内心は、氷みたいに冷えている。
前の人生であなたが奪ったものは全部、私を踏み台にして手に入れたくせに。
「ないない」
彼女は甘えるように語尾を伸ばす。
「お姉ちゃんみたいな福、ないもん。こんなに綺麗なんだし、誰だって好きになるよ」
私は返さず、横顔だけを盗み見る。
その可憐な口元が、ごくわずかに下がった。ほんの一瞬。
――思い出す。
痛みで痙攣して意識が朦朧としていた私の傍で、広瀬有香は田村成川に寄り添いながら笑った。
「成川さん、この顔って邪魔。壊しちゃおう?」
それから私は、「醜」の一文字を刻まれた。
一刀、一刀。三度気絶しても、二人は拍手して笑っていた。
今、その女が隣にいる。
息は穏やかで、メイクは完璧で――同じ顔。
胸の底で憎しみが煮え立つ。
「命が違う」って言うなら、いい。
その命、私があげる。
スタッフが近づく。
広瀬有香が、ほんのわずかに頷いたのが見えた。
来た。
私はふいに立ち止まり、つま先を滑らせるように前へ出す。広瀬有香のハイヒールの踵に、そっと引っかけた。
「きゃっ!」
よろめいた彼女の悲鳴。
私は即座に手を伸ばして支える――が、後ろへ引くのではなく、強引に自分のほうへ抱き寄せ、くるりと身体を入れ替えた。
次の瞬間。
「ばしゃっ!」
トレイが傾き、赤ワインが――頭から――広瀬有香の後頭部から肩にかけて降り注ぐ。
ドレスは濡れて貼りつき、髪は首筋にまとわりつく。惨めで、みっともない姿。
「きゃああ!」
「有香!」
私は大げさに叫びながら、彼女の顔をわざと乱暴に拭った。
「大丈夫!? お姉ちゃんに見せて!」
本当は顔にかかっていない。
でも、私の手にはワインがついている。塗り広げれば充分だ。
アイラインはどろりと溶け、口紅は滲み、ファンデーションは斑に崩れて――まるで道化の仮面。
広瀬有香が、震える唇を開く。罵り言葉が飛び出しそうな顔。
私はその前に、くるりと向き直ってスタッフの頬を張った。
ぱんっ!
呆けた顔のまま固まったところへ、もう一発。
ぱんっ!
「何やってるの! 私たちはこれから壇上に上がるのよ。妹のドレスをこんなにして……仕事もまともにできないの?」
言葉を畳みかける。
「今すぐ持ち場を離れて。責任者に言って、即刻交代してもらうから」
空気が凍りつく。
――前の人生で知った。こいつは広瀬有香に買収され、私を転ばせるために近づいてきた男だ。無辜の被害者なんかじゃない。
スタッフは頬を押さえ、泣きそうに立ち尽くす。
広瀬有香は、ぽかんと私を見ていた。まるで初めて私を見るみたいに。
「お姉ちゃん……もう、いいよ。わざとじゃないみたいだし」
必死の笑顔で取り繕い、甘い声を作る。
私は即座に表情を切り替え、心配そうに彼女の手を握った。
「先に部屋で着替えよう? すぐ新しいドレスを手配するから」
休憩室へ連れていき、私はさりげなく彼女のスマホを手に取って、ある番号を控えた。
「ちょっと待ってて。化粧品買ってくる」
部屋を出て、そのまま化粧室へ。控えた番号に電話をかける。
「予定通り、お願いします」
手を洗っていると、背後から低く冷たい声が落ちてきた。
「広瀬さん。自分の婚約パーティーで、よくこんな仕込みができるな」
全身が硬直する。次いで血が一気に巡り、熱く脈打った。
その声だけで、胸がぎゅっと締めつけられる。
――原崎野矢。
