第3章

前世で原崎野矢が収監される前、私は一度だけ彼に手を出したことがある。

人前で、あろうことか侮辱した。

誰もが口を揃えて言う。原崎野矢は――狂っている、と。

そんな「狂人」を、前の私はいちばん見下していた。

そして今、この時間軸はまさに、少し前のチャリティー晩餐会で私が大勢の前に吐き捨てた、その直後。

「私、広瀬妃菜は本物のお嬢様じゃなくても、あなたみたいな冷酷な人とは一言だって話さない」

あんなに手ひどい言葉で面子を潰したのに。

死ぬ間際になって、彼がとっくに私を許していたことを知った。

――いつ、許したのか。

考えるのが怖い。

首がきしむほど固くなったまま振り向く。心臓を誰かに握られているみたいに、どくん、と脈が跳ねた。

出入口に立つ男は、気怠げに壁へもたれている。指の間には煙草。白い煙が青みがかって渦を巻き、彼の輪郭をゆらゆらと歪ませて、視界が一瞬霞んだ。

記憶の中と、寸分違わない。

煙の奥に半分隠れた横顔は刃物みたいに鋭い。冷たい光が頬を撫でるたび、言葉にしがたい邪気が滲む。

物音に気づいたのか、彼はわずかに首を傾けてこちらを見る。薄い唇が吊り上がった。

「運が悪いな。トイレってのは、防音じゃない。――何でも聞こえる」

はっと我に返る。爪を掌に食い込ませ、無理やり冷静さを作った。

今の原崎野矢が何を望んでいるのか、分からない。

この時点で私をどれほど好きなのかも、分からない。

そして何より、もっと早い「彼を怒らせる前」に戻れなかったことが悔しい。

でも、もう逃げられない。逃げても意味がない。

この人生も、前世も――私は彼にだけは、逆らえないと知っている。

胸の震えを押し殺し、口角だけ持ち上げた。

「原崎様」

原崎野矢は真っ直ぐに私の顔を見つめる。

この顔は確かに人受けがいい。笑えば目の奥に砕けた星屑みたいな光が散って、眩しいほどに映る――そう思っているのが、彼の視線から伝わった。

眉尻がぴくりと動く。彼は深く煙を吸い込み、気怠げな声で言った。

「広瀬さん、今日は機嫌がいいのか? 俺みたいな冷酷な狂人にも、笑って話しかけられるなんて」

皮肉だ。

それでも私は、内心で息をついた。

――まだ怒ってる。

数歩近づくと、彼の纏う雪松の香りがふわりと鼻を満たした。

「広瀬さん、何か用か?」

低く落ちる声。

私は引かない。むしろもう一歩だけ詰めて、それから腰を折り、丁寧に頭を下げた。

「原崎様。以前は若くて分別がなく、失礼なことを申しました。お詫びします」

今ここで宥め損ねたら、今日の婚約披露のあとに控えている計画が、崩れるかもしれない。

そんな賭けは、できない。

私は頭を下げたまま、過ちを認める姿勢を崩さなかった。

――なのに。

彼は突然、煙草を洗面台に押しつけてじゅっと消し、煙の匂いが染みついた指先で私の顎をすくい上げた。

「謝罪? ……ふん。広瀬さんが俺の面子を一欠片も残さず踏み潰したとき、今日のことを想像したか?」

正直、読めない。

この男の心が、どこにあるのか。

「……どうしたいんですか」

視線を落とし、歯を噛みしめて問う。

次の瞬間、彼が距離を詰めた。

生まれつき王者みたいな圧が、息を奪う。

「じゃあさ……俺のものになれよ」

全身が凍りつく。

彼は鼻で笑い、私を射抜いた。底の見えない黒い瞳。

「ああ、そうか。忘れてた。広瀬さん、今日は婚約の日だったな」

口ではそう言いながら、手は止まらない。

指先が顎から耳朶へ滑り、黒髪を一房すくって軽く払う。その仕草は馴れ馴れしく、まるで新しい玩具を弄ぶみたいだった。

私は避けなかった。

この甘ったるい距離感に酔うどころか、頭が冴えていく。

彼の態度が掴めない。今の彼の「好意」は、そこまで深くないはずだ。私に辱められたことが引っかかって、興味を持ったか――あるいは、復讐したいだけか。

「冗談はおやめください、原崎様」

私は彼の目を見返し、耳元に留まる指を許したまま言う。

「口が軽くて、取り返しのつかないことを言いました。私の落ち度です」

彼が、ふっと止まった。

私の顔を一周するように視線を巡らせる。闇みたいな瞳に、言葉にできない感情が一瞬だけ過ぎった。

そして、ゆっくり手を引く。

私は瞬きをして――意味が分からず、固まった。

「……もういい」

彼は指をポケットに突っ込み、背を向ける。歩き方は荒く、獣みたいに容赦がない。

「まだ用があるんだろ。邪魔しねえよ」

「原崎様!」

思わず呼び止めていた。

私は、彼がさっきの電話の内容を聞いていたことを知っている。

だから止めたのに――次の言葉が出ない。

彼は振り返らない。

足が止まり、ようやく顔だけ少しこちらへ向ける。眉を上げた。

「俺は見世物が好きなんだ。だから、お前の舞台は壊さない。……ただ、ひとつ忠告してやる」

口元が歪む。

「次に悪さするなら――自分のスマホは使うな」

男が去ったあと、私は化粧品など買いに行かなかった。向かったのは音響の担当者だ。

本来なら、私が用意した甘い思い出のPPTを流すはずだった。

けれど今は――もっと面白いものを流したくなった。

二階の隅、目立たない席に腰を下ろし、田村成川へメッセージを送る。

『旦那様、私いま休憩室にいるの。ちょっと来て?』

スマホの時刻を横目で確認する。頃合いだ。

手の中のリモコンをくるりと回し、指先でボタンを押し込んだ。

カチ、と乾いた音。

プロジェクターが起動し、同時にホールの天井灯がすっと落ちた。残ったのは、スクリーンの淡い光だけ。

ざわめきが一気に引く。

大勢が顔を上げ、前方の白布を凝視した。

「え? もう始まるの? 司会まだ出てないよね」

「タイミング早すぎない?」

フロアマネージャーの顔が強張り、音響ブースへ駆ける。

音響担当はその場で立ち尽くし、血の気を失っていた。

プログラムは自分が設定した。時間はまだ。いったい誰が――。

スクリーンに、ぶつりと映像が出る。

画質は粗い。ぼやけている。

――なのに、内容だけはやけに鮮明だった。

ホテルの休憩室。大きなベッド。

その中央で、男が三人、ひとりの少女を囲んでいる。

彼女のウェディングドレスは引き裂かれてぼろぼろだ。肩紐はずり落ち、胸元と首筋には赤い痕がいくつも残る。頬には涙。

生々しい喘ぎと、下卑た笑い声。

ホール中に反響して、空気が一瞬で凍った。

男たちは不格好だった。背が低いのもいれば、太ったのもいる。顔つきも醜悪で、見ているだけで胸が悪くなる。

さらに最悪なのは――三人が同時に少女の身体を弄んでいるのが、誤魔化しようもなく映っていたことだ。

「……何これ」

「広瀬家の婚約披露で、なんでこんなの流すんだよ」

「でも、あの女……見覚えない?」

「広瀬妃菜じゃないか!」

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