第4章
二階の曲がり角、影の濃い場所に立って、私は階下を冷静に見下ろしていた。
会場がざわめき返す中、誰かが映像の主役を私だと勘違いしたらしい。
「広瀬妃菜? うそでしょ、今日は彼女の婚約パーティーなのに」
「さあね。誰かを怒らせたんじゃない? わざわざこの日に恥かかせて、社会的に終わらせるつもりで」
言っている本人は、妙に弾んだ声だ。口元には、他人の不幸を肴にする笑み。
指先をぎゅっと握りしめる。冷えがじわじわと全身を這い上がってきた。
こいつらは顔なんて見ちゃいない。ほんの少し扇情的な映像が流れただけで、勝手に筋書きを作って、勝手に盛り上がる。
前の人生の私が、いつものように馬鹿みたいに操られていたら――本当に取り返しのつかないことになっていた。
そのとき、二人が慌ただしく駆け込んでくる。
「何が起きてるんだ!」
視線を上げると、養父の広瀬正国と養母の林原武美が早足で近づいてきた。
広瀬正国は大画面の内容を見上げた瞬間、顔色が一気に沈む。
「まさか……これは、妃菜なのか?」
「そんな……」
林原武美は胸元を押さえ、信じられないという顔でふらりと揺れ、今にも広瀬正国にもたれかかりそうになる。
笑える。
私はこの養母をずっと敬い、実の母のように孝行してきた。けれど彼女は、広瀬有香のために何度も広瀬正国の耳元で囁き、私への不信を煽ってきたのだ。
幸い父は私の能力を買っていて、根も葉もない噂で私を疑ったりはしなかった。
――ただ、いま画面の少女はまだ正面を見せていない。広瀬正国には、誰なのか見分けがつかない。
広瀬正国が大きく手を振り、往来する招待客に向けて落ち着いて言い放った。
「これは誰かの悪ふざけだ。映っているのはうちの娘じゃない。勝手なことを口にするな!」
林原武美は目を泳がせ、言いたくても言えないふうに唇を噛む。そして、悲しげに言った。
「あなた……私の知ってる娘からして、この映像の子は……有香じゃないと思うの」
広瀬正国は、彼女が隠そうとしないことに驚いたのか、目を細めて無言で釘を刺す。
私はその視線の先――林原武美を見た。
案の定だ。彼女は、全員が「これが私だ」と信じ切る展開を望んでいる。
林原武美は招待客の方へ向き直り、目を赤くして苦笑した。
「娘は昔、少し……分別が足りなくて。遊び方も派手で……でも、成川さんとお付き合いしている間のことではないと信じています。どうか、これ以上は……口に出して責めないでください」
何年も「お母さん」と呼んできた女の、その言葉が胸を冷たくした。
これが、前の人生で必死に尽くした家族だ。結局いちばん熱心に、裏から私を刺していた。
滑稽すぎる。
吐き気をこらえていると、隣の光がすっと陰った。
「広瀬さん」
振り向く前に、原崎野矢の、淡い興味を含んだ声が耳に落ちる。
彼は音もなく現れ、私と肩を並べて人混みを見下ろしていた。背の高い影が圧を生む。
こちらを見もしないまま、意味深に言う。
「見事な一手だね」
私は横を向き、底の見えない双眸にぶつかった。からかうような視線の奥に、刹那だけ混じった賞賛が見えた気がする。
私は薄く笑う。
「まだ序盤です。原崎様、続きを見届ける気はありますか?」
原崎野矢は眉を上げ、笑みを深めた。
「どうぞ」
満足げな反応。けれど、彼の思惑を読む暇はない。
――時は来た。
私が仕込んだ舞台も、ここからだ。
深く息を吸い、影から一歩踏み出す。
足音が届いたのか、下にいる全員が顔を上げた。
嘲りと好奇心と、悪意。無数の視線が矢のように突き刺さる。
私は目線を逸らさず、広瀬正国と林原武美の前へ進み出て、ほどよい困惑を貼りつけた。
「お父さん、お母さん。どうしたの?」
「妃菜! どこに行ってたの!」
林原武美が駆け寄り、私の手を乱暴につかむ。力が強く、手首の骨がじん、と痛んだ。
気づかせないつもりなのか、彼女は息もつかせず言葉をぶつけてくる。
「ほんとにもう、心配でたまらなかった! 今日はあなたの婚約パーティーなのよ? どうしてこんな……弱みを握られるようなことをしたの。裏で、そんな派手な遊び方……はぁ……!」
「いったい誰に恨まれたのか、ちゃんと考えなさい。広瀬家の顔はどうなるの? 私とお父さん、これからどうやって人前に出ろっていうのよ!」
一言一言が、映像の女は私だと決めつけるための釘打ちだ。
広瀬正国の視線にも、はっきり失望が滲み、胸が大きく上下する。
私は手を引かれたまま、静かに彼女の芝居を眺め、無垢を装った。
「お母さん、何の話? 私はずっと二階の控室で準備してたけど……何かあったの?」
「上を見て! 大画面!」
林原武美は痛ましい顔で手を上げ、まだ絡み合う数人の映像を指差す。
「いつの話なの? どうしてこんなのが流出するの? 成川さんに申し訳ないと思わないの? 今日は婚約パーティーなのよ!」
広瀬正国は怒りを飲み込み、私の説明を待つ。
私は画面の女を見た。
男たちに囲まれ、むき出しの背中。肩にある、目立つほくろ。
私はゆっくり瞬きをして、淡々と口にした。
「正面も映ってないのに……お父さんもお母さんも、映ってるのが私だって決めつけるの?」
林原武美が言い返す。
「あなたじゃなきゃ誰だっていうの?」
当然だと言わんばかりの口調。まるで、こんなことをするのは私しかいないとでも言うように。
――彼女にとって、取り戻したばかりの娘は清らかで、従順で、可憐で。死んでもこんな真似はしない存在なのだろう。
私は表情を崩さず、リモコンのボタンを押した。
映像が切り替わり、二階の「1号控室」の画面が映る。
広瀬有香が、さっき着替えたばかりのオフショルダーのドレス姿で立っている。肩のほくろは、さっきの映像と――まったく同じ位置。
「……えっ」
誰かが息を呑んだ。
「広瀬妃菜さんの肩にはほくろなんてないよね? でも……この『本物のお嬢さん』にはある。映像の子と同じだ……!」
林原武美の顔色が変わった。
その瞬間、田村成川が控室の扉を開けて入ってくる。
広瀬有香を見て一瞬固まった。明らかに、私が待っていると思っていたのだろう。
次に浮かべたのは、軽薄な笑み。控室に他人がいないのをいいことに、成川は近づいて広瀬有香の顎をくい、と持ち上げた。
「なあ、ベイビー。なんで服、替えたんだ?」
私は掌を強く握りしめる。
前の人生、こんな瞬間がいくつあった?
私は未来を夢見て、田村成川との明日を信じていたのに。彼は私の見ていないところで、広瀬有香とこそこそと甘いことをしていた。
――なら、準備しておいて。
身の破滅を。
広瀬有香は、この控室に二人きりだと信じ切っている。まさか私が事前に機材を仕込み、いまこの場を生中継しているなんて、夢にも思わない。
彼女は唇を尖らせ、指先で田村成川のベルトに引っかけた。
「広瀬妃菜ってクズが仕掛けたのよ。今日、あんたはあいつと婚約するんでしょ? そしたら……私のお義兄さん、ってことになるじゃない」
そう言って、指が、ゆっくりと下へ――。
私は目を細め、周囲を見渡す。
誰もが理解した顔をしていた。映像の中で身体を弄ばれていたのは、広瀬有香だと。向けられるのは蔑みと、納得と、嫌悪。
林原武美の顔は死人のように真っ白になり、ようやく状況を飲み込んだのか、悲鳴を上げた。
「消して! 誰か、今すぐビッグスクリーンを落として!」
