第6章
その夜、私は驚くほど穏やかに眠れた。
――けれど、転生してからの私は、一秒たりとも憎しみを手放せていない。
今日、田村成川と広瀬有香が人前で無様に転げ落ちるのをこの目で見た。父も露骨にあちらを庇うことはしなかった。上々の滑り出し、そう言っていい。
深夜。喉がからからに渇いて、私は水を飲もうとベッドを抜け出した。
ぼんやりした頭のまま階段を下りかけたところで、階下のリビングから、かすかな泣き声が聞こえてきた。
足が止まる。私は二階の曲がり角、影に身を寄せて下を覗き込んだ。
広瀬有香が、広瀬正国の前にひざまずいていた。彼の袖を掴んで、目を真っ赤に腫らしながら泣きじゃくっている。
「お父さん、私、ほんとに反省してる……分かってるの……お願い、今回だけは許して。娘に失望しないで……」
こちらからは、広瀬正国の背中しか見えない。腕を背に回し、背筋を真っ直ぐに伸ばして立っていた。
表情は読めない。それでも、張り詰めた姿勢だけで分かる。彼は広瀬有香に、欠片ほども情けを向けていない。
広瀬正国は拳をぎゅっと握りしめ、娘を見下ろしもせず、失望を滲ませた声で吐き捨てた。
「広瀬有香。姉の婚約パーティーであんな真似をして、田村成川とべたべたしやがって……どうして失望しないと思う。今さら泣いて、何になる?」
「でも、でも私たち、ほんとに何もないの! 動画だって偽物なの、本当に、嘘なの!」
有香は顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの頬。
広瀬正国は腕を乱暴に引き抜き、冷えた声音で言い放つ。
「もういい。自分の部屋へ戻れ」
広瀬有香は床にへたり込んだまま、まだ言い募ろうと口を開く。
だが広瀬正国はそれを許さず、踵を返して大股で去った。向かった先は書斎だ。
……想定通り。
広瀬家の当主として、広瀬正国は常に「家の顔」だった。家を束ね、会社も評判高く切り盛りしてきた。広瀬有香が戻って来て、あの婚約パーティーの醜聞が起きるまで――彼に噂されるような傷は一つもなかったはずだ。
それが一夜にして、広瀬家は世間の笑いもの。
屈辱でたまらないに決まっている。だから娘に冷たく当たるのも、当然だ。
ほどなくして、広瀬有香はふらつきながら立ち上がり、自室へ戻っていった。
私は影から出て、キッチンへ行き、水を汲む。
部屋へ戻る途中、隣室から小さな声が漏れた。
――広瀬有香、田村成川と電話している。
「成川……あの子、刺激が強すぎてあなたをブロックしただけよ。謝ったくらいで戻るわけないじゃない」
「ちゃんと宥めて。早く結婚まで持っていって……そうすれば、お父さんのほうもやりやすいから……」
コップを手にしたまま、その稚拙な算段を聞いて、危うく笑いが漏れそうになった。
田村成川を深く愛している?
それは前の私だ。今世の彼は、私の靴を舐める価値もない。
私は淡々と自室へ戻り、ドアを閉めて眠った。
翌朝。
階段を下りた途端、広瀬正国の怒鳴り声が飛んできた。
「どれだけ下がった! どうしてここまで落ちる! 広報は何をしてる、今すぐ火消しに動かせ!」
私はのんびりとリビングへ下りる。ちょうど広瀬正国が電話を叩きつけるように切り、ソファの隅で縮こまる広瀬有香に、怒鳴りつけていた。
「お前がやらかしたせいだ! 俺の顔は丸潰れだ、世間中がこっちを嗤ってる。株は暴落! 満足か!」
広瀬有香は全身を震わせ、泣き声すら殺していた。
林原武美は傍で焦った顔をしているのに、宥めることもできず口をつぐむ。空気は重く、息が詰まりそうだった。
私は口を挟む気はない。広瀬有香と広瀬正国のこの程度の報いで、前世に私へしたことが帳消しになるはずもない。
……ただ、株価の下落は私にとっても都合が悪い。
私はこの手で全部を取り戻すつもりだ。広瀬有香を、何一つ残さず奪い返して、からっぽにするために。
私は広瀬正国の前まで歩み寄り、静かに言った。
「お父さん、もう怒りすぎないで。身体を壊してまで怒る価値、ないよ。今日、私も会社に行って手伝う。いっしょに対応しよう」
広瀬正国が、一瞬だけ目を見開いて私を見る。
私はその視線を受け止め、臆さず続けた。
「こういう時に家へ籠もってたら、余計に軽く見られる。やましいのは私じゃないし、恥じることもない。会社で動いたほうが、家で考え込んで落ち込むより、ずっといいよ」
視界の端で、林原武美の口元がぴくりと引きつった。
――この手の言い回しは、あの母娘がよく私に向けてきたものだ。遠回しに踏みつけて、嫌味を混ぜて。
今度は、私の番。
広瀬正国は私を見つめ、痛ましげで、それでもどこか諦めきれない眼差しになった。やがて、こくりと頷く。
「いい子だ。お前の言う通りだな。家にいたくないなら会社へ行け。できることがあるなら手伝ってくれ」
そう言ってから、広瀬正国は林原武美と広瀬有香をきっと睨みつけた。
「広瀬の人間なら、叩かれても隠れて泣くんじゃない。真正面から立つ胆力を持て!」
「ありがとう、お父さん」
私は二人を無視して家を出た。
社用車は使わない。家の車だと記者に気づかれて、会社の前で囲まれる。私は門前で流しのタクシーを拾った。
行き先を告げ、後部座席にもたれ、目を閉じて神経を休める。
……走り出してしばらくしてから、違和感が膨らんだ。
車内に漂う淡い香りが、やけに濃くなる。
身体がふわりと力を失い、頭が重く沈む。言葉にしがたい熱が、下腹の奥からじわじわと上ってきた。
――おかしい。こんな反応、普通じゃない。
私は弾かれるように目を開け、運転席を見た。
ルームミラー越しに映ったのは、見覚えのある陰のある目。
……田村成川。
田村成川は、私が目を覚ましたのをミラー越しに確認し、薄く笑った。
「妃菜、起きたか。怖がらなくていい。ただ、ちょっと連れて行きたい場所があるだけだ」
「田村成川……何をするつもり!」
私は声を荒げ、ドアに手を伸ばす。
だが開かない。びくともしない。最初からロックされていた。
力が抜けていく。冷や汗が滲み、熱に浮かされるみたいに全身が火照った。
「俺が何をしたいかって? 妃菜、婚姻届を出しに行こう。合法の夫婦になれば、俺たちはずっと一緒だ」
ミラーの中で、田村成川が嬉しそうに笑う。
「妃菜、俺はお前を愛してる。信じろよ。全部、愛してるからやってるんだ。俺の言う通りにして」
「最低……!」
震える身体を叱咤して意識を繋ぎ止める。
「止めて。止めないなら、今すぐ通報する!」
「通報? 籍を入れたらお前は俺の妻だ。夫婦のことに、誰が口出す?」
そう言いながら、田村成川はハンドルを乱暴に切った。
車は赤信号を強引に突っ切り、速度を上げる。
息が止まる。
視界の先、横から正しく走ってくる一台のロールスロイス。
避けられない距離。衝突は――もう――
「田村成川! 前を見て!」
広瀬正国の顔が強張った。
――え?
砰っ!
鈍く裂ける衝撃音。車体が大きく揺さぶられる。
私は前へ投げ出され、額を前席の背に打ちつけた。目の奥がちかちかして、眩暈がする。
田村成川も不意を突かれ、フロントに額をぶつけたらしい。痛みに顔を歪め、額を押さえていた。
私は他のことを考える余裕もなく、残った力でロック解除を探る。
その時、ロールスロイスのほうから人影が降りた。
ぱたん、とドアの音。
顔を上げた私は、その人物を見て息を呑んだ。
原崎野矢。
呆然としたのは一瞬だけ。胸の奥がすっと緩み、説明できない安堵が押し寄せてくる。
「原崎様……」
どうしてだろう。私の声は勝手に掠れて、震えて、少しだけ甘えた響きまで混じった。
原崎野矢も驚いたようだった。視線が私の顔に触れた瞬間、瞳の色が沈む。
そして彼は、迷いなく大股でこちらへ向かってきた。
