第2章

恵美視点

拳が白くなるほど、きつくハンドルを握りしめている。高速道路が前方に、どこまでも暗く伸びている。窓の外では木々がぼやけて過ぎ去っていく。

距離。私に必要なのはそれだけ。一キロ進むごとに、呼吸が楽になっていく。

前の人生の私は、一度も東浜市から出なかった。三年間、一度も。あの屋敷に囚われ、綺麗で、何の役にも立たない存在だった。今度は、できる限り遠くへ逃げる。

六時間が過ぎた。私が関東から北へ向かい、本州最北端を経て北海道へと渡った。足はこわばり、背中は痛む。暗闇に光るガソリンスタンドを見つけ、車を寄せた。

外へ出ると冷たい空気が肌を打つ。体全体が石になったようだ。車にもたれかかり、無理やり体を動かす。タンクを満たす間、ポンプが電子音を立てる。二十四時間営業のコンビニの窓越しに、壁にかけられたテレビが見えた。

コーヒーが要る。走り続けるための何かが。

ドアを押し開けると、チャイムが鳴った。蛍光灯の光に目を細める。店員が棚に商品を補充している。私はコーヒーサーバーに向かい、何時間も置きっぱなしになっていたであろう一杯を注いだ。

その時、声が聞こえた。

『黒木財閥の御曹司、チャリティーガラで屈辱。妻が指輪を投げつけ退場』

はっと顔を上げる。テレビ画面には昨夜の光景が映し出されていた。尚人のシャツに広がる赤ワインの染み。シャンパンタワーに転がり落ちる指輪。砕け散るグラス。そして、背を向けて歩き去る、私。

店員が画面を食い入るように見つめ、首を振っている。「金持ちの痴話喧嘩かよ。信じらんねえな。何億もする指輪をゴミみたいにポイ捨てだぜ」

私はコーヒーを手に、凍りついたように立ち尽くす。指は震えているのに、目が離せない。映像が繰り返される。ワイン。指輪。冷静で冷たい私の顔。尚人の怒り。

その時、私は微笑んだ。

いい気味だ。好きに言わせておけばいい。尚人が後始末をすればいい。大事な投資家たちに、黒木夫人がテレビの前で出て行った理由を説明させてやればいい。

コーヒーの代金を払い、折り畳まれた地図を一枚手に取る。北海道。私がカウンターでそれを広げても、店員はろくにこちらを見ようともしない。指で海岸線をなぞり、北へ北へと移動させる。

港町。端っこにある、小さな点。東浜市から十二時間。

完璧。

ペンでそこを丸で囲み、車へと戻った。

それからの時間はあっという間だった。高速道路は細い道になり、空が黒から灰色へ、そして淡い金色へと変わっていく。ようやく太陽が顔を出した頃、私は北海道へと渡っていた。

港町に着いたのは、夕暮れ時だった。目は焼けつくようで、体は休息を求めて悲鳴を上げている。けれど、メインストリートを走り抜けると、胸のつかえが少しだけ下りた。

一本の通り。その両脇には、色褪せてはいるが魅力的な洋館が並んでいる。食料品店、金物屋、診療所、小さな図書館。必要なものはすべて、この一つの場所にあった。

頭上をカモメが舞っている。潮と松の香りがする。ジーンズにセーター姿の人が数人、ゆっくりと歩いている。

高級車も、スーツ姿も、偽物の笑顔もない。

「潮見不動産」と書かれた看板のある建物の前に車を停める。エンジンを切る間もなく、一人の女性が出てきた。年配で、白髪を後ろでまとめ、着古したカーディガンを羽織っている。優しそうな顔立ちだ。

彼女は私の車を見て、それから私に目を向けた。「道にでも迷ったのかい、お嬢さん? こんな車、ここではあまり見かけないからね。古い型だけど」

ドアを開け、外に出る。全身の筋肉が抗議の声を上げた。「いえ、実は部屋を探しているんです。静かな場所を」

彼女の視線が私を値踏みするように上下する。昨日着ていた高価な黒いドレス。私の顔に浮かぶ疲労。彼女は少し間を置いて、その表情を和らげた。

「何か辛いことでもあったのかい」

問いかけではない。断定だった。鍵を握る手に力が入る。私はしばらく、ただそこに立っていた。

やがて、頷いた。

藤原さんは私の腕をぽん、と叩いた。「それなら、いい場所に来たよ。崖の上にコテージがあるんだ。少し手入れが必要だけど、景色が心を癒してくれる」

彼女は私を町の外れまで車で連れて行ってくれた。道は狭くなり、海岸沿いをうねうねと進むと、やがて崖の頂上に着いた。コテージは小さく、ペンキは剥がれ、ポーチは傾いている。

けれど、彼女が鍵を開けた瞬間、私はそれを見た。

床から天井までの大きな窓。どこまでも広がる海が、沈みゆく太陽に金色とオレンジ色に染められている。眼下の岩には、波が打ち寄せ砕けていた。

私は窓辺に歩み寄り、ガラスに手を当てた。呼吸がゆっくりになる。母さんが死んでから初めて、心の底から息ができた気がした。

前の人生で暮らした黒木邸は、冷たい大理石ばかりだった。壁には美術館のように何億もするアートが飾られ、どの部屋もだだっ広く、空っぽだった。母さんのピアノ室はずっと鍵がかかったまま。尚人は、そこは美智子のための空間だから、閉めておくと告げた。

あの家の品々はどれも、私がそこでは永遠に部外者だということを突きつけた。

ペンキが剥がれ、床が軋むこのささやかなコテージこそ、私が初めて『家』と呼べる場所だった。

私は藤原さんの方を向く。「ここにします」

彼女は目を瞬かせた。「もう決めたの? それとも、残りの部屋を見るとか」

「構いません。ここが完璧なんです」

彼女の目に何かがきらめいた。理解、だろうか。彼女は何も聞かず、ただ頷いた。「書類を用意しておくよ。明日には入居できる」

私は再び窓の外に目をやった。波。夕日。自由。

前の人生では、こんなものは決して手に入らなかった。

翌朝、私は生活用品を買いに町へ車を走らせた。雑貨店はこぢんまりとしていて、棚という棚に商品がぎっしりと詰まっている。カウンターの向こうの男性が、満面の笑みで私を迎えてくれた。「崖の上の家に来た新しいお嬢さんだね? 港町へようこそ! 新しい人が来るなんて滅多にないんだ」

「ありがとうございます。いいところですね」

「静かなのが売りだからね。何か困ったことがあったら、隣の先生がすごく親切だよ。早瀬先生っていうんだけど、いい人でね。この町で生まれた子はみんな、早瀬先生に取り上げてもらったようなもんだ」

彼が窓の方を指差す。店の隣には小さな診療所があり、青い看板には「港町診療所 早瀬亮介」と書かれていた。

私は頷き、品物を手に取った。

荷解きには何時間もかかった。持ってきたもののほとんどは母さんのものだ。公園で撮った私たちの写真。子供たちとピアノに囲まれて、教えている母さんの写真。それらを、光が差し込む窓辺に並べた。

それからキーボードを取り出す。小さな電子ピアノで、鍵盤は使い込まれて黄ばんでいる。でも、これは母さんのものだった。窓際にそれを設置し、腰を下ろす。

指が中央のドを探し当てる。その音はコテージに満ち、波の砕ける音と混じり合った。

私は弾き始めた。六歳の時に母さんが教えてくれた、簡単な曲。音符たちが、まるで待っていたかのように蘇ってくる。

母さんはピアノの先生だった。私は母さんから習って育った。でも、尚人と結婚してからは、黒木邸のグランドピアノはただの飾りだった。それに触れることは許されなかった。

この人生では、失ったものすべてを取り戻す。

日が沈み、金色の光が窓から差し込む。最後の音を弾き終え、目を閉じた。

初めて、安らぎを感じた。

何百キロも離れた場所で、尚人は会議テーブルの首席に座っていた。役員たちが両脇に完璧なスーツ姿で並び、無表情を浮かべている。

尚人の父である黒木理一がテーブルに拳を叩きつけた。コーヒーカップが跳ねる。「昨夜は一体どういうことだ! メディアは大騒ぎだぞ! 俺に何本電話がかかってきたと思ってるんだ! 投資家たちは、我々にこの会社を経営する安定性があるのかと聞いてきている!」

尚人は顔を上げない。ファイルをめくりながら、表情は無のままだ。「恵美は母親の死でパニックになっただけです。落ち着けば戻ってきます」

紗世が一番奥の席に座っている。彼女はコーヒーを置き、穏やかな声で言った。「尚人さん、探しに行ってあげたらどうですか? 彼女は母親を亡くしたばかりなのよ。それは心に傷を負うことだわ」

尚人が顔を上げた。一瞬、彼の視線が紗世と交わり、何かが和らいだ。だが、すぐに消えた。

彼は背もたれに寄りかかり、口元に冷笑を浮かべる。「あの女には黒木の名前以外、何もない。必ず戻ってくる」

理一が身を乗り出す。「そうであることを願うぞ。もし彼女があの契約についてマスコミに話したら……」

「しませんよ」尚人は彼の言葉を遮った。「彼女はそこまで馬鹿じゃない。それに、もししようとしたところで、誰が信じますか? 三年間も黒木の財産で贅沢してきた女が、母親の命を救った取引について不平を言うとでも?」

彼はパタンとファイルを閉じた。

恵美は戻ってくる。彼女には選択肢などないのだ。

この恵美は、二度と戻らないという可能性は、彼の頭をよぎりもしなかった。

私は崖の端に立っている。風が髪を激しく揺らす。空は深い紫とオレンジ色に染まり、星が姿を見せ始めている。

携帯電話はコテージの引き出しの中だ。電源は切ってある。

昨夜から、尚人は三十七回も電話をかけてきた。私は一度も出ていない。

黒木邸では、毎朝一番にすることは携帯電話の確認だった。尚人が何か必要としていないか。私が出席しなければならないイベントはないか。黒木夫人に期待される務めは何か。

この人生では、携帯電話すら必要ない。

潮風を吸い込み、目を閉じる。打ち寄せる波。鳴き交わすカモメ。遠くで鳴る霧笛。

黒木の名も、プレッシャーも、何をすべきか指図する冷たい男もいない。ただ私と、海だけ。

目を開け、水平線を見つめる。

初めて、過去の影はどこにもない。未来への恐れもない。ただこの瞬間と、完全に、生まれて初めて、本当の自由を手に入れた。

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