紹介
その時、夫の黒木 尚人(くろき なおと)は桜川町(さくらがわちょう)で、初恋の医師桐谷 紗世(きりたに さよ)と婚約していた。
生まれ変わったのは、母和泉 美智子(いずみ みちこ)の葬儀の日。
その夜、黒木は町の社交会で「初恋が戻ってきた」と笑顔で発表した。
三年間の結婚生活で、私には一度も向けられなかった笑顔だった。
だから、私は彼の顔にワインをぶちまけた。
「取引は終わりよ、尚人さん。」
港町(みなとちょう)に逃げ、海辺の古い家でピアノを教えながら、町の診療所の医師早瀬 亮介(はやせ りょうすけ)と出会った。
ここなら自由になれると思っていた——。
しかし三か月後、黒木は弁護士を連れて現れた。
「第17条だ、恵美(えみ)。契約期間前に離婚すれば、八千万円の返済義務がある。」
前世で私が逃げられなかった理由、それがこの隠された罠だった。
だけど今度こそ、彼の思い通りにはさせない——。
チャプター 1
恵美視点
秋風が、誰も出席したくない葬式で撒かれる紙吹雪のように、庭の紅葉を散らしている。私は人垣の端に立ち、手の中で震える白い薔薇を握りしめながら、母の遺影を見つめていた。和泉美智子。その優しい微笑みを浮かべたまま、永遠に時を止められてしまった母の写真。
薔薇が、指の間から滑り落ちた。
視界がぐらりと傾ぐ。体が強張り、視界がぼやけていく。そして、来た。貨物列車のように頭蓋骨を突き抜けていく、まだ存在するはずのない記憶の奔流が。
病院の照明。明るすぎて、冷たすぎる。囁き合う看護師たちの声。「黒木さんのご主人、一度もお見舞いにいらっしゃらないわね……」。廊下には、金髪の女といる尚人の姿が。女の腕が彼の首に絡みつき、唇が重ねられていた。モニターの電子音。そして、長く、終わりのない単調な音。――そして、その全てが起きる前の、診断。今日から一年後。ステージⅣ。
自分の手を胸に押し当てる。心臓が激しく鼓動している。私は生きている。戻ってきたんだ。あの苦痛も、裏切りも、死も、まだ何も起きていない。
はっと目を開く。私はまだ、葬儀の場にいる。息は荒く、指は震えたままだ。
二度目のチャンスを与えられたのだ。
誰かが私の腕に触れた。「黒木夫人。お母様は本当によく戦われました。あの免疫療法は最新の治療法でしたし、黒木メディカルは本当にやれることの全てを尽くしてくださいましたよ」
振り返ると、そこにいたのはグループの医師の一人だった。その顔には、周到に用意された同情の色が浮かんでいる。
「ご足労いただき、ありがとうございます」と私は言った。言葉が空虚に響く。
別の参列者が近づき、ため息をついた。「本当に悲劇ですわ。でも、せめてお金で買えるだけの最高の治療を受けられたのですから」
最高の治療。前の人生では、私もそう信じていた。でも、今の私は知っている。母の治療は、彼女を救うためのものではなかった。あれは尚人が、自分の会社の技術を見せびらかすためのショーケースだった。母は実験台だったのだ。あの五億円は希望なんかじゃなかった。私の人生の三年間に付けられた値札だった。
背後に 足音。振り返らなくても、誰だか分かった。
尚人の手が私の肩に置かれる。冷たい。演技じみている。まるで、やるべきことリストにチェックを入れるかのように。
体が硬直する。
「大丈夫か?」彼の声は平坦だ。
顔を上げる。あの完璧な顔立ち。前の人生の記憶の中で、彼は同じ表情で私の病院のベッドの傍に立っていた。隠しきれていない苛立ちを浮かべて。
一歩、身を引く。彼の手が宙に浮き、落ちた。「ええ、大丈夫よ。お客様のところにお戻りになったら?」
彼は眉をひそめ、苛立ちが一瞬顔をよぎった。だが、それ以上追及はしなかった。ただ踵を返し、彼のスーツが秋の庭を背景にシャープな線を引いて遠ざかっていく。
彼が去っていくのを見つめる。拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込む。でも、涙は出なかった。
前の人生では、ここで泣いた。彼が来てくれただけで感謝していた。今回は、皮肉しか感じない。
数時間後、葬儀に集まった人々はチャリティーガラへと流れていた。黒木家の伝統だ。葬儀の日でさえ、社交の予定は続く。
私は数十万円はするであろう黒のイブニングドレスに着替えていた。
クリスタルのシャンデリアの下では、誰もが午後のことなど忘れてしまったかのようだ。シャンパンタワーが煌めき、グラスの触れ合う音が響く。隅ではピアノがクラシックを奏でている。
私はボールルームの端で、人混みを見渡していた。尚人はその中心にいた。彼の隣には、紺色のドレスをまとった優雅な金髪の女性が立っている。完璧な姿勢、優雅な微笑み。
桐谷紗世。前の人生では、全てが今夜始まった。私の結婚が冗談になった夜。
尚人がグラスを掲げる。彼の声が喧騒を切り裂いた。「皆様、ご報告があります」
部屋が静まり返る。誰もが彼に注目した。
彼は紗世に目を向ける。その表情に何かが変わる。三年の結婚生活で一度も見たことのない温かみが宿る。「ヨーロッパでもトップクラスの脳神経外科医である桐谷紗世医師が、黒木メディカルの脳神経外科部長として着任することになりました。彼女の帰国を歓迎しましょう」
拍手が沸き起こる。ゲストたちが駆け寄っていく。紗世は微笑み、フランス語訛りの日本語で感謝を述べた。
私は隅にいた。まるで透明人間のように。尚人と紗世が、私たちの結婚生活の全てを合わせたよりも豊かな感情のこもった視線を交わすのを、私は見ている。
グラスを握る指に力がこもり、関節が白くなる。
前の人生では、これはただの仕事上の関係なのだと自分に言い聞かせていた。でも、今回は嘘をつかない。彼が彼女を見る目。それは、愛する人を見る目だ。私? 私はただの便利な道具に過ぎなかった。
記憶が、さらに速く蘇ってくる。
前の人生の三年前のこの夜。この同じ隅に立ち、帰国したばかりの紗世といる尚人を見ていた。理解ある妻でいなければ、と自分に言い聞かせながら。
一年後。尚人の帰宅がどんどん遅くなる。会議だ、と彼は言った。手術だと。私は空っぽの屋敷で、冷めていく夕食と共に彼を待っていた。
二年後。震える手で診断書を握りしめ、彼に電話した。「尚人さん、あなたが必要なの……」。彼の声は、遠く、苛立っていた。「今は手術中だ。また今度にしてくれ」。電話の向こうで、紗世の笑い声が聞こえた。
そして、最後。病院の部屋。私以外、誰もいない。モニターの電子音が鳴り、そして消えていった。一度だけでいい、彼が来てくれさえすれば、と思った。でも、彼は決して来なかった。後で看護師から聞いた。黒木先生は桐谷先生とフランスでの学会に出発した、と。
全ては今夜始まったのだ。前の人生では、彼らが親密になっていくのを、私が枯れ、病み、彼が彼女と海の向こうにいる間に独りで死んでいくのを、ただ見ているだけだった。
今回は、そうはいかない。
記憶が途切れる。視線がボールルームに戻る。尚人と紗世が話している。そして彼は笑っていた。本当に。三年間で一度も見たことのない笑顔で。
深く息を吸う。悲しみは、何か別のものへと変わっていく。もっと鋭い何かに。
私は立ち上がり、まっすぐ彼らに向かって歩いた。大理石の床にヒールの音が響く。ゲストたちが気づき、囁きが広がる。部屋が静まり返っていく。
テーブルにたどり着き、赤ワインのグラスを手に取る。躊躇なく、尚人の白いシャツに赤ワインを浴びせかけた。
ワインが、血のように彼の胸に広がる。
どよめきが群衆を駆け抜ける。紗世はショックで一歩下がる。尚人は凍りついたように立ち尽くし、私を見つめている。
「お帰りなさい、桐谷先生」私の声は穏やかで、楽しげですらあった。「私の夫とのお仕事、楽しんでくださいね。もっとも、元夫と言うべきかしら」
指輪を抜き取る。黒木家の家宝、億円の価値があるという指輪。誰もが見えるように、高く掲げてみせる。
そして、それをシャンパンタワーに投げ落とした。
ガラスが砕け散る。シャンパンが飛び散る。クリスタルのピラミッドが崩壊する。
ゲストたちの悲鳴が上がる。カメラのフラッシュが焚かれ始めた。記者たちだ。好都合だ。
私は尚人にまっすぐ向き直った。「取引は終わりよ、尚人さん。母の治療費は、私の人生の三年で支払ったわ。契約は完了。私たちも、終わり」
ボールルームが衝撃の囁きに包まれる。紗世は私たちの間を交互に見て、その平静さが崩れていく。
尚人はワインを拭いながら、その表情が驚きから怒りへと変わっていく。顎を食いしばり、目が燃えている。「恵美、黒木の名もなしにどこへ行くつもりだ? 君には何も残らない。財産も、地位も、頼れる人も。俺なしでは、お前ただの一般人に戻るだけだ」
私は彼の視線を受け止めた。恐怖はない。安堵だけがあった。
踵を返し、出口に向かって歩き出す。背筋はまっすぐ、足取りは確かだ。背後から、紗世の戸惑った声が聞こえる。「尚人、今のは一体何なの?」
彼は答えない。
秋の夜へと足を踏み出す。冷たい空気が顔を打ち、鋭く、意識をはっきりさせる。駐車場まで歩き、母の古い車を見つけた。十年落ちのセダン。彼女が私に残してくれた唯一のものだ。
前の人生では、この車を運転して母を病院に連れて行った。今回は、尚人の手の届かないどこかへ、私を連れて行ってくれる。
運転席に滑り込み、ハンドルを握り、息を吐く。エンジンがかかる。バックミラーの中で、屋敷の灯りが小さくなっていく。
携帯が震える。画面には「尚人 発信中」の文字。
一度。二度。三度。鳴り止まない。
私はそれを、無表情に見つめる。そして、画面が暗くなるまで電源ボタンを長押しした。それを助手席に放り投げる。
前の人生では、三年間耐え忍び、病院で独り死んだ。この人生では、自分のために生きる。尚人、あなたの支配も、冷たさも、取引も、全て終わり。
アクセルを床まで踏み込む。車は高速道路に合流し、闇の中へと向かっていく。バックミラーの中、東浜市の灯りは、どんどん小さくなっていった。
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実の両親は億万長者で、私をすごく可愛がってくれた。私は数十億の財産を持つお姫様になった。それだけでなく、ハンサムでお金持ちのCEOが私に猛烈にアプローチしてきた。
(この小説を軽い気持ちで開くなよ。三日三晩も読み続けちゃうから…)
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彼は、完璧な医師である自分と、優しい夫である自分を両立できると思っていた。
けれど、彼の天秤は、とうの昔に壊れていたのだ。
そして、心臓が凍りつくような、あの出来事。
私の愛は、ついに底をついた。
だから、私は彼の元を去る。
でも、ただ静かには去らない。
彼が築き上げてきた偽りの日常に、私という存在が確かにあったことを刻みつけるために。
これは、愛が憎しみに変わるまでの、長い長い物語の終着点。
私が最後に贈るプレゼントは、彼が決して忘れられない、真実という名の苦い毒。













