第2章

「松永さん」

私は落ち着いた口調で、しかし氷のように冷たい声で言った。

「まずはその子を始末してから、自分の顔でも何度か張ったらどうです?」

松永梓は呆然としていた。明らかに、私がそんな風に返すとは思っていなかったのだろう。

彼女はきっと、私が原作の千紗のように、その懇願に心を揺さぶられ、そしてすべてを黙って受け入れ、天野次が心変わりするのを待つとでも期待していたのだ。

「なっ……どうしてそんなことが言えるの!」

彼女は驚き、目に一瞬の動揺を走らせながら言った。

「命なのよ!」

私は鼻で笑う。

「天野様のためなら何でもするんじゃなかったんですか? たとえ切腹してでも、と? なら、どうぞ。どうしてご自分のために、天野様の名誉を顧みないのですか?」

松永梓は突如として顔色を変え、私を指差して非難した。

「千紗さん、あなたは冷血だわ! 命を軽んじる悪人よ!」

その変わり身の早さには、私も少々驚かされた。

この女の演技力は、確かに神がかっている。天野次のような財界のエリートを騙せるわけだ。

「本気で覚悟もないのなら、私の前で芝居はやめてください」

私は振り向きもせず、侮蔑を込めた口調で言い放った。

その時だった。松永梓が不意に後ろへ倒れ込み、マンションの階段を二段ほど転げ落ちると、甲高い悲鳴を上げた。

「きゃあっ!」

彼女は腹部を押さえ、涙を浮かべた目で私を見つめる。

「千紗さん、どうして私を突き飛ばしたの?」

私が振り返ると、天野次が玄関からこちらへ歩いてくるところだった。

すべては彼女の罠。天野次がこの時間に来ることを、彼女はとっくに知っていたのだ。

瞬間、怒りがこみ上げてきた。私はもう躊躇わない。階段を下り、彼女が伸ばした手に、容赦なく足を乗せて踏みつけた。

「ああっ!」

彼女は苦痛の声を上げ、その目に恐怖の色がよぎった。

私は身を屈め、彼女の耳元ではっきりと告げる。

「私を陥れたいなら、親切にその望みを叶えてあげる」

そう言ってから手を上げ、ためらうことなく彼女の頬に二度、乾いた平手打ちを食らわせた。

「千紗、何をしている! よくも梓を!」

天野次が駆け寄り、私を突き飛ばすと、松永梓を腕の中に抱きしめた。その目は心配と怒りに満ちている。

「殴りたいから殴っただけよ。」

私は嫌悪感を隠そうともしなかった。

対する松永梓は、天野次の腕の中で弱々しくもがいてみせる。

「次君、全部私が悪いの。千紗さんを責めないで……」

天野次は私を嫌悪に満ちた目で見ると、松永梓を支えて立ち去った。

「この毒婦が!」

彼はその言葉を吐き捨て、振り返りもしなかった。

あんな見え透いたか弱い女の芝居に、天野次という愚かな男はまんまと騙されている。

私はその場に立ち尽くし、バッグから除菌シートを取り出すと、先ほど松永梓を殴った指を一本一本、優雅に、そして念入りに拭った。

「あんな女を殴るなんて、手が汚れてしまったわ」

私の口元に、冷笑が浮かぶ。

私は予定通り、東京総合病院へ向かった。病状と向き合う覚悟は、もうできていた。

病院の廊下は白く、そして冷たい。消毒液の匂いが空気に満ちている。

受付で列に並び、ちょうど書類に記入しようとした時、見慣れた二人の姿が目に入った。

天野次が、腕に包帯を巻いた松永梓を支えながら出てくるところだった。

どうやらマンションから直接病院へ駆けつけたらしい。

「千紗様!」

松永梓はすぐさまか弱い表情に切り替え、僅かに体を傾けてお辞儀までしてみせた。

「次君が病院へ連れてきてくださったおかげで、傷の手当ができました。天野家の皆様には、本当に感謝しております。お体の具合はいかがですか? ずっと心配しておりましたの」

周りで並んでいた数人の患者が、好奇の視線を向けてくる。すぐに分かった。今度の松永梓の芝居は、傍観者の同情を引くためのものだ。

私はそのわざとらしい様を冷ややかに見つめ、平然と応じた。

「あなたには関係ないわ」

「千紗!」

天野次が鋭い声で遮り、その顔がたちまち険しくなる。

「なんだその言い方は。梓は心からお前を心配しているのに、お前は彼女の面子も気持ちも考えない。そんな振る舞いは、天野家の者としてあるまじき礼節を欠いた行いだ」

彼の非難が、私の心の中の怒りに火をつけた。

「礼節?」

私は冷笑した。

「天野次、あなたに私と礼節を語る資格がおありで?」

病院の廊下にいた他の人々が、さらに好奇の目を私たちへと向ける。一人の看護師などは、足を止めてこちらの様子を窺っていた。

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