第3章
「三年の結婚生活で、私はあなたのために三度も中絶手術を受けたわ。そのせいで、もう二度と妊娠できないかもしれない体になったの」
私はわざと声を張り上げ、周囲の人間にも聞こえるように言った。
「それなのにあなたは? 表向きは体面を保ちながら、裏ではこの女のために離婚を要求して、私を無一文で追い出そうとするなんて」
天野次の顔色がさらに険しくなる。彼は私を隅に連れて行こうと腕を伸ばした。
「声を落とせ! こんな所で話すことじゃない」
私はその手を振り払う。
「じゃあ、どこならいいっていうの? あなたのオフィスで、秘書を証人にでも立てる? それとも、お父様の前で? あなたが自分の妻をどう扱っているか、知ってもらうために?」
松永梓は天野次の後ろに隠れ、その目に一瞬、悪意がよぎったが、すぐに怯えたような表情を作った。
「次さん、千紗さんの診察の邪魔をしちゃいけないわ……」
「私の目の前で彼女と親密さを見せつけるのが、あなたの言う『礼儀』かしら?」
私は続けた。声は静かだったが、はっきりと響いた。
病院内でひそひそ話が聞こえ始める。
「今の若い人って、本当に体裁を気にしないのね……」
「なんてひどい男なの、あんまりだわ!」
「そんなに急いでいるのなら」
私は天野次の目を真っ直ぐに見据えた。
「書き直した離婚協議書を、さっさと送ってちょうだい。私もこんな無意味な関係、早く終わらせたいから」
天野次は、私が自分から離婚を切り出すとは思っていなかったようで、その表情は一瞬、複雑なものに変わった。
「お前……」
彼の声は少し震えていた。
「後悔するなよ」
「天野さん、あなたに後悔させられるような価値が、私にあるかしら?」
背を向けて立ち去ろうとしたその時、手にしたファイルが滑り落ち、中の書類が床に散らばった。
拾おうとすると、天野次が一足先に屈んでそれを拾い上げる。彼は診断書と治療計画書に目を通し、私の顔に視線を移すと、その表情がわずかに揺らいだ。
「君の病気は……」
松永梓がそっと囁く。
「次さん、騙されちゃだめです。同情を引くために、いろんなことをする人もいるんですよ」
受付の看護師が眉をひそめ、明らかにこの騒ぎに不満を感じているようだった。
「患者の皆様、お静かにお願いします。ここは病院です」
私は松永梓の挑発を無視し、ただ静かに天野次の手から書類を取り返した。
「返して」
背を向けて歩き出すと、松永梓がまだ小声で天野次に話しかけているのが聞こえた。
「きっと演技よ。あなたを心変わりさせるための……」
私は足を止め、振り返った。
「松永さん、本当に私のことを心配してくれるなら、あなたが私の日記やデザイン画を盗み見たことも、天野さんに話して差し上げたらどう?」
松永梓の顔が瞬時に真っ白になる。一方、天野次は困惑した顔で言った。
「何の日記だ? 何のデザイン画だって?」
半年前、千紗は松永梓が彼女の寝室でデザインファイルを開いているところを目撃した。その中には、千紗が昨年の東京ファッションウィークに出品するために準備していたデザイン画、一枚一枚が彼女の心血の結晶ともいえるものが入っていた。
物音に気づいた松永梓は、慌ててファイルを置き、部屋の片付けに来ただけだと千紗に説明した。
千紗はそれを信じた。
しかし半年後、松永梓は自身の「デビュー作」でファッション界に衝撃を与え、誰もが彼女を天才デザイナーと称賛した。
だが私は千紗の原稿を取り出して両者を比較したことがある。二つのデザイン画には驚くほど似通ったデザインコンセプトが見られ、細部の処理に至るまで瓜二つだった。千紗が業界に彼女を告発しなかったのは、優しさからではなく、当時すでに病の苦痛に苛まれ、彼女と争う気力がなかったからだ。
私はそれ以上説明せず、まっすぐに医師のオフィスへと向かった。
医師の高橋誠一は千紗の大学の先輩で、整形外科の権威であり、この小説における当て馬役でもある。彼は昔から千紗のことが好きで、彼女の病を知ってからは、自ら治療を担当したいと申し出てくれた。
「千紗、あまり気分が良くないようだね?」
高橋誠一は黒縁メガネを押し上げ、心配そうに尋ねた。
「さっき、ちょっと嫌な人たちに会ったの」
私は苦笑いを浮かべて腰を下ろした。
「天野さんかい?」
高橋誠一の口調には、わずかな不満が滲んでいた。
私は少し驚いた。
「どうしてわかったの?」
「君が前回入院した時、彼はほとんど見舞いに来なかったからね」
高橋誠一は私に白湯の入ったカップを差し出した。
「よく覚えているよ」
彼と千紗がどのように過ごしてきたのか、その詳細はよく知らない。あまり話しすぎると、彼に違和感を持たれるかもしれない。
私はすぐに話題を変え、きっぱりと言った。
「誠一先輩、私、手術を受けることに決めました」
「本当かい、千紗!」
高橋誠一は真剣な眼差しで私を見つめた。
「でも、骨肉腫の手術はリスクが大きい。うちの病院でも、この骨肉腫の手術の成功率は25パーセントしかないんだ。本当に治療に臨む覚悟はあるのかい?」
「先輩の医療技術を、私は完全に信頼しています」
私は微かに微笑んだ。
「それに、私には生き延びなければならない理由があるんです」
高橋誠一は私の手をそっと握った。
「僕が全力を尽くして君を助けるよ、千紗。何があっても、希望を捨てないでくれ」
彼の手のひらは温かく、力強く、私に不思議な安心感を与えてくれた。
「ありがとうございます、誠一先輩」
私は心からそう言った。







