第4章プロになろう
ジューン
息ができない。
いや、しているのかもしれない。ただ、浅すぎて呼吸と呼べないだけだ。取り乱すまいとして、汗をかくまいとして、叫び出すまいとしている人間の呼吸。そんな息づかい。
だって、彼はひと言も発していないから。
ただ、うなずいただけ。ほんのかすかに――まるで私が、彼の昼食を届けに来た配達係にでもすぎないみたいに。
「ドアを閉めろ」
氷に浸したような声で、彼は言う。
私はびくりと身をすくませる。そうなるのも当然だろう?
背後でドアが、容赦のない最後通告みたいな音を立てて閉まる。かちり、と。そうして一瞬、そこには沈黙しかなくなる。
どこを見ればいいのかわからない。もう、彼が誰なのかすらわからない。
彼は私を見つめる。まるで……初めて見るもののように。二日前の夜、私の首筋に彼の歯が食い込んでいたことなんてなかったみたいに。彼の手が私の太腿をつかみ、その声が、私自身も知らなかったような嬌声を私の奥から無理やり引きずり出し、私は彼の下でめちゃくちゃに崩れていった――そんなこと、何ひとつなかったみたいに。彼は私を見ていない。私の向こう側を見ている。
演技なのだと信じたい。これは何かの駆け引きなのだと。もっと大きな……何かの一部なのだと。だけど、もしそうだとしても、私はそのルールを知らない。しかも、もう負けかけている。
そして彼は言う。
「座れ」
それは提案ではない。平手打ちみたいに飛んでくる。
私はその椅子が噛みついてくるかもしれないとでもいうように、そろそろと腰を下ろす。全身がこわばって、震えている。座った拍子にスカートの裾が少し上がり、その瞬間だけ――鼓動ひとつ分だけ――彼の視線が落ちるのを感じた。けれどすぐ、はじかれたように逸らされた。
私は何も言わない。問いただしたりもしない。いったい何を言えというの?
「やあ、覚えてる? 最高の形で私を壊しておいて、そのあと臆病者みたいに姿を消したわよね?」――まさか。
だから私は黙って座る。彼の冷たい視線を受け止めながら。空気を霧みたいに濃くしていく緊張に気づかないふりをする。平気なふりをする。彼はただの上司で、私はただの研修生。そう思い込もうとする。
でも、胃のあたりはきつくねじれている。だって、どうして彼はこんなふうに知らないふりをするの?
いや――違う。
彼は覚えている。私は見た。顎に走った、あの一瞬のこわばり。強くまばたきしすぎた、その動き。彼は、どうでもよかったふりをしているんだ。
くそ――
彼は机のほうへ向かう。その動きは滑らかで、完璧に制御されている。黒く洗練された書類フォルダーを手に取る指先は、正確で冷たい。そしてそれを、私の前の小さな机の上に落とすように置いた。
「君は今後、私の予定に従って動く。ここに週間予定表がある。すべて頭に入れてもらう」
彼は平板で、無駄のない口調で言う。
「会議、通話、行事。私がいる場所には、君もいる。私が何をしているのか、どこへ行くのか、誰と話すのか――そういうことについて質問することは許されない」
フォルダーにかけた私の指が、そのまま固まる。
「ルールがある」
彼は続ける。わずかに一歩引き、その静けさをまるごと測るように。
「話しかけられるまで口を開くな。だらだら居残るな。個人的な会話を自分から始めるな。私の機嫌、声、あるいは身振りについて口にするな」
頭がくらくらし始める。何なの、この地獄みたいなルールは。
彼がこちらへ完全に向き直る。そのこと自体が、必要以上に強く胸に響く。記憶の中より背が高い。この照明の下では、肩幅もいっそう広く見える。あのホテルでは彼を少し柔らかく見せていたものが、このオフィスでは彼を武器に変えているみたいだ。
「そして何よりも」
彼は鋭く言う。
「私が許可しないかぎり、目を見るな」
息が止まる。言葉そのものじゃない――その言い方だ。まるで、それを口にするだけで何かを削られるみたいな響きだった。
私はゆっくりとうなずく。「承知しました。かしこまりました」
その呼びかけは、口の中で苦くよどむ。
彼は危ういほど長い一秒のあいだ私を見つめ、それから、まるで私に焼かれでもしたかのように目をそらす。机から印刷された日程表を取り上げ、フォルダーの脇に並べて置いた。
「今日は十一時半の記者会見に私と同行する。そのあと十三時に各地域責任者との昼食会だ。指示がないかぎり、会議室の中には入るな。役に立て。わからなければ自分で把握しろ」
一拍置いて、聞こえるのは彼がペンを鳴らす小さな音だけだった。
「私の秘書には、こちらが口にする前に必要を先回りしてもらう」彼は付け足す。「失望させるな」
頬の内側を強く噛み、鉄の味――血の味が舌に広がった。
彼はようやく机の向こうに腰を下ろし、タブレットを手元へ引き寄せる。こちらには一度も視線を寄こさないまま、私を追い払った。
唾を飲み込む。「ど……どこに座ればいいですか?」
彼は動きを止めた。鋭く、切り裂くような視線が一瞬だけ私に向けられ、それから顔も上げずに片手を上げ、壁際の小さな事務机を指し示した。隔離された場所。彼の机から、やけに遠い。
「そこだ」彼は言う。「見ればわかるだろ」
見ればわかる。
私は慌ててうなずく。「はい」
室内の沈黙は、氷の上に張りつめた緊張みたいに震えていた。反応しないように耐える圧力で、胸がひび割れそうだった。
そのとき、ノック。ドアが少し開き、見慣れた顔が覗く。
「グランデ様?」ポール氏だ――私をこの状況に放り込んだ張本人。「物流担当と電話が終わりました。記者フロアの準備はすべて整っています」
ヘルメス――いや、グランデ様は私を見もしない。
「よし」低くつぶやく。「君が行けるなら、こちらはいつでもいい」
ポール氏が私に目を向け、礼儀正しく小さくうなずいた。「アレクサンダーさん。うまく馴染めそうですか?」
私は無理やり笑みを作る。「はい、ありがとうございます」
……あなたは何もわかってない、ポール。何ひとつ。
グランデ様はもう手早く荷物をまとめ始めていた。つまり、察しろということだ。私は椅子から立ち上がり、静かに執務室を出た。
小さな事務机へ戻る。どうやら、これが私の机ということらしい。腰を下ろし、集中しようとする。呼吸しようとする。蹴られた犬みたいな気分にならないように――無理だけれど。時間が這うように過ぎていく。外室の静けさは、彼の声よりも冷たかった。
やがて足音がする。
彼らが執務室から出てきて、何か話し合っている――というより噂話みたいで、言葉はひとつも聞き取れない。
エレベーターへ向かう廊下を通り過ぎていく。私はうつむいたままでいたが、彼が歩みの途中で立ち止まったのがわかった。首を回し、まっすぐに私を見る。
「何をしている?」叱りつけるような声が飛ぶ。
私は勢いよく顔を上げた。「失礼しました……?」
「座っている」まるで罪でも犯したかのように言う。「私に付いて来い。秘書という言葉の意味がわからないのか」
言葉が、必要以上に深く刺さった。
私は椅子から跳ねるように立ち上がり、危うく後ろに倒しかける。「はい。申し訳ありません」
彼はもう背を向け、二度と振り返らずに歩き出していた。ポール氏がほんの少し、同情の色を含んだ視線をこちらに向ける。それが、なおさら腹立たしかった。
私は彼らのあとを急いだ。そして、エレベーターまでの途中、胸の奥で鋭いものがふくらむ。
そうか。私は無視されているんじゃない。
罰を受けているんだ。
何のために? 彼に触れさせたから? ホテルのベッドで、彼がくそったれな最高経営責任者だとも知らずに、触れられて声を漏らしたから?
ほんの一瞬でも、何か意味があったのかもしれない、なんて思ってしまったから?
いい。
彼が「仕事」を望むなら、私は「仕事」をする。
肩を正し、書類フォルダーを開いて後を追う。だが手の震えだけは、どうしても止まらなかった。
