第2章
寝室へ戻り、扉を閉めた瞬間――世界がぷつりと音を失った。
張りつめていたものが、いっせいに崩れる。夕葵は扉に背を預けるようにして、じりじりと床へ座り込んだ。虚ろな目が、部屋の隅に置かれたままのレゴの飛行機を捉える。昨夜、辰樹が最後まで組み上げられなかったもの。その隣には、彼がいちばん愛した小さな毛布。
夕葵はふらつく足で近づき、遥香が選んだ宇宙飛行士風の上着を胸に抱きしめた。頬を押し当て、布地へ顔を埋める。
冷たい。
もう、あのあたたかくて柔らかな小さな体温は、どこにもない。
「辰樹……」
かすれた嗚咽が喉を裂き、夕葵は身体を丸めて泣いた。内臓ごとねじ切られるように痛い。
頭の中は、あの子の最期で埋め尽くされていた。冷えた小さな手。光を失った瞳。何度も何度も、血の滲む心臓を刃で抉られる。
涙が枯れたと思えば、また溢れる。
辰樹の服を抱いたまま、麻痺した身体で寝返りを打ち続け、空が白み始める頃、極度の疲労に引きずられるように意識が落ちた。
目を覚ますと、枕元はひんやりと濡れていた。
九時。夕葵は約束どおり、市役所の前に立つ。
雨上がりの空は鈍い灰色で、今の心と同じ色をしていた。
二十分ほど待ったところで、携帯が震えた。
秦野家本邸の執事――切羽詰まった声が飛び込んでくる。
「若奥様! 秦野秋彦様が突然胸の痛みを訴えられて、市立第一病院へ搬送されました。様子がよくありません!」
胸がきゅっと縮む。
「すぐ行きます!」
夕葵はタクシーを止め、病院へ向かった。
秦野秋彦は、この世で数少ない温もりをくれた人。恩人であり、祖父のような存在だった。
手術室の前。ちょうど秋彦が運び込まれた直後、主治医が険しい表情で告げる。
「秦野秋彦様は古い持病の急性発作に加え、精神的な動揺もありました。手術にはリスクがあります。覚悟をしておいてください」
夕葵は廊下で待った。指先まで氷のように冷たくなる。
一秒が一年みたいに長い。
やがて手術灯が消え、ストレッチャーが押し出されてくる。秋彦の顔色は灰色だった。
病室で、秋彦がゆっくり目を開ける。夕葵を見ると、濁った瞳がわずかに揺れ、手を上げようとする。
夕葵は慌ててその枯れた手を握り、必死に笑みを作った。
「おじいさま、動かないで。ゆっくり休んでください。私と辰樹……二人で、早く良くなるのを待ってますから」
秋彦は夕葵をじっと見つめ、唇を震わせた。目尻に涙が滲み、かすれた息で首を横に振る。
「騙すな……辰樹のことは、もう全部知っとる……」
仮面が一瞬で剥がれ落ちた。
夕葵の涙が大粒で頬を伝う。
「苦労させた……夕葵よ……」
秋彦は老いの涙をこぼしながら、声を絞り出す。
「秦野家が悪い。あの馬鹿が……自分の子どもを……それでも……!」
感情が高ぶった瞬間、モニターがけたたましく警告音を鳴らした。
「おじいさま! 落ち着いて!」
夕葵は必死に宥め、手を強く握った。
深く息を吸い込み、震えそうな声を押さえ込む。
「聞いてください。私は誰も恨みません。でも……彰には、辰樹のことを知らせないでください」
秋彦は、夕葵の死んだような目を見て胸を掻きむしられるような顔をした。
「おじいさま」
夕葵の声は揺れなかった。
「彰と離婚します。どうか……認めてください」
秋彦は目を閉じ、涙が白い鬢へ滑り落ちる。
長い沈黙の末、極めて小さく――頷いた。まるで残った力をすべて使い切るように。
そのとき、携帯が震える。秦野彰だ。
夕葵は病室の外へ出て通話を取った。
「夕葵、どこにいる。『市役所で』ってのはどうした?」
嘲りが滲んだ声。
「市立第一病院よ。おじいさまが発作で、今しがた手術が終わったの」
疲れきった声で説明する。
二秒の沈黙。
次の瞬間、さらに冷たい怒りが爆発した。
「離婚したくないからって、今度は爺さんまで利用するのか? 林夕葵、お前は本当に――見直したよ!」
「彰、違――」
「黙れ! 今行く。お前は消えろ!」
乱暴に通話が切れた。
三十分もしないうちに、秦野彰が怒気を纏って病室へ踏み込んできた。
まず病床の秋彦を一瞥し、そのまま夕葵へ鋭い視線を突き刺す。
詰め寄り、嫌悪を隠さない声で吐き捨てた。
「離婚したくないからって、爺さんを病院送りにしたのか。夕葵、お前の腹黒さもここまで来たな。爺さんに何かあったら、お前も道連れだ」
「彰! 何を――!」
秋彦が咳き込み、さらに苦しそうに顔を歪める。
夕葵は真っ白になった。反論する力すら残っていない。
長年愛した男を見つめ、最後に残っていた何かが――灰になって落ちた。
「出て行け」
彰はドアを指し、氷の目で命じた。
「もう爺さんの前に出るな。手段も使うな」
夕葵の身体がふらりと揺れた。空っぽのまま、秋彦を安心させるように微笑み、深く一礼して病室を出る。
背後で、秋彦の怒り混じりの声が震えた。
「お前……この愚か者が!」
指を突きつけ、喘ぐように言う。
「夕葵が……!」
「おじいさま、落ち着いて。体が先です」
彰は宥めながらも、眉間に残る夕葵への嫌悪を消そうとしない。
「どうせ同情を引く芝居です。おじいさまが優しいのを見越して」
秋彦は枕に沈み、失望したように目を閉じた。涙だけが静かに流れていく。
やがて、かすれた声が漏れた。
「彰……その頑なさが、いつかお前を壊す……必ず、後悔する日が来る……」
彰は眉を寄せ、窓の外を見たまま長く黙り込んだ。
……
夕葵は別荘へ戻り、わずかな荷物を片づけ始めた。
携帯が鳴る。辰樹の事故を担当する交通警察からだった。申し訳なさそうな声。
「林さん……加害者側ですが、運転手は保釈されました。事件は長引く可能性が――」
それ以上は耳に入らなかった。
耳鳴りがして、血が一気に頭へ上る。
辰樹は父に会いに行く途中で死んだ。その加害者が、こんなにも簡単に保釈される?
どこに平等なんてあるの? どこに正義があるっていうの?
怒りが死んだ心の底で爆ぜ、夕葵の身体は震えた。
そのとき、玄関で鍵が回る音。
彰が入ってくる。夕葵が本当に荷造りしているとは思っていなかったのだろう。
夕葵は背を向けたまま、クローゼットからカシミヤのセーターを引っぱり出す。彰に買ったもの。必死に貯めた金で。彼がよく着るブランド――けれど一度も袖を通さなかった。
滑稽で、腹の底が冷える。
夕葵は力いっぱい、それを部屋の隅のゴミ箱へ叩き込んだ。
ぽん、と鈍い音。
放物線を追った彰の目が、ほんのわずか揺れる。胸の奥が理由もなくざわついた。
しかし壁には、まだ大きな結婚写真が掛かっている。
白いドレスの夕葵ははにかんで笑い、彰は無表情で距離のある目をしていた。
胸のざわめきは、すぐに消えた。
「満足したか?」
ネクタイを緩め、うんざりした口調で吐く。
「で、あのガキは?」
子を口にする声には、上からの薄い気遣いが混ざっていた。
夕葵は振り向かない。背中は硬いまま、息もしない。
彰は鞄から車の模型を取り出し、テーブルへ置いた。
「好きだっただろ。渡しとけ」
言い終える前に、彰の携帯が鳴った。
彼は即座に出る。夕葵が聞いたことのないほど柔らかい声。
「どうした? 安吾が限定版ロボット欲しい? 分かった、すぐ――」
切っても、夕葵を一度も見ない。踵を返して出て行った。
ドアがばたんと閉まり、広い空間がまた無音に沈む。
夕葵はゆっくり振り向く。
車の模型を見つめ、震える手で携帯を開く。遥香が、ちょうどSNSを更新していた。
高価な玩具に囲まれて座る安吾の写真。添えられた文。
「彰ってほんと安吾に甘すぎ。前に買った車の模型に飽きたから新しいのが欲しいって。仕方ないからまた買っちゃった~」
写真の隅。捨てられた玩具の中に、テーブルのものとまったく同じ模型が映っている。
――そういうこと。
夕葵は模型を見つめ、それから壁の結婚写真の中の自分を見上げた。あの頃は、まだ胸いっぱいに夢を詰めて笑っていた。
口元に、嘲るような笑みが浮かぶ。
写真を外した。
笑い話だ。全部が。
全身の力で、額縁を床へ叩きつける。
ガシャン——!
ガラスが砕け、破片が散った。二人の顔が、無数の裂け目に切り刻まれる。
夕葵は次に、テーブルの車の模型を手に取る。
ゴミ箱へ。
カシミヤのセーターの上へ、ぽとりと落とした。
