紹介
やつらは躊躇することもなく私の子の遺品を破壊し、私の家を乗っ取ったのだ。
そればかりか、私の言葉を嘘だと疑い、息子の死すら笑い話にしてみせた。
——私に残された命が、あと3か月だと告げるまでは。
夫の悔恨の念は、あまりにも遅すぎて届かない。
もう遅すぎるのだ。
奪われた私のすべては、この手で必ず取り戻してみせる!
チャプター 1
「林さん、本当にもう一度だけ、お考え直しいただけませんか?」
受話器の向こうで、医師の声が重なる。
「たしかに現在は肺がんの末期です。ですが、決して希望がないわけではありません。まだお若いですし、積極的に治療を続ければ可能性はあります。それに、お子さんもまだ小さいと……」
林夕葵は視線を落とした。腕の中にあるのは、もうすっかり冷たくなってしまった小さな体。いちばん好きだった宇宙飛行士風の上着を着て、静かに目を閉じている。その姿は、まるで眠っているようだった。
「治療はやめます」
声は、ぞっとするほど穏やかだった。
「それから、臓器提供の同意書にも署名します」
「ですが、お子さんが……」
「うちの子は、もう母親を必要としていません」
林夕葵はやわらかく遮り、指先で息子の冷たい額を撫でた。
「もう、二度と」
通話を切ると、火葬場の休憩室にある長椅子へ携帯を投げた。そこでようやく、自分が崩れることを許した。
彼女は辰樹の小さな体をきつく抱きしめた。肩が激しく震える。喉は裂けそうなのに、声にならない。ただ熱い涙だけがとめどなくこぼれ、すでに冷えきった前髪を濡らしていく。
辰樹の最期が脳裏によみがえる。いつもきらきらしていた大きな瞳はもう光を失い、最後の力を振り絞るように囁いた。
「ママ……パパ、いつ来るの? ぼく、パパに会いたい……」
林夕葵は胸が痛すぎて、息もできなかった。
震える手で再び携帯を拾い上げ、指が覚えきってしまった番号へかける。ほとんど繋がらない番号。それでも――。
コール音が長く続いたあと、ようやく通じた。
「何だ」
秦野彰の声は、氷みたいに冷たかった。
林夕葵は深く息を吸い込み、胸の奥で暴れ狂う悲しみを必死に押し殺した。喉が詰まり、声が震える。
「彰、辰樹が……辰樹が……」
「夕葵、そんな話に付き合ってる暇はない」
苛立ちを隠そうともしない声が、途中で遮る。
その瞬間、受話器の向こうから甘ったるい女の声が割り込んだ。
「彰、安吾が抱っこしてほしいって。次は何に乗る?」
「パパ、だっこ!」
林遥香の声だった。妹。そして、秦野彰がずっと忘れられなかった女。
林夕葵は息を呑んだ。電話の向こうでは、はしゃぐ笑い声が聞こえる。
――遊園地だ。
「……遥香と一緒にいるの?」
問いかけると、秦野彰は冷ややかに言い返した。
「それがどうした。お前に口を出す資格があるのか?」
林夕葵の声がかすかに震える。
「今日、辰樹の誕生日なの。知ってる?」
「いい加減にしろ、夕葵。お前が何を企んでるかくらい分かる。辰樹を会社に寄こして、同情でも買うつもりか。そういうやり口は心底くだらない。これ以上続けるなら、離婚だ」
離婚。
その言葉が、鋭い刃みたいに心臓へ突き刺さった。
――辰樹は、午後、父親に会いに行ったのだ。
重い再生不良性貧血を抱え、少し歩くだけでも息を切らすあの子が。たったひとりで半分もの街を越え、父親に会いに行く途中で、命を落とした。
林夕葵は腕の中で固くなりつつある小さな体を、いっそう強く抱きしめた。胸が潰れそうで、まともに息も吸えない。
「秦野彰」
声がふいに、死んだみたいに静かになる。
「離婚しましょう。今夜、帰ってきて署名して」
返事を待たず、通話を切った。
携帯が手から滑り落ちる。林夕葵は息子のもう硬くなった小さな頬へ自分の頬を押し当て、堰を切ったようにまた涙を流した。
「ごめんね、辰樹……ママが悪かった。最初から、全部間違ってた」
五年前、政略結婚のような形で彼に嫁いだ。何年も胸に秘めてきた片想いを抱えたまま。それでも分かっていた。彼は自分を好きではない。
自分が努力し続ければ、いつか変えられる。そう信じていた。けれど、秦野彰の心を温める前に、彼にとっての高嶺の花――海外へ行っていた林遥香が、二歳の息子を連れて先に帰ってきた。
それからというもの、秦野彰の目に映るのはあの母子だけだった。自分たち母子は、何度も何度も置き去りにされた。
辰樹を出産したときでさえ、秦野彰は病院に来なかった。
この数年、病弱な息子を気にかけたことなど、一度もない。
それでも辰樹は、ずっと父親の愛を欲しがっていた。
林夕葵は涙を拭い、辰樹の額にかかる髪をそっと整えた。
この五年間、彼女は働いて金を稼ぎながら、辰樹を連れて病院を転々とした。秦野家は裕福なのに、秦野彰は子どもの治療費を一円たりとも出さなかった。
そして今日――ようやく移植手術の費用を揃えられたとき、辰樹は嬉しそうに彼女へ抱きついて言った。
「ママ、手術が終わったら……パパ、元気になったぼくのこと、好きになってくれるかな?」
あの瞬間、心が粉々に砕けた。
でも、もう遅い。
火葬場の職員が近づいてきた。
「林さん、お時間です」
林夕葵の全身がびくりと震える。抱く腕に力を込め、それから少しずつ、少しずつ緩めていった。
最後にもう一度だけ、冷たい額へ口づける。
子どもは白布を敷いたストレッチャーへ移され、そのまま焼却炉へと運ばれていく。林夕葵はその小さな姿を見つめ、涙を止めることができなかった。
どれくらい経ったのか。灰色に曇った空を窓越しに見つめながら、彼女はぽつりと呟く。
「辰樹……もう少しだけ待ってて。ママ、すぐそっちに行くから」
……
夜。
林夕葵が扉を押し開けたとき、全身は雨でぐっしょり濡れていた。
玄関で顔を上げると、ソファに腰かける男の姿が見えた。
秦野彰は脚を組み、ドアの開く音に目だけを上げる。視線は氷のように冷たい。
「また芝居か」
濡れ鼠みたいに入ってくる彼女を見下ろし、薄い唇から嘲りが零れた。
林夕葵は答えなかった。ただ機械みたいにコートを脱ぐ。
この五年、何をしても彼の目には演技にしか映らなかった。
良き妻の芝居。良き母の芝居。被害者の芝居。
――あのときだって、そうだった。
秦野秋彦が重病に倒れ、彼女に秦野彰との結婚を願い出た。学費を援助してくれた恩は大きすぎた。断れるはずがなかった。
それに、心の奥ではずっと秦野彰を好きだった。
あの頃、彼女はすでに名門大学の合格通知を手にしていた。それでも恩返しのため、そして少しの叶わぬ夢のため、ためらいもなく手放した。
だが後になって知った。秦野彰の心にいたのは、自分の妹――林遥香だった。
彼は最初から、自分と結婚するつもりなどなかったのだ。
身を引くべきか迷っていた矢先、事故のような出来事が起きた。
薬を盛られ、目を覚ました先は秦野彰のベッドの上。向けられたのは、吐き気を堪えるような嫌悪の眼差しだった。
「違うの……」嗄れた声で訴える。「私も、被害者で……」
「林夕葵、お前は気持ち悪い」
秦野彰の言葉は、氷の針みたいだった。
「こんな卑劣な手まで使うのか」
彼は金を渡して終わらせるつもりだった。だが、一か月後に妊娠が分かった。
秦野秋彦が秦野彰を押さえつける形で、結婚は成立した。
けれど結婚してからも、秦野彰は取り繕おうとすらしなかった。彼女には冷たく、まだ生まれてもいない子どもにも無関心だった。
子ども――。
辰樹を思うだけで、胸の痛みはさらに深くなる。
子どものために、離婚だけは引き延ばしてきた。いつか秦野彰が振り返り、この家を、この血の繋がった子どもを見てくれると信じて。
でも、辰樹は死ぬまで父の愛をひとかけらも知らなかった。
胸がきりきりと引き攣れ、耳の奥で辰樹の声がまた響く。
「ママ……ぼくのせい? だからパパ、帰ってこないの?」
「ぼくが生まれなかったら……パパ、ママのこと嫌いにならなかった?」
「ママ、ぼくもう行くね……もうパパの邪魔しない……幸せになってね……」
雨と涙が頬を伝って落ちる。
もっと早く辰樹を連れて出ていれば、何か変わっていたのだろうか。
「もういい」
秦野彰が苛立たしげに、その沈黙を断ち切った。
「夕葵、わざわざ俺を呼び戻したのは、その芝居を見せるためか? そんな顔をされるほど、ますます嫌いになる」
林夕葵は目を上げた。
鞄から書類を取り出し、テーブルの上へ置く。
「離婚しましょう」
秦野彰が一瞬だけ動きを止める。だがすぐ、鼻で笑った。
「またその手か」
書類を手に取り、投げやりに目を通す。けれど、その顔色は次第に変わっていった。
内容は簡単だった。林夕葵は何も求めていない。
財産分与も。扶養も。秦野家のものは、何ひとつ。
「……何もいらない?」
刃のような視線が突き刺さる。
「この家だけか?」
「そうです」
林夕葵はきっぱりと言った。
秦野彰が笑う。
「夕葵、引いて見せるのは上手いな。分かってるのか? この家がどれだけの価値か。現金を要求するより、よほど賢い」
「安心して」
林夕葵はその視線を受け止め、一語一語を噛みしめるように言った。
「私が死んだら、この家はあなたに返します」
秦野彰の目がわずかに細まる。けれど次の瞬間には、さらに深い嘲笑に変わった。
「芝居もここまで来ると大したものだな。死ぬことまで駆け引きに使うのか」
林夕葵は何も説明しなかった。
ここには、辰樹の気配が残っている。自分に残された最後の時間を、ここで過ごしたかった。
「ペンを」
手を差し出す。掌を上に向けた指先は、かすかに震えていた。
秦野彰は一度じろりと彼女を見てから、ポケットから万年筆を取り出した。
林夕葵は無言でそれを受け取り、書類の最終ページを開く。そして女側の署名欄へ、迷いなく自分の名前を書き込んだ。
整った字で、淡々と。
一度も彼を振り返らず、そのまま階段へ向かう。
「明日、市役所で」
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