第4章 遺品
林夕葵が林家を飛び出したとき、いつの間にか霧雨が降り始めていた。
初春だというのに、雨は骨の髄まで冷たい。外へ出て間もなく、服はあっという間に濡れた。
それでも彼女は走った。足取りはふらふら、体は左右に揺れるのに、速度だけは落ちない。
どれほど走ったのか。息を吸うたび、肺の奥に鉄の味が滲む。もう限界だと悟ったところで、街路樹に手をつき、肩を震わせながら荒く息を吐いた。
胸の内側で、刃が往復している。吸うたびに肉が削られ、痛みで全身がぶるりと震える。
――肺がん、末期。
医師の声が、耳の奥で何度も反響した。
林夕葵は自嘲気味に口元を歪める。
死が怖いと思ったことはない。辰樹がいなくなった今、生きる意味なんてさらに薄い。
それでも今は、まだ死ねない。
あの事故を起こした運転手に、必ず罰を受けさせる。そうでなければ、目を閉じても閉じきれない。
歩くのだっておぼつかない子が、たったひとりで街の半分以上を越えて、実の父に会いに行った。その途中で、車に撥ねられて、冷たい道路に倒れた。
辰樹が最期の瞬間、どれほど怖くて、どれほど痛かったのか。
想像しただけで、心臓がきゅっと痙攣する。
それなのに、加害者は刑務所に入ったはずなのに、保釈されている。
どうして。何で。
命を奪った人間が、どうしてそんな簡単に外に出られるのか。うちの子の命は、命じゃないっていうのか。
林夕葵はしばらく木にもたれ、乱れた呼吸を整えた。少しだけ落ち着いたところで携帯を取り出し、震える指で交通課へかける。
「すみません。おとといの交通事故の件で……はい、辰樹という子どもの事故です。事故を起こした運転手を保釈したのは、どなたですか」
返ってきた言葉に、林夕葵の表情が凍りつく。
「……え?」
次の瞬間、声が跳ね上がった。押し殺しきれない怒りが混じる。
「教えられない? どうして! 私は実の母親です。知る権利がある。轢き殺されたのは私の子どもなんです! 私の、たったひとりの子なんです!」
叫びは雨空に反響し、悲鳴みたいに消えていく。
けれど受話器の向こうから返ってきたのは、氷みたいに硬い定型文だった。
「林さん、落ち着いてください。現在捜査中です。進展があり次第、こちらからご連絡いたしますので――」
「待てって? ……ふふ、はは……」
怒りで笑いが漏れ、身体が震える。涙と濁った雨が頬を伝い、顔をぐしゃぐしゃに濡らした。
「うちの子は、もう死んでる。死んでるの! 死ぬまで、自分がどうして死ぬのかも分からなかった……それに、死ぬ前に私は……私は一度も会えなかった!」
息を吸うたび胸が痛む。言葉は刃になって喉を切った。
「聞こえてます? 私は、会えなかったの。どういう意味か、分かる?」
返事はない。
ぷつりと通話が切れ、残ったのは無機質なツーツー音だけだった。
愤りも、絶望も、悲しみも――きれいさっぱり、無視された。
林夕葵は雨の中で携帯を握りしめたまま立ち尽くす。力が抜け、どうしようもない無力感が底から這い上がってくる。
ひとつの命が消えたのに、返ってくるのはこんな軽い言葉だけ。
あの運転手の背後には、何がいるのか。
直感が告げる。これは、ただの事故じゃない。
呆然としていると、携帯がまた鳴った。今度は幼稚園からだ。
「辰樹くんのお母さまですか? 辰樹くん、今日は登園されていないのですが……体調不良でしょうか?」
林夕葵は口を開く。けれど声が出ない。ひび割れた唇が雨で震え、言葉が喉に詰まる。
あの、隅っこでおとなしく絵を描いていた子が――もう二度と来ないなんて。どう伝えればいい。
「辰樹くんのお母さま、聞こえていますか?」
「……いません」
かすれる声。ほとんど音にならない。
「うちの子……交通事故で……おととい、亡くなりました……」
電話の向こうが長く沈黙した。次いで、先生が堪えきれない嗚咽を漏らす。
「……すみません。そうだったんですね。辰樹くんは本当にいい子でした。先週も、絵を描いて『ママにあげる』って言ってて……」
その言葉で、林夕葵の胸がぎゅっと締まった。虚ろだった瞳に、かすかな光が戻る。
辰樹のものが、幼稚園に残っている。
あの子はもういない。けれど、あの子の「もの」だけは――一つ残らず、持ち帰らなければならない。
それは、残された人生を支えるすべての形見。捨てられるはずがない。
「先生……幼稚園へ行って、息子の持ち物を受け取りたいです」
声に、わずかに芯が戻った。
許可をもらい、林夕葵はタクシーを捕まえて幼稚園へ向かった。
門には先生が待っていた。
激しい雨の中、林夕葵は傘も差さずに歩いてくる。雨が当たっている感覚すらないみたいに。全身ずぶ濡れのまま、まっすぐ先生の前に立った。
先生の目が赤くなり、何も言わず、そっと抱きしめた。
「辰樹くんのお母さま、まず座ってください。私が持ち物を――」
「いいえ。私が自分で見たいです」
林夕葵はもう泣いていなかった。
悲しみが限界を越えると、涙は出なくなる。心が麻痺しているのが、分かる。
辰樹の教室は二階だった。廊下の壁いっぱいに子どもたちの絵が並んでいる。
林夕葵は一目で辰樹の絵を見つけた。隅に、小さな子が母の手を握っている。横には、たどたどしい文字。
――ママがだいすき。
足が止まり、指先が絵に触れた。
絵の中の辰樹は目を三日月にして笑い、いちばん好きだった宇宙飛行士みたいな上着を着ている。
「ママ、ぼく大きくなったら宇宙飛行士になる。お空に行って星を取ってくる」
あの声が、耳に残っているのに。
言った本人は、もう帰らない。
林夕葵は絵を丁寧に外し、きれいに折り畳んで胸にしまった。
その瞬間だけ、錯覚する。辰樹は死んでいない。ずっとそばにいるのだと。
以前ネットで見た言葉が浮かぶ。
――人は死んだら魂になる。形を変えて、大切な人のそばにいる。
もし本当なら、どれほど救われるだろう。
辰樹は風になる。葉になる。蝶になる。雨粒になる。
今、自分に降り注ぐ雨の一滴一滴が、辰樹なのかもしれない。
林夕葵は教室へ入り、辰樹のロッカーを開けた。
中身は少ない。小さなセーター、運動靴、絵本が数冊、それからクレヨンの箱。
彼女はしゃがみ込み、一つずつ取り出して掌で撫でる。名残惜しくて、離したくなくて、指先が何度も同じところをなぞった。
