第5章 狭い道で仇に出会う
セーターは彼女が自分の手で編んだもの。運動靴は辰樹がいちばん気に入っていた。絵本は、毎晩のように「読んで」とせがんだもの。あの絵の具は、林夕葵が二日前に買ってやったばかりだ。
林夕葵は辰樹のスケッチブックを開き、一枚、また一枚と、ゆっくり頁をめくっていく。
最後の頁に描かれていたのは男の人だった。線は拙いほど単純なのに、林夕葵には一目で分かった。秦野彰。
辰樹が「パパ」を描くとき、必ずブリーフケースまで描き込む。辰樹の中で、父親の印象はそれしかなかったのだ。
幼い辰樹は、父親がどんな人間か知らない。それでも、死ぬまで父を待った。
――その父は、辰樹が死んだとき、林遥香と安吾を連れて遊園地ではしゃいでいた。
「辰樹くんのお母さま……どうか、お悔やみ申し上げます」
先生の声が詰まり、目は真っ赤だった。
林夕葵はもう涙も枯れていた。深く息を吸い、スケッチブックを閉じる。辰樹の持ち物をすべて袋に詰め、口をきゅっと結んだ。
「先生、ありがとうございました」
頭を下げる。
「辰樹のこと……これまで、ありがとうございました」
声は落ち着いているのに、胸の奥は刃物で抉られているみたいに痛んだ。
林夕葵は袋を抱え、先生と二言三言だけ交わす。先生は必死に慰めてくれるが、言葉はほとんど耳に入らない。
子を失う痛みなんて、人が耐えられるものじゃない。まさか自分が、こんな世の終わりかと思うような目に遭うなんて――想像すらしていなかった。
今はただ、一人になりたかった。辰樹が残したものを、ひとつずつ、確かめたかった。
そうしていれば、まだ辰樹がそばにいる気がするから。
立ち去ろうとした、そのとき。
階段のほうから、コツ、コツ、と澄んだヒールの音が響いた。続いて、甘ったるいのに、嫌というほど聞き覚えのある声。
「へえ、ここの幼稚園、環境いいじゃない。安吾、気に入った?」
林夕葵の身体が、ぴたりと固まった。頬に残った涙が冷えて張りつく。
振り向くと、林遥香が安吾の手を引き、にこにこと笑いながら上がってくる。
隣には、身なりの整った女が一人。短いポニーテールで髪をきっちりと後ろにまとめ、いかにも仕事ができそうな雰囲気だ。胸元には名札――この幼稚園の園長なのだろう。
園長は、こちらに他の人間がいることなど気づかないまま、媚びた笑みで林遥香にへつらった。
「林さん、ご安心ください。当園は教育方針にも自信がございます。お金持ちのお子さまも多く通っていらっしゃいますし」
「先ほど給食もご覧いただきましたが、食事面も万全です」
「安吾くんをお預けいただければ、責任を持ってお世話いたします」
「それなら安心ね」
林遥香は満足そうに頷き、ふと横へ目をやった。
視線が、林夕葵で止まる。
空気が一瞬、凍りついた。
林遥香も意外そうに目を瞬かせたが、すぐに眉をつり上げ、口元に薄い笑みを貼りつける。
「お姉ちゃん、こんなところにいたの?」
わざと、周囲に聞こえる声量で。
林夕葵は返さない。袋を抱えたまま、その場を抜けようとする。
「待って」
林遥香が立ちはだかった。無垢を装った顔の奥で、濃い悪意がぬらりと光る。
「お姉ちゃん、そんなに急いでどこ行くの?」
「辰樹が大変だったんでしょ。あーあ、かわいそう」
「ほら、あの子、小さい頃から身体が弱かったじゃない。『長くない』って言われてたし」
「我が子を失ったまで背負うなんて、お姉ちゃんも大変だよねえ」
「想像するだけで、胸が痛いわ」
「黙れ!」
林夕葵が勢いよく顔を上げた。視線は刃のように鋭い。
林遥香は一瞬、ぞくりとしたのか、思わず一歩退いた。だがすぐ、泣きそうな被害者の顔に戻る。
「お姉ちゃん、なんでそんな怖い言い方するの?」
目尻を赤くして、わざとらしい震え声。
「私、心配してあげてるだけなのに」
「辰樹はお姉ちゃんのたった一人の息子だもんね。つらいのは分かるよ。でも、その怒りを私にぶつけないで」
林夕葵は答えなかった。冷えた床だけを見つめる。
揉めたくない。早く帰りたい。なのに――林遥香は逃がす気などない。
「ところで、お姉ちゃん。彰は今日は一緒じゃないの?」
「あ、そうそう。彰ね、今日は私と安吾のために幼稚園を見に来るって言ってたの」
そう言って、安吾の頬をやさしく撫でる。
「渋滞で遅れるって。先に見ててってさ。ほんと、気が利くよね」
安吾が顔を上げ、無邪気に言った。
「ママ、このブスなおばさん誰? ずっとにらんでる。あの目、きらい」
子どもは残酷だ。そして、今の林夕葵は確かに酷かった。
雨に濡れ、全身はずぶ濡れ。髪は乱れて頭皮に貼りつき、赤く腫れた目に、紙みたいに白い顔。細い腕で大きな袋を二つも抱えている。
遠目には、拾い集めて歩く乞食みたいだった。
「安吾、そんなこと言っちゃだめ」
林遥香はやさしく叱る。だが声色だけで、責める気配は欠片もない。
「おばさんは気分が悪いだけ。私たちが大人になってあげないとね」
「お姉ちゃん、怒らないで」
林遥香が一歩、距離を詰めた。
林夕葵が避けようとした瞬間、林遥香の指が彼女の腕を掴む。
笑顔のまま、首を少し傾けて。二人にしか聞こえない声が、ゆっくりと落ちてきた。
「ずっと言いたかったことがあるの。今日、ちょうどいい」
風みたいに柔らかい声。なのに言葉は氷だった。
「私、妊娠したの。彰の子」
林夕葵の表情が固まるのを見て、林遥香は満足げに背筋を伸ばす。
「分かったの、二日前。たしか……辰樹が事故に遭った日かな」
「遊園地で遊んで、彰が『久しぶりにこんな楽しかったの、ない』って言ってた」
「午後、具合が悪くて病院に行ったら、この嬉しい知らせ」
「お姉ちゃんも、喜んでくれるよね?」
林夕葵は、頭を鈍器で殴られたみたいに眩暈がした。ようやく林遥香を正面から見た。けれど脳内には、別の光景が突き刺さっている。
辰樹が死んだあの日。林夕葵は火葬場で、冷え切った小さな亡骸を抱きしめ、崩れながら秦野彰に電話をかけた。辰樹が――辰樹が、と。
受話器の向こうにあったのは、林遥香と安吾の笑い声。遊園地。
そして夜も――彼らはまだ一緒だった。
