第6章 命を救う最後の機会
その夜、自分はどうだったのか。
辰樹の亡骸を抱いたまま、火葬場で一晩中、ただ座っていた。
誰ひとり来なかった。携帯にも何の連絡もない。メッセージひとつ、着信ひとつ――なにも。
秦野彰は、もう自分たち母子のことなど忘れてしまったのだろうか。
あの人の目に映っているのは、林遥香と安吾だけ。
林夕葵は、また胸の奥を痛みにえぐられた。
見えない場所に潜んだ鈍い刃が、皮膚の内側を一寸ずつ、容赦なく裂いていくようだった。
苦しさに胸元を押さえる。呼吸は浅く、荒い。
林遥香が小首を傾げた。澄んだ声は、やけに耳につく。
「お姉ちゃん、どうしたの? 顔色、すごく悪いよ?」
林夕葵は唇を動かした。だが、声にならない。
目の前にあるのは、やさしく穏やかそうな顔。
その奥に隠しきれない、優越と悪意。
林夕葵はふっと笑った。泣くよりも、ずっと醜い笑みだった。
なんて皮肉なのだろう。
妻である自分が、不倫相手にここまで踏みにじられるなんて。
けれど、もうそんなことはどうでもよかった。
「林遥香」
かすれた声で、それでもはっきりと言う。
「あなた、きっと報いを受けるわ」
それだけ告げると、林夕葵はもう彼女を見なかった。
ぎこちなく背を向け、感情を失った人形みたいに、一段ずつ階段を下りていく。
背後から、なおも勝ち誇った声が追ってきた。
「お姉ちゃん、気をつけてね。転んだりしないで。もし死んじゃったら、辰樹くんがあの世で心配しちゃうかも」
本当にやわらかな声だった。春の雨みたいに、やさしく。
それなのに、その一言一言は氷より冷たく、震える心臓をずたずたに切り裂いていく。
幼稚園を出ても、雨はまだ降っていた。
林夕葵は門の前で立ち止まる。雨と涙が混じり、視界がぼやけた。
腕の中の袋へ目を落とす。
辰樹がいちばん好きだったセーター。
大事にしていたお絵かき帳。
そして、壁から外してきたあの絵。
「辰樹……」
喉の奥でつぶやく。声は詰まり、か細い。
「ママが悪かった……ごめんね……」
子を失う痛みより、深い痛みなどあるのだろうか。
林夕葵は袋を抱きしめたまま、ゆっくり歩き出した。
濡れた服が細い体に張りつき、少し風が強まればそのまま吹き飛ばされてしまいそうだった。
向かう先は墓地。
辰樹の遺骨が、あそこで待っている。
三十分後、着いたころには雨脚が少し弱まり、霧雨に変わっていた。
林夕葵は一歩ずつ、その小さな墓標へ向かう。
刻まれた文字は雨ににじみ、ぼやけて見えた。
墓前にしゃがみ込み、大きな袋を開く。
中のものをひとつずつ取り出し、そっと並べていった。
「辰樹、ママに会いに来たよ」
声はひどくかすれて、ほとんど聞き取れない。
涙だけが頬を伝う。
「ごめんね……ひとりであの人のところへ行かせちゃって……ママも一緒に行くべきだった……」
声が崩れる。体も小刻みに震えた。
「もしママが一緒だったら、あなたは……」
そこから先が続かなかった。
頭の中には、辰樹のあの明るい笑顔ばかりが浮かぶ。
行かせるべきじゃなかった。
ちゃんと送っていくべきだった。
してあげるべきことなんて、いくらでもあったのに。
全部、遅すぎた。
「辰樹……」
林夕葵は冷たい墓石にしがみつき、額を硬い石へ押し当てた。
指先でそっと撫でる。名残を惜しむように、いつまでも。
「もう少しだけ待ってて……ママも、すぐそっちへ行くから……」
それでも、その前にやらなければならないことがある。
「あの運転手のこと、ちゃんと調べるから。あなたを轢いたのに、どうして罰も受けないの……? 絶対に、代償を払わせるから……!」
いったん弱まっていた雨が、また強く降り出した。
林夕葵は激しく咳き込み、反射的に口元を押さえる。
やがて咳が収まり、手のひらを見た瞬間――そこには鮮やかな赤が広がっていた。
血。
林夕葵は、ふっと笑った。
力なく、口元がわずかに歪む。
そのまま墓石にもたれ、目を閉じる。
雨に打たれながら、じっと動かなかった。
どれほど時間が過ぎたのか。
やがて林夕葵は立ち上がり、墓地をあとにした。
翌日、市立病院。
診察室で、医師が検査結果を見つめながら眉を深く寄せた。
「林さん。病状の進行が、予想よりかなり早いです。できればすぐに入院して治療を始めてください」
「結構です」
林夕葵の声は静かだった。目にも何の波もない。
まるで、告げられたのが末期の肺がんではなく、ただの風邪ででもあるかのように。
「自分の体のことは、自分がいちばん分かっています。お薬だけ出してください」
「ですが……」
「入院はしません」
穏やかなのに、ぞっとするほど揺るがない声だった。
医師はため息をつき、キーボードを数回叩いて処方を出した。
林夕葵は処方箋を受け取り、薬局へ向かう。
廊下は人であふれていた。
彼女はぼんやりと、その中を進んでいく。
一睡もしていないことに加え、肺がんの苦しみが体力を奪っている。
足元は頼りなく、綿の上を歩いているみたいにふわふわした。
「危ない!」
ぶつかりかけた、その瞬間。
伸びてきた両手が、しっかりと彼女を支えた。
林夕葵は顔を上げる。
視線の先にあったのは、心配そうな目だった。
白衣を着た若い男。
年は二十代半ばほどだろうか。医療用マスクに隠れて顔立ちは見えにくいが、眉と目元はひどく穏やかで、そこにかすかな案じる色がにじんでいた。
林夕葵は一瞬だけ目を見開き、すぐに思い出す。
陸川時生。
彼女の担当医であり、以前、辰樹の治療のために骨髄バンクの手配をしてくれた人だ。
「陸川先生……」
笑おうとした。けれど、うまく笑えない。
陸川時生は彼女の顔を見つめ、眉間のしわをさらに深くした。
「数日見ないうちに、どうしてこんなに痩せたんですか。辰樹くんは? 最近の状態はどうです?」
「骨髄の適合は、もう見つかっていたんです。本当ならすぐにでもお伝えしたかったんですが、ずっと連絡が――」
「……何ですって?」
陸川時生の言葉が終わる前に、林夕葵の体がびくりと強張った。
次の瞬間、彼の腕を掴む。
「今、何て言いました? 適合した骨髄って……何のことですか」
あまりに激しい反応に、陸川時生も目を丸くした。
「三か月ほど前です。骨髄バンクで、辰樹くんと完全一致する提供者が見つかりました。私も本当にうれしくて、すぐにあなたへ連絡しました」
「でも、どうしてか電話がつながらなかった。それで仕方なく、秦野彰さんのほうに連絡を入れたんです。ご本人が『こちらで対応する』とおっしゃって、資料も送ってほしいと」
「もうずいぶん時間が経っていますから、てっきり移植も終わって、辰樹くんは回復しているものだと思っていました。でも、その様子だと……まさか、容体がよくないんですか?」
その瞬間、林夕葵の頭の中で何かが爆ぜた。
真っ白だった。
三か月前――。
思い出した。
あのころ、自分は辰樹の手術費を工面するため、毎日三つも仕事を掛け持ちしていた。
歯車みたいに休みなく働き、枕に頭をつけた瞬間に意識を失うほど疲れ切っていた。
ある日、うっかり携帯を落として壊してしまった。
修理が終わったのは翌日で、そのとき確かに陸川時生から何件も着信が入っていた。
慌ててかけ直したが、つながらなかった。
きっと検査か再診の連絡だろう――そう思って深く考えず、そのまま辰樹を病院へ連れて行った。
まさか、あれが辰樹にとって最後の救いの手だったなんて。
みるみるうちに林夕葵の顔色が失われていくのを見て、陸川時生も何かを悟ったらしい。
「まさか……まさか、辰樹くんは骨髄移植を受けていないんですか?」
林夕葵の手が震える。
いや、震えているのは手だけではなかった。
全身が、どうしようもなく震えていた。
