第7章 まさか自分の息子を呪うなんて?!
三か月前――彼女が辰樹を連れて定期検査を終え、病院から戻った直後だった。
秦野彰から一度だけ電話があった。辰樹の具合を尋ねる、そんな内容。
そのときの彼女は、ようやく父親として関心を向けてくれたのだと信じてしまった。嬉しくて、しばらく胸が温かかった。
――違った。
彼が気にしていたのは辰樹じゃない。骨髄の適合が「使えるかどうか」を確かめただけ。
あの頃、林遥香の息子の安吾も病気になっていた。同じく骨髄移植が必要で。
「林さん……?」
陸川時生が不安そうに覗き込む。
「顔色がひどいです。どうしたんですか、何があったんです?」
林夕葵は答えなかった。糸が切れたように、はっと我に返ると踵を返す。
そして――走り出した。
問いたださなければならない。絶対に、はっきりさせなければ。
辰樹は、あの男の実の息子だ。なのにどうして、秦野彰は平気で他人の子を助け、自分の息子が死んでいくのを見捨てられる?
人間じゃない。畜生……いや、畜生のほうがまだ良心がある。
都心の一等地。ひときわ目立つ超高層ビルの最上階――そこが秦野彰のオフィスだった。
林夕葵はビルに飛び込み、受付の制止を振り切ってエレベーターへ乗り込む。
オフィスに踏み込むと、秦野彰はデスクで書類にサインしていた。
「秦野彰!」
林夕葵は喉が裂けるほど叫ぶ。
「あなた……人間なの!?」
秦野彰は顔を上げ、ずぶ濡れで青ざめた彼女を見て眉をひそめた。
「何しに来た」
声は冷え切っている。
「身なりも整えずに会社へ来るな。俺に恥をかかせる気か。帰れ。ここはお前の来る場所じゃない」
「聞きたいことがある」
林夕葵は荒い息のまま机に両手をつき、逃げ場を塞ぐように睨み据えた。
「三か月前、陸川先生から連絡があったでしょう。辰樹に適合する骨髄が見つかったって」
秦野彰の瞳が、わずかに揺れる。だが次の瞬間には冷たさが戻っていた。
「それがどうした」
心臓がぎゅっと縮む。林夕葵の顔から血の気が引いた。
「その骨髄は? どうして私に言わなかったの?」
「言ってどうする」
秦野彰は鼻で笑う。
「お前は手術費を出せるのか? 辰樹の代わりに手術できるのか? 何もできないだろ。乞食以下だ」
「費用は揃えた!」
林夕葵は声を張り上げた。
「辰樹が事故に遭った日、ようやく全部揃えたの! もし……もし移植ができてたら、辰樹は治って……治って……!」
喉が詰まり、言葉が途中で千切れた。
「だから何だ」
秦野彰はうんざりした顔で言い捨てる。
「その骨髄なら、もう他に回した」
頭の中で、ぶん、と音がした。
「……誰に?」
秦野彰は答えない。
でも、林夕葵には分かった。
「安吾でしょ」
低く震える声。
「林遥香の息子に渡したんでしょう!」
林夕葵が彼の腕を掴むと、秦野彰はついに露骨な苛立ちを浮かべた。見下ろす眼差しは、温度のない氷。
「そうだ」
その一言が、電流みたいに全身を刺す。林夕葵は弾かれたように手を離し、よろめいた。
「どうして……」
理解できない。
「辰樹はあなたの実の子よ。どうして他人の子に生きる希望を渡すの。秦野彰、あなた……悪魔なの?」
「他人?」
秦野彰は立ち上がり、吐き捨てるように言った。
「正直に言ってやる。遥香の子は俺の子だ。俺はあの子を救う」
林夕葵が呆然と固まるのを見て、秦野彰の冷笑が深くなる。
「俺がお前の汚い思惑に気づいてないとでも? あの時、お前は俺に薬を盛った」
「遥香がどれだけ傷ついたか分かるか? 本当は俺に告白するつもりだったのに、お前が俺のベッドにいるのを見せつけられたんだ」
言葉が途切れる。顔が苦痛に歪む。
「林夕葵、お前は俺が見た中で一番悪毒な女だ」
さらに畳みかける。
「遥香はそれで妊娠した。どれだけ苦労したと思う。なのに遥香は、お前を責めるなって言った。『一時の過ち』だってな」
「それでもお前は秦野夫人として居座り、遥香を何度も傷つけた」
林夕葵は硬直したまま首を振る。何度も口を開くのに、音が出ない。
あの夜――確かにあのバーへ行った。酒は一杯だけ。目眩がして、友人に支えられて外へ出た。そこから先は、何も覚えていない。
秦野彰の話は、まるで他人の物語だ。
説明したかった。けれど分かっている。彼は信じない。最初から、一度も。
林夕葵は秦野彰を見つめた。まるで初めてこの男を知ったかのように。
恋を知った頃から、心の中には秦野彰しかいなかった。ようやく嫁げたとき、願いが叶ったと信じたのに――彼の目に映る自分は、そんな女だった。
「秦野彰」
林夕葵は、ゆっくりと息を整えた。力なく、苦く笑う。
「辰樹を殺したのは、あなたよ」
「ふざけるな!」
秦野彰の嫌悪が濃くなる。
「自分の子を呪う母親なんて見たことがない。夕葵、見直したよ。俺は目が腐ってた。お前みたいな女を娶るなんてな!」
「信じないのね」
林夕葵は怒りで笑った。
「いいわ。信じないなら見ればいい。辰樹の墓を」
「は。よく作る」
秦野彰は冷たく笑う。
「いいだろ。付き合ってやる。どこまで演じるか見ものだ」
車の鍵を掴み、林夕葵の腕を引いて外へ向かった。
車内で二人は一言も交わさない。
林夕葵の頭の中には辰樹だけがいた。小さな体で、冷たい土の下にひとり。どれほど怖いだろう。
その上、実の父親が――その死を信じない。
墓地の入口で車が止まり、林夕葵はふらつきながら雨の中へ踏み出す。秦野彰が無言で後ろに続いた。
雨幕の向こうに、墓碑がずらりと並ぶ。
林夕葵はある墓の前で足を止めた。
秦野彰が前へ出て、墓碑へ視線を落とす。
次の瞬間、表情が固まった。やがて、鼻で笑う。
「夕葵。これが墓か?」
傘越しに振り返り、嘲りを滲ませる。
「ここ、他人の名前が彫ってある。俺をここに連れてきて、よく平気だな」
「自分の子の墓も覚えてないのか? それとも最初から全部作り話か?」
