第1章
周防凛は腕にはめたレディースのダイヤ付き腕時計に、ふと目を落とした。
――夜11時。
レストランで、きっかり4時間待った。
スマホには、西原司からの連絡は一件もない。
周防凛は通話ボタンを押した。
コールののち、繋がる。
「もしもし?」
女の声だった。
聞き覚えがある。西原司の高嶺の花――葉山美晴。
数秒の間。
次いで耳に届いたのは、低くて、磁力みたいに引き寄せる男の声だった。
「……何か用?」
西原司が、淡々と、距離を置くように尋ねる。
胸の奥が刃物で裂かれたみたいに痛いのに、周防凛はもう麻痺していて、
「……ううん、なんでもない」
言い終わる前に、ぷつり。
「ツー」という無機質な切断音とともに、西原司は電話を切った。
周防凛は苦い笑みを浮かべたまま、画面が明るいままのスマホをぼんやり見つめる。やがて、ブラックアウト。
今日は――結婚6周年の記念日だ。
結婚記念日に、夫は彼の高嶺の花に寄り添っている。
6年間。周防凛は何度も何度も期待して、そのたびに叩き落とされてきた。
……そもそもが、自分のせいだ。
西原司に一目惚れして、10年も追いかけ回して、無理やり結婚に持ち込んだのは周防凛だ。
彼が自分を愛していないことも、むしろ嫌っていることも、分かっていた。
それでも周防凛は西原司を愛してしまった。自分を失うほどに。
西原司が葉山美晴と連れ立って歩いていようと、周防凛は抜け出せないまま、卑屈に愛し続けてしまう……。
最後の赤ワインを飲み干し、グラスを置く。濡れた目尻を指先で拭った。
立ち上がり、バッグを取り、ひとりでレストランを出た。
◇
屋敷に戻ると、5歳の西原景冶がリビングで夜更かしして絵を描いていた。
「お母さん」
振り向いて一言だけ呼ぶと、また黙々とクレヨンを走らせる。
周防凛は近づき、心配そうに言った。
「景冶、どうしてまだ起きてるの。こんなに遅くまで」
西原景冶はクレヨンを握りしめ、真剣な顔で塗りつぶしながら答える。
「美晴おばさん、もうすぐ誕生日なんだ。プレゼント作るの」
周防凛は視線を落とした。
紙の上には、温かくて幸せそうな絵。
大人が二人。その真ん中に子どもが一人。
――家族三人みたいに。
でも、その「お母さん」の位置にいるのは周防凛ではなく、葉山美晴だった。
しかも西原景冶は、よたよたした文字で書き添えている。
――美晴おばさん、お誕生日おめでとう。
思わず、笑ってしまいそうになる。
5歳の西原景冶は、母親の名前は書けないのに、葉山美晴の名前は書ける。
周防凛の顔色が冴えないのに気づいたのか、西原景冶が探るように言った。
「お母さん、また怒ってるの?」
また。
「美晴おばさん」の話題になると、お母さんはいつもおかしくなって、怒り続ける。
でも、美晴おばさんはすごくすごくいい人なのに。きれいで優しくて、プレゼントもお菓子もいっぱいくれる。
それに比べてお母さんは、うるさくて、ルールが多くて、あれもダメこれもダメ。
怒らせたくなくて、西原景冶は慌てて言い訳を並べた。
「今日、美晴おばさん倒れたんだよ。だからパパは病院に行っただけ」
「お母さんは大人だもん。子どもみたいに、そんな小さいことで怒ったりしないよね?」
「それにね、美晴おばさんほんとにいい人なんだ。お母さん、嫌いにならないでよ」
期待に満ちた目。
周防凛の心臓が、鋭い小刀でえぐり取られたみたいに、鈍く痛む。
5年前――西原司は宴席で葉山美晴に一目惚れし、熱烈に追いかけた。
それ以来、彼の世界で一番は葉山美晴、二番は西原景冶。
自分、周防凛がそこに入ったことは一度もない。
「西原奥様」の肩書きにしがみついているから、彼は仕方なく妻として扱っているだけだ。
……そうでなければ、西原司はとっくに葉山美晴と結婚していただろう。
西原景冶がぼんやりした周防凛を見て、おずおずと呼ぶ。
「お母さん?」
周防凛は淡い笑みで返し、子どもの頭を撫でた。
「絵、もう終わった?」
「うん」
「じゃあ、早く寝ようね」
今回は怒られないと分かったのか、西原景冶はほっとしたように頷いた。
周防凛が風呂に入れ、寝かしつけ終えたころには、日付はとうに変わっていた。
西原景冶はうとうとしながら寝言をこぼす。
「美晴おばさん……ほんとにいい……」
周防凛の手が拳になる。指先が白くなるほど力を入れても、胸の冷えは止まらない。
皮肉だ。
自分の息子が、夢の中でまで夫の高嶺の花の名前を呼んでいる。
その夜も西原司は帰ってこなかった。
空っぽの寝室で、周防凛は一晩中寝返りを打ち続けた。
◇
翌朝。周防凛は早起きし、いつも通り朝食を用意した。
食べ終えた西原景冶は、部屋の隅にこそこそと隠れてボイスメッセージを送っている。
背後から周防凛が近づいていることにも気づかない。
「美晴おばさん、体、よくなった?」
「景冶、すっごく会いたい。おばさんの手作りの小さいケーキ食べたい」
文字は打てないから、いつも音声だ。
普段、お母さんは甘いものを厳しく制限する。
お母さんは嫌、美晴おばさんは好き。
その声を聞いて、周防凛は寂しげに目を伏せた。
運転手に言って、幼稚園まで送らせることにした。
車に乗った西原景冶が、不思議そうに母親を見上げる。
いつもはお母さんが絶対に送ってくれるのに。
「お母さん、今日は送ってくれないの?」
周防凛は淡々と答えた。
「うん。今日は忙しいの」
西原景冶は深く考えず、にこっとして手を振った。
車が走り出すやいなや、西原景冶はすぐスマホを取り出し、葉山美晴へ音声を送る。
――よかった。お母さんがいない。これで思いっきりおばさんと話せる。
周防凛は会社へ向かった。
西原司を追いかけるために、当時なりふり構わず西原グループに入り、総裁室付きの大勢いる秘書の一人になったのだ。
会議中、書類を届けに行った周防凛は、ガラス扉越しに会議室の中心へ目をやる。
西原司がいた。
彫りの深い目元。高い鼻梁。薄い唇。
仕立ての良い黒のスーツ。腕のパテックフィリップが鈍い光を返す。
一挙手一投足に、上に立つ者の威圧が滲んでいた。
部長が何か失言したのだろう。西原司が眉をひそめ、会議室全体が息を殺したような重さに沈む。
周防凛はほんの一瞬、彼を見ただけで、心がまた乱れた。
書類を渡し、デスクに戻って黙々と仕事に没頭する。
冬は日が落ちるのが早い。退勤時間には外はもう真っ暗だった。
周防凛は車でケーキ屋へ向かった。
西原景冶にご褒美として小さなケーキを買い、母子の関係を少しでも和らげたかった。
――その途中、金色の灯りが水面に揺れる湖畔のレストラン前を通りかかり、知っている姿が目に入った。
西原司と葉山美晴がディナーをしている。
しかも、西原景冶も一緒。
葉山美晴が丁寧にステーキを切り分け、西原景冶は満ち足りた笑顔を浮かべている。
西原司は、優しい目で葉山美晴を見つめていた。
周防凛の手がぎゅっと握り締められる。爪が柔らかい掌に食い込み、いつもの痺れる痛みが胸をえぐった。
――本物の家族三人は、あの人たちだ。
6年だ。
周防凛、たぶん、もう目を覚ますべきなんだ。
10年好きで、子どもまで産んだのに、彼は一度もまともに自分を見てくれなかった。
家の圧力がなければ、彼は最初から結婚などしなかった。
周防凛はケーキ屋へは行かず、そのまま西原グループへ車を走らせた。
総裁室付きはまだ数人が残業していた。
冷えた指先のまま、周防凛は離婚協議書を淡々と作成する。
完成したそれを封筒に入れ、大村静也に託して渡してもらうことにした。
同じ秘書室でも、西原司は基本、周防凛を自分のオフィスへ入れさせない。
大村静也は、周防凛と西原司の本当の関係を知る数少ない人物だ。
――西原様は周防凛が嫌い。結婚は無理やり。
そのくせ周防凛は図々しく張り付いている。
封筒を受け取った大村静也は、ぼそりと吐き捨てた。
「……かったりぃ」
総裁室を出る前に周防凛は振り返り、西原司のオフィスを深く見つめた。
表情は淡々としていて、かつてのような熱も、派手さもない。
西原司――10年。
もう、自由にしてあげる。
