第2章
周防凛は別荘へ戻り、身の回りのものだけを手早くまとめた。
スーツケースを引きずって階段を下りると、ちょうど使用人の小坂と鉢合わせる。
「奥様、こんな遅くに……」
「ご出張ですか?」
周防凛はそれ以上、口を開く気になれず、ただ小さく頷いた。
闇の中へ、車が別荘を離れていく。
バックミラーに映る屋敷が遠ざかるほど、心は不思議なほど静かになっていった。
愛しているときは、燃えるように、華やかに。
手放すと決めたら、迷いなく、あっさりと。
周防凛は自分名義のプライベートマンションに移った。
六年前。大学を卒業したばかりの彼女は、名門校の優秀な卒業生として、進学も研究も、選択肢はいくらでもあった。
それでも周防凛は、すべての誘いを断ち切り、西原グループへ入社した。西原司の「秘書」になるために。
両親は娘を案じ、引き留めようとした。だが、一度決めたら曲げない性格はどうにもならない。
通勤の負担を減らすため、父は一等地の繁華街にマンションを買い与えた。
結婚後は西原家の別荘へ移り、そこはずっと空き部屋のままだった。
六年ぶりに戻った小さな部屋に、周防凛は複雑な息を落とす。
――何もかもが、変わってしまった。
◇
その頃、西原司と西原景冶が帰宅したのは22時半。
屋敷はがらんとしていて、周防凛の姿がない。
西原景冶は美晴おばさんに買ってもらった玩具を抱え、リビングへ駆けていった。
テーブルの上には、大村静也が一時間ほど前に届けてきた封筒。中身は離婚協議書だ。
玩具に夢中の西原景冶は、何気なく封筒をテーブルの下へ放り投げてしまう。
「……奥様は?」
西原司が入ってきたとき、小坂に向けてついでのように訊ねた。
「若様、奥様は出張に出られました」
西原司は淡々と、
「……うん」
それ以上は聞かなかった。周防凛など最初から重要ではない、と言わんばかりに。
その夜、周防凛は徹夜で辞表を作り、会社の人事部へ送信した。
深夜0時。
スマホに通知が届く。
『平岡グループ、再び突破! AI技術が新たな高みに――』
記事を開いた瞬間、センターに立つ平岡貴利が目に飛び込んだ。
同門の先輩。
卒業のとき、平岡先輩は周防凛の天賦の才に驚き、七度も声をかけてくれた。うちへ来い、と。
それなのに彼女は恋に溺れ、西原司だけを追い続けた。自分を見失い、生活さえ崩した。
一方で平岡貴利は着実に昇り、平岡グループを国際舞台へ押し上げていた。
加速度を増す技術の波に触れ、周防凛の胸の奥で火がつく。
――あのとき、先輩の誘いを受けていたら。今の私は、違っていたのだろうか。
余計な思考を振り払い、画面を閉じた。
ロック画面は、西原司と西原景冶のツーショット。
西原司は冷淡で、周防凛を嫌っている。嫌いすぎて、まともな家族写真すら一枚もない。
同じフレームに収まることを、彼は拒んだ。
周防凛は虚ろな目でそれを見つめ、震える指で初期化を選ぶ。
続けて写真フォルダを開き、家族アルバムを一枚ずつ削除した。
十年前、高校の制服姿の西原司を盗撮した写真まで、まとめて。
きれいさっぱり消し終え、スマホを放り投げる。
胸のどこかが、やっと息をした気がした。
そのまま、深い眠りに落ちる。
◇
翌朝、西原景冶は目を覚まして周防凛がいないことに気づき、家の中を探し回った。
朝はいつも、お母さんが洗面も着替えも手伝ってくれる。そういうものだと、もう身体が覚えている。
西原司が「出張だ」と告げると、西原景冶はむっと頬を膨らませた。
「お母さん、電話くれてない」
ほんの少し、胸がちくりとする。
出張中でも、朝昼晩と必ず電話が来た。うるさい、しつこい、といつも思っていたのに。
来ないとなると、不満になる。
だが西原司が「美晴おばさんのところへ行くか」と言った途端、機嫌はころりと直った。
にこにこと笑って、朝食を口に運ぶ。
周防凛は久しぶりにぐっすり眠り、目覚めた瞬間だけ、ぽっかり穴が空いたような感覚に襲われた。
まだ、ひとりの生活に身体が追いついていないのだろう。
洗面を済ませ、軽く朝食を取り、服を選ぶ。
いつも通りの時間に家を出て、会社へ向かった。
辞表は提出した。だが承認も手続きも、引き継ぎも必要だ。
人事部へ書類を届けに行こうとしたとき、部屋の中から刺々しい声が漏れてきた。
「朝からさ、人事の人が言ってたよ。周防凛、また退職騒ぎだって」
平井の声。
小村が鼻で笑う。
「誰もが知ってるでしょ。周防凛って西原様に貢いでる女だもん。ちょっと騒いで、数日後には泣きついて戻ってくるだけ」
平井が苛立ったように続けた。
「ほんと、あのぶりっ子ムカつく。毎日ちまちま小細工して、気持ち悪い」
「そもそも周防グループのお嬢様が、わざわざ秘書やってる時点で目的バレバレだよね」
「でも西原様って「お茶」判定うまいからさ。あんなの近づけないの最高」
周防凛の目が冷える。
ドアノブを握る手に力が入り、手の甲に血管が浮いた。
扉を開ける。
コツ、コツ――ヒールが床を打つ音。
平井と小村は一瞬黙った。だが、視線にこびりついた侮蔑は隠しもしない。
誰もが知っていた。
周防凛が西原景冶に取り入れようとして、社内で底まで落ちた扱いを受けていたことを。下の警備員にさえ舐められていたことを。
周防凛は書類を所定の場所に置き、二人の前へ歩み寄る。
「私の退職申請は、規定通りに処理してください」
「後任も急いで手配を。待てる時間は多くありません」
言い捨てて踵を返すと、背後で平井がわざとらしく笑った。
「へぇ~」
周防凛は足を止め、振り返る。
「就業時間中に悪意ある流言で業務秩序を乱した場合、社内規定により年末賞与の査定対象になります」
冷えた視線を小村にも向けた。
「今の発言と態度は、そのまま管理部へ報告します」
平井が顔色を変えて噛みつく。
「周防凛、誰がデマ流したって? 証拠あんの?」
小村も醜く口元を歪めた。
「ここ誰も見てないし。あんたが私たちを陥れたんでしょ。ボーナス減るのはあんたよ」
周防凛はスマホを取り出し、録音を再生する。
次の瞬間、部屋に響いたのは――さっきまでの会話、そのまま。
平井と小村の顔が、みるみる青ざめていく。
周防凛は背筋を伸ばし、顎をわずかに上げた。
「あなたたちの中傷は、私の名誉を著しく傷つけました。訴える権利は留保します」
それだけ言い残し、周防凛は迷いなく部屋を出た。
残された二人は顔を見合わせる。
周防凛が、前みたいにおどおどしていない。
けれど平井はすぐ鼻で笑った。
「どうせまた、西原様の気を引きたいだけでしょ」
小村も大きく頷く。
「そうそう。あんな役立たずが何できるの」
