第2話
黒瀬蓮が何か言いかけた、その瞬間。
スマホの着信音が鳴った。
取り出した画面に表示された名前――美玲。
黒瀬蓮が通話を繋ぐ。向こうが何か言った途端、彼の顔色がさっと変わった。
「分かった」
通話を切ると、彼は一度だけこちらを見る。
「話は、帰ってからだ」
そう言い捨て、振り向きもしないで出ていった。
背中を見送りながら、私は不思議なくらい落ち着いていた。
黒瀬蓮という男には、長所がいくつもある。背が高い。顔もいい。仕事も成功している。
けれど欠点も、同じくらいはっきりしていた。
自尊心が高くて、自分勝手で、私の感情も努力も、当たり前みたいに踏みにじる。
前は――期待していたから、耐えられた。
見下されても、疎まれても、いつかは、と。
でも今は違う。もう、折れない。
私は一度くらい、自分のために生きる。
……
その夜、荷物をまとめて家を出た。
夜風が冷たく、いつの間にか雨まで降っていた。
顔を上げて瞬きをすると、雨粒が頬を叩き、骨の髄まで冷えていく。
七年前、ここへ来た時もスーツケースひとつ。
そして七年後、出ていく今も――結局スーツケースひとつ。
配車アプリは、いくら待っても誰も取ってくれない。
親友の藤崎杏奈の家に辿り着いた頃には、全身びしょ濡れだった。
藤崎杏奈は目を丸くし、私を勢いよく引っ張り込む。
「ちょっと……! なに、どうしたのよ!」
離婚の話をすると、彼女は長い沈黙のあと、目に赤みを滲ませた。
「黒瀬蓮って本当に最低……! 子ども産んで、家のこと全部やって、それでその扱い?」
そう言って、彼女は私の手をぎゅっと握る。
「黒瀬律は? 律の親権はどうなるの?」
私は視線を落とした。
「……あの子は黒瀬蓮のほうに行くよ」
「そんなの、納得できない! あなた、難産で死にかけたんだよ? 黒瀬蓮は仕事ばっかりで、育てたのはずっとあなただったじゃない。なんであいつのところなの!」
「……律が、私と来たがらないの」
苦く笑ってしまう。
「今のあの子の中にいるのは、美玲さんだけ」
藤崎杏奈は唇を尖らせる。
「子どもなんて一時の気の迷いよ。でも母子なのは事実でしょ」
その言葉に、私は返せなかった。
……そう、なのかな。
律を看ていた日々が、ふいに蘇る。
先天性の心疾患。食事も生活リズムも、全部私が管理して、神経を尖らせていた。
律は私の胸にくっついて、「ママ、すき」って言ってくれていたのに。
その時、また着信音が鳴った。
黒瀬律。
画面を見た瞬間、心臓がひゅっと縮む。
私が家にいないことに気づいて――心配してくれた?
通話ボタンを押す。
「律、こんな時間まで起きてるの?」
「今ね、美玲さんのところ!」
弾む声。
「美玲邸、すっごいよ! おいしいもの、いっぱいあるんだ!」
心が、底まで沈んだ。
「……そう。律、さっきパパと美玲さんが話してるの、聞いちゃったの」
律は急に真面目な声になる。
「美玲さん、泣いてた。ママが嫉妬しておかしくなってるって」
「それから、作品もね。ママが美玲さんのを真似したって。賞を取ったのは、美玲さんが自分でデザインしたからだって」
私はスマホを強く握りしめた。
「律はどう思う? ママが誰かを陥れると思う?」
数秒の沈黙。
「……ママさ、美玲さんってすごいじゃん」
子どもらしい、苛立ちの混じった声。
「ママは毎日、家にいて、僕とパパのごはん作ってるだけでしょ? ジュエリーのデザインなんて、できるわけないじゃん」
「お願いだから、美玲さんに意地悪しないでよ」
――意地悪?
鈍い刃で心臓を抉られたみたいだった。
やっぱり黒瀬蓮の子だ。
選ぶ時は、同じ選び方をする。
言いたかった。
私はかつて、才能あるジュエリーデザイナーだった。
けれど喉の奥で言葉が潰れて、出てこない。
六歳の子に説明したところで、何になる。
律はもう決めている。
レゴをくれる美玲さんが「いい人」で、厳しい母親が「悪い人」。
「律……体、大事にしてね。先生にも言われてるでしょ。外のものは食べちゃだめ。夜更かしもだめ。それに――」
「分かった分かった!」
途中で遮られる。
「ママっていつもそう! うるさい! しつこい! 美玲さんはそんなこと言わない!」
ぷつり、と切れた。
ツーツーという音が、やけに長く耳に残る。
……うるさい、のか。
そうかもしれない。
でも、もうすぐ。
そう言われる機会すら、なくなる。
藤崎杏奈が恐る恐る聞く。
「律、なんて?」
私は首を振った。喉が詰まって、声が出ない。
しばらくして、胸の痛みが少しだけ引いた頃。
「杏奈……私、またデザインをやりたい」
藤崎杏奈の目がぱっと輝く。
「それよ! 本当ならとっくにそうすべきだった。あなたが国際賞取った時、審査員がなんて言ったか覚えてる? 『デザイン界の星辰』って――あなたが結婚してなかったら、今ごろ――」
途中で言葉を止め、気まずそうに口を閉じる。
私は笑った。自嘲が混じる。
「……かもね。でも道を選んだのは私。誰のせいにもできない」
律を産んでから、私は仕事を手放した。
七年の結婚がくれたのは、消耗だけ。
その時、銀行の通知が届いた。
【口座末尾8876 取引制限がかかりました。窓口へお越しください】
数秒見つめて、私は思わず笑ってしまった。
藤崎杏奈が眉をひそめる。
「なに? どうしたの?」
「黒瀬蓮……カード止めた」
藤崎杏奈が目を剥く。
「は? なにそれ!」
「簡単よ。『考え直して戻って来い』ってこと」
経済を断てば、私が大人しく従うとでも思っているんだろう。
「あり得ない……! あなたを何だと思ってるのよ!」
何だと思ってるんだろう。
私にも分からない。
「いいの。どうせ、彼のお金なんて使うつもりなかったし」
私は手がある。
この手で、かつて世界を驚かせた。
今でも――描ける。
翌日、落ち着いた頃、藤崎杏奈が私の顔色をうかがいながら言った。
「明日、週末でしょ。ごはん行かない? 市内に新しいフレンチができたの。評判いいんだって」
私は頷いた。
……
翌晩、私たちはそのフレンチレストランへ行った。
案内され、予約席に腰を下ろした――その瞬間。
聞き覚えのある声が、耳に刺さる。
「金賞、おめでとう」
黒瀬蓮。
全身が強張り、ゆっくり振り向く。
少し離れた席に、黒瀬蓮と黒瀬律、美玲、そして彼女の友人たちがいた。
テーブルには洒落た料理。中央にはケーキ。
そこには「美玲、優勝おめでとう」と書かれている。
三人並ぶ姿は、本物の家族みたいだった。
律が蟹を頬張りながら、口の中いっぱいのまま言う。
「やっぱ美玲さんが一番! ママはこういうの食べさせてくれないんだ!」
美玲が笑って尋ねる。
「じゃあ律は、私とママ、どっちが好き?」
「もちろん美玲さん!」
即答。
それから、ふっと小さく俯く。
「美玲さんがママだったらよかったのに」
美玲は何も言わず、黒瀬蓮を見た。
「黒瀬蓮も、そう思う?」
男は少しの沈黙のあと、冷たい声で答えた。
「……ああ」
胸が針金で締め上げられたみたいに痛くて、唇から血の気が引いていく。
たぶん、私の視線が熱すぎたのだろう。
黒瀬蓮が、こちらを見た。
