私が去った日

私が去った日

バラへの愛 · 連載中 · 273.5k 文字

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紹介

七年間、私は完璧な妻を演じ続けてきた。

けれど最後に彼が選んだのは、私ではなく、彼の初恋の女性だった。

夫は、私の心を深く傷つけただけではない。あの女が私の大切なジュエリーデザインを盗むことを許し、さらには実の息子までも操って、私を「怪物」だと思わせた。

嘘で塗り固められた結婚生活の中で、私は少しずつ自分を失っていった。

息が詰まるような日々。愛されていると思い込んでいた時間。すべてが偽りだった。

けれど、彼らはひとつだけ間違えた。

私を、もう戻れないところまで追い詰めたこと。

私が去ると決めたあの日。

私は、最低な夫も、母親への感謝を忘れた息子も、そして彼らによって壊された過去の自分も、すべて置き去りにした。

親友の支え。そして、私の本当の価値を見抜き、才能を認めてくれたある若き実業家との出会い。

その温かな手によって、私はもう一度、自分自身を取り戻した。

失った誇りを取り戻し、眠っていた才能を開花させ、世界へ羽ばたくデザイナーとして新たな人生を歩み始めた。

今、私の作品は世界の舞台で輝いている。

一方で、かつて私を捨てた男は、跪いて許しを乞う。

「戻ってきてくれ」と。

けれど、もう遅い。

私が去ったあの日こそが、私が本当の自分を取り戻した日。

もう二度と、過去には戻らない。

チャプター 1

別荘のリビングで、私はテレビに映る“自分のデザイン”を見ていた。

「白石美玲さん、本年度ジュエリーデザイン大賞の優勝おめでとうございます! 授賞者として黒瀬グループ社長、黒瀬蓮様にご登壇いただきます!」

カメラがステージ脇へ振れる。

黒いスーツを纏った黒瀬蓮は、松の木のようにまっすぐな背を伸ばして歩み出た。トロフィーを、美玲の手へ。

いつもは冷えたままのその顔に、珍しく薄い笑みが浮かぶ。

続いて、小さなスーツ姿の男の子が、ひまわりの花束を抱えて駆け上がった。

「黒瀬律!」

美玲はしゃがみ込み、律ごと花束を抱きしめる。頬にちゅっとキスを落とし、

「ありがとう、ベイビー!」

記者たちのフラッシュが、質問と一緒に狂ったように瞬いた。

「黒瀬様、美玲さんの作品は圧巻でした。授賞者としてのご感想は?」

「この『スターライトキス』は恋愛が着想源だとか。美玲さん、ぜひお聞かせください」

「わあ、かわいい! 美玲さんにそっくり!」

「まるで三人家族ですね!」

――そう。画面の中では、たしかに“家族”に見える。

口角を上げようとしたのに、笑えなかった。

今日は、私と黒瀬蓮の結婚記念日。

そして、本来なら私が立つはずだった授賞式の日。

『スターライトキス』。

三か月かけて、十七回も描き直して、ようやく完成形に辿り着いた。

なのに原稿は、美玲がこぼした一杯のコーヒーで台無しになった。

そして、その成果物は――私の夫と、私の息子が“彼女に渡す”と決めた。

美玲はそれをなぞるように「原稿」を描き直して、堂々と審査へ。

金賞。拍手喝采。

白石美玲は黒瀬蓮の初恋だった。

当時、二人は結婚寸前までいったと聞いている。

けれど七年前、黒瀬蓮は誰かに嵌められ、薬を盛られた。

そのホテルでアルバイトをしていた私は、事故みたいに彼の部屋へ踏み込んでしまった。

翌朝――名門御曹司がホテルで密会。

ゴシップ好きの記者が面白がって、ネットへ投下した。

記事を見た美玲は、傷ついた顔のまま、翌日には海外へ飛んだ。

黒瀬蓮は追いかけようとしたらしい。

だが黒瀬家の両親は、世論の火消しと会社の株価維持のため、私との結婚を強引に進めた。

本当は私だって、黒瀬蓮に嫁ぐ気なんてなかった。

妊娠が分かった時も、私はきっぱり言った。

責任はいりません。子どもは下ろします、と。

それでも黒瀬蓮の母親は頑として首を縦に振らず、さらに――

私が黒瀬家の支援で大学へ行けたことを盾にした。

私は孤児だ。

進学できたのは彼らの援助のおかげ。

恩を返すために――私は結婚を選んだ。

結婚後、私は仕事を捨て、家に入った。

黒瀬蓮と子どもを支えることだけを、生きがいにして。

一方の黒瀬蓮は、あの夜薬を盛ったのは私だと思い込んでいた。

私との結婚も、私の策略だと。

だから結婚してからずっと、冷たかった。

それでも私は信じていた。

諦めずに優しくし続ければ、いつか彼は私を受け入れてくれる、と。

――白石美玲が帰ってくるまでは。

三か月前、彼女は帰国し、黒瀬蓮に告げた。

癌なの。余命は長くない。死ぬ前の願いは、あなたのそばにいたい――と。

黒瀬蓮が断るわけがない。

それからの黒瀬蓮は、彼女のそばにつきっきりになり、私に言った。

「これは君が美玲に返すべきものだ」

「妻の座は手に入れただろ。これ以上望むな」

「俺は看病してるだけだ。不倫じゃない。大人になれ」

――不倫じゃない?

じゃあ、彼が彼女に注ぐ全部は何なんだ。

七年前の夜、私だって被害者だったのに。

悲しんだ。怒った。

でも無駄だった。

美玲は棘みたいに、私の結婚に刺さったまま抜けない。

そしていつしか――

半分命を削って産んだ息子まで、彼女へ引き寄せられていった。

もう疲れた。本当に。

私はテレビを消し、部屋へ戻ろうとした。

その時、玄関が開く。

黒瀬蓮が黒瀬律の手を引いて入ってきた。

親子で同じような濃色のコートを着ていて、大小の複製品みたいだった。

「ママ!」

律が駆け寄ってくる。

「テレビ見た? 美玲さん、優勝したんだ! あのネックレス、すっごくきれい!」

涙を堪え、私は笑顔の形だけ作る。

「見たよ。律、今日は楽しかった?」

「楽しかった!」

目をきらきらさせて言う。

「美玲さんがアイス食べさせてくれたし、最新のレゴも買ってくれた! パパも一緒だった!」

そして、見上げてくる。

「ママ、まさか怒ってないよね? 美玲さん、あと一年しかないんだよ? 怒るなんて心が狭すぎるよ!」

胸が針で刺されたみたいに痛む。

それでも私は、ただ言った。

「お医者さんに言われたでしょ。心臓に負担がかかるから、冷たいものは控えなきゃ」

律の顔が、途端にむくれる。

「またそれ! ママはいつもダメダメ言う! 美玲さんはそんなこと言わないし、一緒に食べてくれる!」

赤く滲む目を伏せて、私は答える。

「それは……あなたの体の責任を負わなくていいからよ」

「たまにくらい平気だろ。神経質すぎる」

低い声で黒瀬蓮が割って入った。

――またこれだ。

私が厳しくすると、彼はいつも“丸く収める”。

私が大げさで意地悪な母親で、彼が理解ある父親みたいに。

律は舌を出して、階段を駆け上がっていった。

急に静かになる。

私は顔を上げ、目の前の男を見た。

背は高く、肩幅が広く、腰は細い。

彫りの深い顔立ちに、冷たい気品。

簡単に触れられない――そんな雰囲気。

瞬きを一つ。

「黒瀬蓮。今日が何の日か、覚えてる?」

彼はようやくリビングの飾りに気づき、目に一瞬だけ驚きが走る。

だがすぐに平坦へ戻った。

「悪い。会社で立て込んでたし、律の授賞式にも付き添った」

私は、ふっと笑う。

「授賞式? それ、私の授賞式だったのに。美玲が国際ジュエリーコンテストの金賞を取れたのは、私の作品を盗んだからよ」

「盗んだ? 白石紗月、まだそんな嘘を言うのか」

淡々とした声。目には薄い軽蔑。

「君のデザイン画を美玲に渡した時、彼女が言った。君のは、彼女が以前描いた案とほとんど同じだってな」

「つまり盗作したのは君のほうだ。美玲が今の評価を得たのは実力だ」

「……俺も馬鹿だった。君にデザインを手伝わせようなんて」

「俺に養われてる専業主婦が、ジュエリーなんて作れるわけないだろ」

――養われてる専業主婦。

彼の中の私は、そういう存在なのか。

下唇を噛み、笑いそうになってしまう。

怒りすぎて、むしろ可笑しい。

「黒瀬蓮。あなたは美玲の“元の原稿”を見たの? 私が盗作したって、彼女が言っただけで信じるの?」

「七年間、家にいて、デザインの才能なんて見せたことがない」

「美玲は帰国前からそこそこ名のあるデザイナーだ」

「君と彼女、俺はどっちを信じるべきだ?」

冷えた声。距離のある言い方。

……分かった。

結局、心底から見下してる。

拳を握りしめたまま、もう争う気が消えた。

私は――この夫が、もう要らない。

七年握りしめても温まらない石ころ。

持っていて何になる?

「黒瀬蓮、離婚しましょう。美玲の世話がしたいんでしょ。別れれば堂々と一緒にいられる」

「……何?」

いつも澄ました瞳に、はっきりとした動揺が走った。

「ふざけるな」

唇を引き結び、不機嫌そうに言う。

「白石紗月、君は仕事もない。俺を離れてどうやって生きる」

「私がどう生きるか、あなたには関係ない」

私は目を逸らさない。

「離婚協議書は送る。届いたらすぐサインして」

立ち上がる。

「律はどうする。まだ六歳だ」

背中に、黒瀬蓮の重い視線が刺さる。

「律は美玲が好きなんでしょ。ちょうどいいじゃない。“家族三人”で仲良く暮らせば」

私は俯いたまま、振り返らなかった。

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*****

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