紹介
けれど最後に彼が選んだのは、私ではなく、彼の初恋の女性だった。
夫は、私の心を深く傷つけただけではない。あの女が私の大切なジュエリーデザインを盗むことを許し、さらには実の息子までも操って、私を「怪物」だと思わせた。
嘘で塗り固められた結婚生活の中で、私は少しずつ自分を失っていった。
息が詰まるような日々。愛されていると思い込んでいた時間。すべてが偽りだった。
けれど、彼らはひとつだけ間違えた。
私を、もう戻れないところまで追い詰めたこと。
私が去ると決めたあの日。
私は、最低な夫も、母親への感謝を忘れた息子も、そして彼らによって壊された過去の自分も、すべて置き去りにした。
親友の支え。そして、私の本当の価値を見抜き、才能を認めてくれたある若き実業家との出会い。
その温かな手によって、私はもう一度、自分自身を取り戻した。
失った誇りを取り戻し、眠っていた才能を開花させ、世界へ羽ばたくデザイナーとして新たな人生を歩み始めた。
今、私の作品は世界の舞台で輝いている。
一方で、かつて私を捨てた男は、跪いて許しを乞う。
「戻ってきてくれ」と。
けれど、もう遅い。
私が去ったあの日こそが、私が本当の自分を取り戻した日。
もう二度と、過去には戻らない。
チャプター 1
別荘のリビングで、私はテレビに映る“自分のデザイン”を見ていた。
「白石美玲さん、本年度ジュエリーデザイン大賞の優勝おめでとうございます! 授賞者として黒瀬グループ社長、黒瀬蓮様にご登壇いただきます!」
カメラがステージ脇へ振れる。
黒いスーツを纏った黒瀬蓮は、松の木のようにまっすぐな背を伸ばして歩み出た。トロフィーを、美玲の手へ。
いつもは冷えたままのその顔に、珍しく薄い笑みが浮かぶ。
続いて、小さなスーツ姿の男の子が、ひまわりの花束を抱えて駆け上がった。
「黒瀬律!」
美玲はしゃがみ込み、律ごと花束を抱きしめる。頬にちゅっとキスを落とし、
「ありがとう、ベイビー!」
記者たちのフラッシュが、質問と一緒に狂ったように瞬いた。
「黒瀬様、美玲さんの作品は圧巻でした。授賞者としてのご感想は?」
「この『スターライトキス』は恋愛が着想源だとか。美玲さん、ぜひお聞かせください」
「わあ、かわいい! 美玲さんにそっくり!」
「まるで三人家族ですね!」
――そう。画面の中では、たしかに“家族”に見える。
口角を上げようとしたのに、笑えなかった。
今日は、私と黒瀬蓮の結婚記念日。
そして、本来なら私が立つはずだった授賞式の日。
『スターライトキス』。
三か月かけて、十七回も描き直して、ようやく完成形に辿り着いた。
なのに原稿は、美玲がこぼした一杯のコーヒーで台無しになった。
そして、その成果物は――私の夫と、私の息子が“彼女に渡す”と決めた。
美玲はそれをなぞるように「原稿」を描き直して、堂々と審査へ。
金賞。拍手喝采。
白石美玲は黒瀬蓮の初恋だった。
当時、二人は結婚寸前までいったと聞いている。
けれど七年前、黒瀬蓮は誰かに嵌められ、薬を盛られた。
そのホテルでアルバイトをしていた私は、事故みたいに彼の部屋へ踏み込んでしまった。
翌朝――名門御曹司がホテルで密会。
ゴシップ好きの記者が面白がって、ネットへ投下した。
記事を見た美玲は、傷ついた顔のまま、翌日には海外へ飛んだ。
黒瀬蓮は追いかけようとしたらしい。
だが黒瀬家の両親は、世論の火消しと会社の株価維持のため、私との結婚を強引に進めた。
本当は私だって、黒瀬蓮に嫁ぐ気なんてなかった。
妊娠が分かった時も、私はきっぱり言った。
責任はいりません。子どもは下ろします、と。
それでも黒瀬蓮の母親は頑として首を縦に振らず、さらに――
私が黒瀬家の支援で大学へ行けたことを盾にした。
私は孤児だ。
進学できたのは彼らの援助のおかげ。
恩を返すために――私は結婚を選んだ。
結婚後、私は仕事を捨て、家に入った。
黒瀬蓮と子どもを支えることだけを、生きがいにして。
一方の黒瀬蓮は、あの夜薬を盛ったのは私だと思い込んでいた。
私との結婚も、私の策略だと。
だから結婚してからずっと、冷たかった。
それでも私は信じていた。
諦めずに優しくし続ければ、いつか彼は私を受け入れてくれる、と。
――白石美玲が帰ってくるまでは。
三か月前、彼女は帰国し、黒瀬蓮に告げた。
癌なの。余命は長くない。死ぬ前の願いは、あなたのそばにいたい――と。
黒瀬蓮が断るわけがない。
それからの黒瀬蓮は、彼女のそばにつきっきりになり、私に言った。
「これは君が美玲に返すべきものだ」
「妻の座は手に入れただろ。これ以上望むな」
「俺は看病してるだけだ。不倫じゃない。大人になれ」
――不倫じゃない?
じゃあ、彼が彼女に注ぐ全部は何なんだ。
七年前の夜、私だって被害者だったのに。
悲しんだ。怒った。
でも無駄だった。
美玲は棘みたいに、私の結婚に刺さったまま抜けない。
そしていつしか――
半分命を削って産んだ息子まで、彼女へ引き寄せられていった。
もう疲れた。本当に。
私はテレビを消し、部屋へ戻ろうとした。
その時、玄関が開く。
黒瀬蓮が黒瀬律の手を引いて入ってきた。
親子で同じような濃色のコートを着ていて、大小の複製品みたいだった。
「ママ!」
律が駆け寄ってくる。
「テレビ見た? 美玲さん、優勝したんだ! あのネックレス、すっごくきれい!」
涙を堪え、私は笑顔の形だけ作る。
「見たよ。律、今日は楽しかった?」
「楽しかった!」
目をきらきらさせて言う。
「美玲さんがアイス食べさせてくれたし、最新のレゴも買ってくれた! パパも一緒だった!」
そして、見上げてくる。
「ママ、まさか怒ってないよね? 美玲さん、あと一年しかないんだよ? 怒るなんて心が狭すぎるよ!」
胸が針で刺されたみたいに痛む。
それでも私は、ただ言った。
「お医者さんに言われたでしょ。心臓に負担がかかるから、冷たいものは控えなきゃ」
律の顔が、途端にむくれる。
「またそれ! ママはいつもダメダメ言う! 美玲さんはそんなこと言わないし、一緒に食べてくれる!」
赤く滲む目を伏せて、私は答える。
「それは……あなたの体の責任を負わなくていいからよ」
「たまにくらい平気だろ。神経質すぎる」
低い声で黒瀬蓮が割って入った。
――またこれだ。
私が厳しくすると、彼はいつも“丸く収める”。
私が大げさで意地悪な母親で、彼が理解ある父親みたいに。
律は舌を出して、階段を駆け上がっていった。
急に静かになる。
私は顔を上げ、目の前の男を見た。
背は高く、肩幅が広く、腰は細い。
彫りの深い顔立ちに、冷たい気品。
簡単に触れられない――そんな雰囲気。
瞬きを一つ。
「黒瀬蓮。今日が何の日か、覚えてる?」
彼はようやくリビングの飾りに気づき、目に一瞬だけ驚きが走る。
だがすぐに平坦へ戻った。
「悪い。会社で立て込んでたし、律の授賞式にも付き添った」
私は、ふっと笑う。
「授賞式? それ、私の授賞式だったのに。美玲が国際ジュエリーコンテストの金賞を取れたのは、私の作品を盗んだからよ」
「盗んだ? 白石紗月、まだそんな嘘を言うのか」
淡々とした声。目には薄い軽蔑。
「君のデザイン画を美玲に渡した時、彼女が言った。君のは、彼女が以前描いた案とほとんど同じだってな」
「つまり盗作したのは君のほうだ。美玲が今の評価を得たのは実力だ」
「……俺も馬鹿だった。君にデザインを手伝わせようなんて」
「俺に養われてる専業主婦が、ジュエリーなんて作れるわけないだろ」
――養われてる専業主婦。
彼の中の私は、そういう存在なのか。
下唇を噛み、笑いそうになってしまう。
怒りすぎて、むしろ可笑しい。
「黒瀬蓮。あなたは美玲の“元の原稿”を見たの? 私が盗作したって、彼女が言っただけで信じるの?」
「七年間、家にいて、デザインの才能なんて見せたことがない」
「美玲は帰国前からそこそこ名のあるデザイナーだ」
「君と彼女、俺はどっちを信じるべきだ?」
冷えた声。距離のある言い方。
……分かった。
結局、心底から見下してる。
拳を握りしめたまま、もう争う気が消えた。
私は――この夫が、もう要らない。
七年握りしめても温まらない石ころ。
持っていて何になる?
「黒瀬蓮、離婚しましょう。美玲の世話がしたいんでしょ。別れれば堂々と一緒にいられる」
「……何?」
いつも澄ました瞳に、はっきりとした動揺が走った。
「ふざけるな」
唇を引き結び、不機嫌そうに言う。
「白石紗月、君は仕事もない。俺を離れてどうやって生きる」
「私がどう生きるか、あなたには関係ない」
私は目を逸らさない。
「離婚協議書は送る。届いたらすぐサインして」
立ち上がる。
「律はどうする。まだ六歳だ」
背中に、黒瀬蓮の重い視線が刺さる。
「律は美玲が好きなんでしょ。ちょうどいいじゃない。“家族三人”で仲良く暮らせば」
私は俯いたまま、振り返らなかった。
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私が選ぶのは、私自身だ。
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「一生、逃がさないからな」
殺意に満ちた目で、彼はそう言った。
なのに、なぜか僕には、彼の心が深い悲しみに満ちているようにしか見えなかった。
私が去った日
けれど最後に彼が選んだのは、私ではなく、彼の初恋の女性だった。
夫は、私の心を深く傷つけただけではない。あの女が私の大切なジュエリーデザインを盗むことを許し、さらには実の息子までも操って、私を「怪物」だと思わせた。
嘘で塗り固められた結婚生活の中で、私は少しずつ自分を失っていった。
息が詰まるような日々。愛されていると思い込んでいた時間。すべてが偽りだった。
けれど、彼らはひとつだけ間違えた。
私を、もう戻れないところまで追い詰めたこと。
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私は、最低な夫も、母親への感謝を忘れた息子も、そして彼らによって壊された過去の自分も、すべて置き去りにした。
親友の支え。そして、私の本当の価値を見抜き、才能を認めてくれたある若き実業家との出会い。
その温かな手によって、私はもう一度、自分自身を取り戻した。
失った誇りを取り戻し、眠っていた才能を開花させ、世界へ羽ばたくデザイナーとして新たな人生を歩み始めた。
今、私の作品は世界の舞台で輝いている。
一方で、かつて私を捨てた男は、跪いて許しを乞う。
「戻ってきてくれ」と。
けれど、もう遅い。
私が去ったあの日こそが、私が本当の自分を取り戻した日。
もう二度と、過去には戻らない。
夫と息子に捨てられた私は、幸福という名の檻を抜け出すことにした
しかし現実の結婚生活は、私を泥のような惨めな境遇へと引きずり落とした。
夫と息子にとって、私は愛人の飼い犬にさえ劣る存在でしかなかったのだ。
離婚届に淡々と署名する二人の姿を前に、私の心は不思議と静まり返った。
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