第3話
黒瀬蓮は私を見るなり、ぱちりと瞬きをして、それから一気に眉をひそめた。
黒瀬律だけが目を輝かせる。
「ママもここでごはん食べてたんだ!」
喉がきゅっと詰まり、私は無理やり口角を上げた。
「じゃあママも一緒に食べようよ! パパ、美玲さんにケーキまで頼んだんだ!」
美玲が私を見る。瞳の奥に、ひとすじの嫉みが走った。
「黒瀬律、だめよ。ママはお友だちと食事してるの」
そう言いながら、目の光だけを隠して近づいてくる。
「白石紗月、奇遇ね」
私は彼女を見返したまま、黙っていた。
美玲は困ったように眉を下げる。
「誤解しないで。黒瀬蓮と黒瀬律は、ただ私のお祝いに来てくれただけなの。私は止めたのよ? でも黒瀬蓮がどうしてもって……」
さらに、懐かしむような声音で続けた。
「それにしても、彼って本当にイベントを大事にする人よね。昔、私と付き合ってた頃は、どの祝日も必ずプレゼントとサプライズがあったもの」
「あなたもそう思うでしょ? 結婚して何年も経ってても、きっとあなたにも――」
笑いが込み上げて、喉の奥で押し殺す。
愛しているか、いないか。こんなにも分かりやすいのに。
黒瀬蓮が私にサプライズを用意したことなんて、一度もない。
離れる選択は、やっぱり間違っていなかった。
私は唇の端だけを引き上げる。
「それ、何年前の話? 美玲」
「過去ばかり持ち出すのは、今のあなたに『病気』と『可哀想』以外、彼の気を引くものがないから?」
美玲の顔が一瞬で強張り、次の瞬間には泣きそうな表情を貼りつけた。
「白石紗月……どうしてそんな言い方……。もしかして……金賞のこと、まだ怒ってるの?」
その言葉で、拳にぐっと力が入った。
横から高木直哉が、たしなめるように口を挟む。
「まあまあ。美玲は体調が悪いんだし、黒瀬蓮が面倒を見るのは当然だろ。それに賞を取ったのは実力だ。君は専業主婦――」
言い切る前に、藤崎杏奈が噛みついた。
「専業主婦がどうしたのよ! 白石紗月が結婚前どんな人だったか、あなた――」
私は杏奈を制して、首を横に振る。
説明する価値なんて、ない。
すると美玲の友人たちが、面白がるように続ける。
「でもさ、言い方は乱暴でも当たってるよね」
「女って一回専業になると社会と切れちゃうのよ。毎日キッチンと子どもだけで、見識も能力も育たない」
「美玲は違う。病気でも創作を続けて、こんな大きな賞まで取った。これが“自立した女性”の見本よ」
わざと黒瀬蓮へ視線を向け、媚びた声で言った。
「そう思いません? 美玲みたいに才能があって強い女性こそ、尊敬されるべきです」
「家で夫に養われてるだけの人なんて――悪く言えば、運良く『黒瀬奥さん』の肩書きを手に入れただけ。自分の力じゃ、この店の扉すらくぐれないでしょ?」
空気がすっと冷え、テーブルが静まり返った。
私は黒瀬蓮を見た。
否定してくれるのを待った。せめて眉をひそめるくらいは、と。
……何もない。
黒瀬蓮は無言で皿のステーキを切り分け、美玲の前へ置いただけだった。
――やっぱり。
私がどれだけ傷つけられても、どうでもいい。
冷たい笑いが漏れ、私は美玲へ視線を移す。
「あなた、価値や能力の捉え方がずいぶん狭いのね」
一語ずつ、丁寧に落とした。
「家を整えて、外で戦う夫が背後を気にせずにいられる。それは“努力”じゃないの?」
「それとも、壇上に立って、他人のデザインで拍手をもらうことだけが“自立”?」
美玲の瞳が揺れる。
「……っ、何を言ってるの? あれは私がデザインしたのよ!」
「私が嘘を言ってるかどうか。分かってる人は分かってる」
私は彼女から目を逸らし、黒瀬蓮へ歩み寄った。
「黒瀬蓮。黒瀬律、蟹を一匹まるごと食べた。蟹は体を冷やす。あの子の体じゃ耐えられない」
「まだ父親だと言うなら、甘やかさないで」
黒瀬蓮の顔が冷え、言い返そうとした、その瞬間。
「やだ! 僕、蟹食べる!」
黒瀬律が声を荒らげた。
「ママ、うるさくない? パパが大変な思いして稼いでて、美玲さんが大きい賞もらって、みんなで楽しく食べてるのに、ママだけダメダメ!」
「ママは何もできないし、何も分かってないくせに、空気悪くするだけ!」
黒瀬蓮にそっくりな目に、露骨な嫌悪が浮かんでいた。
心臓を、ぎゅうっと握り潰されるみたいだった。
生まれたばかりの頃。
あんなに小さくて、柔らかくて、私の腕の中で子猫みたいに丸まっていたのに。
私は夜通し眠らず、熱が出ないか、苦しくないか、呼吸が止まらないかと見張っていた。
先天性心疾患だと告げられた夜、私は一晩泣いた。
そこから私の人生は二つだけになった。
この子を守ること。健康を祈ること。
その私に、「何もできない」と言う。
藤崎杏奈の顔が、ようやく腑に落ちたみたいに歪んだ。
――これで離婚しないほうがおかしい。そう言いたげに。
杏奈が口を開きかけた時、美玲がワインのグラスを手に近づいてくる。
「白石紗月、怒らないで。黒瀬律はまだ小さいの、分からないだけよ」
声だけは、やけに優しい。
「一杯どう? 代わりに私が謝るから」
次の瞬間――美玲が、わざとらしく身体を反らせて後ろへ倒れた。
がしゃん、とグラスが床に叩きつけられ、割れる。
倒れた拍子に、彼女の掌がちょうど破片へ押しつけられた。
「美玲!」
黒瀬蓮の顔色が変わり、駆け寄る。
美玲は涙を溜めた目で私を見上げた。
「白石紗月……どうして、私を突き飛ばすの……?」
私は眉を寄せる。
「この店、監視カメラがあるわ。そんな稚拙な芝居で私を陥れようとするの、滑稽だと思わない?」
言い切る前に、黒瀬蓮が低い声で遮った。
「白石紗月」
見上げた瞳には、今まで見たことのない怒りが渦を巻いていた。
「君はただのわがままだと思ってた。まさかここまで悪質だとはな」
「言っておく。美玲に何かあったら、俺は君を許さない」
そう言い捨て、美玲を抱き上げると、大股で店を出て行く。
背中と、美玲の勝ち誇った視線。
心が凍りつき、ひび割れていくのが分かった。
監視カメラを確認することすらしないで、私を有罪にした。
――これが、七年愛して、七年待った男。
黒瀬律も慌てて追いかける。
すれ違いざま、私を思いきり突き飛ばした。
「ママなんて嫌い! 死んじゃえ! もう二度と好きにならない!」
ぱたぱたと遠ざかる足音。
私はその場に立ち尽くした。
何も聞こえない。
ただ、あの一言だけが耳の奥で反響する。
――死んじゃえ。
……ふふ。
目を閉じ、そして開く。
視界だけが、妙に澄んでいた。
私はスマホを取り出し、ある番号へ電話をかける。
「もしもし。デザインコンテストの運営ですか。美玲の作品が剽窃だと、実名で告発します」
