第4話
「はい、承知しました。お嬢様、関連する証拠をお持ちのうえ、運営委員会の事務局までお越しください」
デザインコンテストの運営スタッフは、私の告発にすぐ返答してきた。
「今から伺います」
伏し目がちにそう告げ、通話を切る。藤崎杏奈と並んで、運営委員会の所在地へ急いだ。
……
一日中動き回り、家に戻った頃にはすっかり夜だった。
キッチンに入って夕飯の支度を始めた、その時。スマホが鳴った。家の使用人、田村誠からだ。
「律様のお薬が、もう何日も途切れております」
受話口から聞こえてきた声は焦りを含んでいた。
「その薬は坊っちゃまのお身体にとって大切なものです。長く飲まれないと、再発の恐れが……」
「え……?」
握っていたヘラが止まる。
「黒瀬蓮は、薬を続けるように言わなかったの?」
「旦那様が……」
田村誠は小さく息をつき、何があったのかを順を追って話し始めた。
昨夜、黒瀬蓮と黒瀬律は病院で美玲に付き添い、そのまま朝まで過ごしたらしい。今日になってようやく疲れ切った様子で帰宅し、玄関先で田村誠が薬の件を報告した。
「薬?」
黒瀬蓮はネクタイを緩める手を止め、しばらく考えてから、以前は毎朝欠かさず飲ませていた薬のことを思い出したようだった。
「そんなに大事なら、今すぐ律の薬を煎じてくれ」
そう言い残し、寝室へ向かおうとしたという。
だが田村誠が告げた。あの処方は、私が名医に頭を下げてようやく譲ってもらったもの。煎じる途中で薬材を段階ごとに加える必要があり、順番を間違えれば意味がない。私は毎日、明け方の4時過ぎに起きて自分の手で煎じていた。田村誠は手順を知らない。
「蓮様は、それを聞いて一瞬迷われたんです」
電話越しの田村誠が言う。
「ですが、律様がソファに座ったまま、ぶっきらぼうに……」
『ママって、そういう意味ないことばっかするんだよね』
黒瀬律は腕を組み、不機嫌そうに吐き捨てたらしい。
『その薬、もう何年も飲んでるのに全然よくならないじゃん。美玲さんが友だちに頼んで買ってくれた薬のほうが効くし。数回飲んだだけで、体が軽くなったもん』
田村誠の声が、さらに小さくなる。
「それを聞いた旦那様は、迷いが消えたようでした。律様が嫌がるなら、奥様が用意されていた薬は中止にしろ、と……。私もお止めしたかったのですが、ちょうど旦那様の携帯が鳴りまして」
一拍おいて、田村誠が続ける。
「美玲様からのお電話でした。美玲様は泣きながら、白石紗月様が実名で運営委員会に『作品の盗用』を告発した、運営が調査に入ると言っている、と……。それから……白石紗月様は嫉妬心が強すぎて、旦那様と律様に悪影響が出るのが心配だ、とも……」
スマホを握る指に、力がこもった。
「旦那様はそれを聞いた瞬間、顔色が変わりました」
田村誠の声は、やりきれなさに満ちている。
「すぐ奥様に連絡して、告発を取り下げさせろ。皆の前で美玲様に謝罪させろ、と……。奥様、どうかお気をつけください」
「教えてくれてありがとう、田村誠」
私は深く息を吸った。
「律の薬は止めちゃだめ。あの子の病気は長い調整が必要なの。急に止めたら危ない」
「処方と煎じ方の手順、あなたに送る。指示どおりにやって。必ず、律に飲ませて」
「かしこまりました、黒瀬夫人。必ず」
電話を切ってからも、私はしばらくキッチンに立ち尽くし、窓の外を見ていた。
七年。
私があの家に注いだものは、黒瀬蓮と黒瀬律にとって――「意味のないこと」だったのだ。
私は向き直り、もう一度ヘラを握る。
考えるのは後。
まずは夕飯を作ろう。藤崎杏奈が待っている。
……
翌朝。
起きて間もない時間、私はキッチンで藤崎杏奈と自分の朝食を作っていた。
スマホの画面がふっと明るくなる。
黒瀬蓮。
発信者名を見た途端、心臓がひゅっと跳ね、指先が誤って熱い鍋の縁に触れた。
「っ……!」
鋭い痛みに思わず息を吸い込み、その痛みが逆に私を冷静にした。
唇を噛み、指を冷水に浸しながら通話を取る。
「運営委員会の責任者に言え。美玲はお前の作品を盗用していない」
「お前が告発したのは、美玲の才能に嫉妬したからだ」
次の瞬間、黒瀬蓮の声が流れ込む。
氷みたいに冷たく、断定的で、こちらの事情など初めから考慮する気もない声音だった。
「白石紗月。美玲は体が弱い。少しは分別を持て」
私はただ、自分の権利を守ろうとしているだけなのに。
冷水から指を上げ、ふう、と息を吹きかける。跡は残っていない。なのに痛い。涙がにじむほどに。
「告発は取り下げない」
しばらくして、私は自分の声が驚くほど淡々としているのに気づいた。
「美玲は、盗用したのは私だって言ってるんでしょ。なら、証拠を出して自分の潔白を証明すればいい」
「白石紗月、お前はどこまで自分勝手なんだ……」
黒瀬蓮は、従順だった私がここまで言うとは思っていなかったのだろう。受話口の向こうで鼻を鳴らし、いつものように叱りつけようとする。
けれど、もう譲らない。
美玲のために引くことも、ない。
「――っ」
言い終わる前に、私は通話を切った。指をもう一度冷水に沈める。
「……痛い」
小さく漏れた声と一緒に、溜め込んでいた涙がついに落ちた。
その時、腕をそっと押さえられる。
藤崎杏奈が片手で私の手首を支え、もう片方で、やけに年寄りじみた優しさで私の頭を撫でた。
「ほら、泣くな。白石紗月。あんたには私がいる」
続けて、きっぱり言う。
「手稿、全部プリントした。全部、日付入り」
「それから、あんたが昔いろんな大会に出た時の映像とデザイン画も集めた。あれだけあれば、美玲の受賞作があんたの作風そのものだって十分証明できる」
「白石紗月。絶対に、美玲に代償を払わせよう」
……泣いてる場合じゃない。
こんな状況でも支えてくれる友だちがいる。それなのに、何が悲しくて泣くの。
涙を拭って笑い、私は振り向いて藤崎杏奈を力いっぱい抱きしめた。
「藤崎杏奈、ありがとう!」
「バカ。あんたと私の間で、今さら何言ってんの」
藤崎杏奈は軽く私を叩き、もう少し何か言おうとした、その時。
彼女のスマホがぶる、と震えた。
画面を見た瞬間、藤崎杏奈の顔色がさっと変わる。
「……美玲、ほんとに最低」
