第6話
黒瀬律が……誰かと喧嘩して、しかも入院した?
私ははっと目を見開き、身体が勝手に強張った。
自分の身から生まれた子だ。たとえもう、黒瀬律を美玲に譲ると決めていたとしても――入院という言葉を聞いた瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
「佐藤先生、きちんと説明していただけますか」
深呼吸を何度も繰り返して、ようやく感情を押し込める。
私は声を落として尋ねた。
「黒瀬律は普段おとなしい子です。どうして急に、同級生と喧嘩なんて……それに、どうして入院まで」
『そこまで大事になったのは……黒瀬律くんのせい、というより……』
佐藤先生は気まずそうに咳払いをしてから、言葉を続けた。
『最近、ネットであなたに関する良くない記事が出ているでしょう。園で、それを真似してあなたの悪口を言う子がいて……黒瀬律くんが怒って、発作を起こしてしまったんです』
――私のことで。
佐藤先生は慌てたように付け足した。
『黒瀬律くんのお母さま、ご安心ください。園としても、必ず納得のいく対応をいたします』
『黒瀬律くんが登園できるようになったら、喧嘩になったお子さんに、クラスの前で反省の言葉を言わせて、きちんと謝罪させますから』
黒瀬律が……私のために、他の子と揉めた?
じゃあ、まだ私のことを――母親として、少しは。
心臓がどくん、と強く跳ねた。佐藤先生がそのあと何を言っていたのか、ほとんど頭に入らない。私は曖昧に返事をして通話を切り、いちばん早いルートで病院へ向かった。
……
黒瀬律の病室の前に着いた瞬間、扉の中から出てきた黒瀬蓮に行く手を塞がれた。
「……ここへ何しに来た」
黒瀬蓮は冷たい目で私を見下ろした。声も、視線の奥も、薄い責めで濁っている。
「帰れ。お前のせいで黒瀬律は園で恥をかいた。本人も言ってた。お前には会いたくないって」
私のせいで、恥をかいた?
私を叩くために工作なんてしなければ、とっくに私の名前はトレンドから消えていたのに。
それでもこの人は、いつだって当然のように全部を私に押しつける。
私は黒瀬蓮を無視して鞄から書類袋を取り出し、彼の隣に立つ男性医師へ差し出した。
「主治医の先生でいらっしゃいますか。私は黒瀬律の母です。来る前に、これまでの病歴と、私がつけていた看護記録を持ってきました」
医師が受け取るのを見届けて、私は淡々と続ける。
「発作の時刻、毎日の服薬量と薬の種類、食事の禁忌、生活リズム……まとめています。今後の治療の参考になれば」
医師の目が驚きに丸くなり、すぐに感心へ変わった。
「看護記録を? これは助かります。医師側の確認の手間も減りますし、何より患児の負担が軽くなる」
「黒瀬律くんのお母さん、立派ですよ。最近、ここまで責任感を持って動ける保護者は……正直、なかなかいません」
医師はちらりと黒瀬蓮へ目を向けた。
「お父さまも心配されているのは分かります。ただ、アレルゲンや普段の薬の把握までは十分ではないようで……失礼ですが、ご家庭では主にお母さまが生活面を見ていらしたのでは」
私は黒瀬蓮を一度だけ見上げた。
すると黒瀬蓮も、こちらを見ていた。複雑な目だった。まるで――今さら、私の良さに気づいたみたいに。
……この人は、私が黒瀬律の世話にどれだけ神経を削ってきたのか、知らなかったのだろうか。
「分担していました」私は表情を崩さず答える。「夫は勉強面、私は生活面です。夫も、父親としてはきちんとしています」
言い終えた瞬間、背後から、嘲るような笑いが落ちてきた。
「へえ。先生に褒められても、素直に受け取れないんだ。やっぱり、やましいから?」
「……美玲?」
振り向いた私は、思わず眉を寄せる。
「あなた、どうしてここに」
「黒瀬律のお見舞いよ。本人から電話で呼ばれたの」
美玲は私をまるで空気みたいに追い越し、黒瀬蓮の隣へ行くと、親しげに腕を絡めた。
「黒瀬蓮、黒瀬律は大丈夫?」
「電話の時計で連絡が来たの。白石紗月が嫉妬して、私が盗作したって言いふらしてるせいで、それが園の子たちの耳にも入ったって」
美玲は嘆くふりで、肩をすくめる。
「今、クラスの子たちが『悪い子の子ども』って言って遊んでくれないんだって。黒瀬律も言ってた。白石紗月って恥ずかしい、もう母親でいてほしくないって」
「はぁ……私がもっと平凡なら、白石紗月も嫉妬なんてしなかったのかもしれないのに」
そのとき、病室の扉が勢いよく開いた。
「美玲さん! 来てくれたんだね!」
顔色の悪い黒瀬律が飛び出してきた。私のほうは一度も見ないまま、まっすぐ美玲の胸に飛び込む。
「……っ」
医師が眉をひそめた。さっきまでの賞賛が、目に見えるほど冷えていく。
私は指先が震えるのを抑えながら、黒瀬律を見つめた。
「黒瀬律……ママ、ここにいるよ。こっちにおいで」
「やだ!」
黒瀬律は美玲にしがみついたまま、私を見上げる。その目にあるのは――露骨な嫌悪。
「なんで来たの? 早くネットで美玲さんに謝ってよ! そうじゃなきゃ一生許さない!」
「悪い女! 大嫌い!」
……大嫌い。
美玲と黒瀬蓮が言っていたことは、本当だったのか。
黒瀬律が喧嘩したのは、私の悪口を言われたからじゃない。私のせいで、自分が恥をかいたから。
拳を握りしめたまま、ふっと理解してしまった。
――悲しみより先に、心が死ぬ感覚。
「私は、何も間違ってない。美玲に謝るつもりもない」
声が、自分でも驚くほど静かだった。
「黒瀬律。もし本当に、私を母親にしたくないなら……私はあなたの父親と離婚する」
言い切って、私はその場を離れた。背中に何かが刺さっても、振り返らない。
背後から、子どもじみた声が追いすがる。
「ちょっと言われたくらいで怒るの? 最近ほんと心が狭い!」
続いて、嘲るような声。
「ふん。仕事もない専業主婦が、パパと離婚なんてできっこないくせに!」
