第3章
由樹視点
全身の血が凍りついたかのように、強烈な目眩が襲ってきた。私は咄嗟に傍らのハンガーラックを掴む。きつく握りしめた指の関節が、白く浮き上がっていた。
いつの間にか近寄ってきた政也が、私の腕を支える。
「顔色が悪いぞ。どうした?」
「朝食を抜いたから、低血糖みたい」
無理やり唇の端を持ち上げて、笑顔を作った。
すると、妃菜が横からふわりと軽い調子で口を挟む。
「由樹さん、体の管理が甘いんじゃない? 女たるもの、自分のことくらい自分で世話しなきゃ。何でもかんでも男の人に頼るのは良くないわよ」
政也の表情が曇り、声が冷たく沈んだ。
「妃菜、言葉を慎め」
彼女は肩をすくめただけで、その笑みは崩れない。だが、瞳の奥には勝ち誇ったような光が一瞬走った。
「お手洗いに行ってくるわ」
私は彼の手を振りほどいた。
ドアを開けると、洗面台に寄りかかって待ち構えていた妃菜と目が合う。先ほどまでの「愛想の良い女主人」の仮面は剥がれ落ち、そこには獲物を品定めする捕食者の余裕だけがあった。
「由樹さん、お互い賢いんだから、お芝居はやめましょうよ」
彼女はウェットティッシュを取り出し、指先をゆっくりと拭う。
「私が政也さんに子供を産んだ意味、わかるでしょう? 小岩井家が何より重んじるもの、それは『血筋』よ。彼が急な仕事で呼び出される本当の理由、考えたことない? 私が『子供がパパに会いたがってる』って一言伝えれば、どんな重要な会議だってキャンセルして飛んでくるの」
彼女は言葉を切り、口角を吊り上げた。
「賭けてもいいわ。そろそろ彼の携帯が鳴る頃よ」
まるで呪いをかけられたかのようだ。五分もしないうちに、政也は本当に私にこう告げた。
「由樹、すまない。会社で急なトラブルが発生した。すぐに行かないといけない。運転手に送らせるから、先に帰っていてくれ」
申し訳なさそうな声音だが、その裏にある焦燥感は隠しきれていない。
「わかったわ。行ってらっしゃい」
私の声は、ひどく平坦だった。
彼が去った後、妃菜は私に向かって片目を瞑ってみせた。
「ほらね」
◇
屋敷に戻ると、私はバスルームに鍵をかけて閉じこもり、冷たいタイルの床に座り込んだ。スマホが震える。……妃菜からだ。動画が送られてきた。
画面の中、クリーム色のソファに彼女が座っている。向かいには政也。ベビーサークルの中では赤ん坊が遊び、楽しげな声を上げていた。
「ねえ政也、もうすぐあの子の誕生日でしょう?」
甘えるような猫なで声。
「プレゼントにあのクルーザーが欲しいな。あの子を船に乗せて、世界中の海を見せてあげたいの」
政也は少し沈黙してから答えた。
「あの船は、由樹の名を冠している。それは駄目だ」
心臓が鷲掴みにされたように痛む。……彼は、断ってくれた。
だが、妃菜は笑っていた。何でもないことのように。
「名前なんて、書き換えればいいじゃない。そうね、たとえば……」
一拍置いて、彼女の声がふっと軽くなる。
「子供を産む相手だって、別の誰かに代えてもいいのと同じように」
息を呑んで、彼の反応を待つ。否定してくれるはずだ。
「……わかったよ」
政也は眉間を揉みながら、疲労と妥協に満ちた声で言った。
「手配させておく」
指の間からスマホが滑り落ち、タイルに乾いた音を立ててぶつかった。私は口元を手で覆い、込み上げる嗚咽を必死で喉の奥へと押し込んだ。あのクルーザーは、満座の客の前で彼が誓ってくれた約束の証だった。『君を連れて、世界のあらゆる海を見に行こう』。その言葉がまだ耳に残っているのに、彼は私の名前さえ簡単に塗り潰し、別の女に捧げようとしている。
◇
その夜、ベッドに入っても寝返りを打つばかりで眠れなかった。午前二時、寝室のドアが静かに開く。上着を脱いだ政也が隣に滑り込み、背後から腕を回して私を抱き寄せた。けれど、私の頬はすでに涙で濡れそぼっていた。
「由樹?」
異変に気づいた彼の声が強張る。
「泣いているのか?」
「怖い夢を見たの」
彼の胸に顔を埋め、聞き取れるかどうかの掠れた声で呟く。
「あなたが浮気をする夢」
彼の方の体が一瞬、明らかに硬直した。すぐに抱きしめる力を強め、私の頭に顎を乗せる。祈るような、あるいは誓うような断固とした口調で彼は言った。
「あり得ない。たとえ世界中の男が心変わりしたとしても、俺、小岩井政也だけは絶対にない。君は俺の命なんだ。君なしでは生きていけない」
闇の中、私は目を見開いたまま、音もなく涙を流し続けた。
あなたの命。……そうね。でもその命は、二つに切り分けられて養われているのよ。
鼻をすすり、泣き止んだ後の嗄れた声で言う。
「そういえば、明日はE市へ出張に行くわ」
彼は私の髪に口づけを落とした。
「運転手に送らせようか?」
「いいえ、そう遠くないもの。一人で運転したい気分なの。気晴らしにね」
彼はそれ以上強くは言わず、ただ私をより一層強く抱きしめた。
これが、彼の腕の中で眠る最後の日となった。
◇
翌朝、家を出る前に私は彼へプレゼントの箱を手渡した。
「結婚記念日の贈り物よ。お願い、あの日が来るまでは開けないで」
彼の口元に笑みが浮かび、瞳が嬉しそうに輝く。
「君はいつだってそうだ。いつも思いがけないサプライズをくれる」
私も笑い返した。ええ、サプライズよ。箱を開けたその日、彼は知ることになる。中に入っているのが何なのかを。――妊娠検査の結果報告書と、一台のスマートフォン。そこには妃菜が長年にわたって私に送りつけてきた写真、動画、そして診療記録の全てが保存されている。
私はサングラスをかけ、真っ赤なスポーツカーのエンジンを吹かした。屋敷の門を抜ける瞬間、バックミラーには一度も目を向けなかった。
政也視点
それから三時間後、私は妃菜と子供を連れて小岩井家の本邸に戻っていた。
母が最近、孫に会いたいと口うるさく言うようになったからだ。仕方なく連れてくるしかなかった。
父と母が幼子を取り囲んでいる。母は目を赤くし、震える手で赤ん坊の頬を撫でていた。
「妃菜さん」
母は彼女の手を固く握りしめ、声を詰まらせる。
「小岩井家の跡取りを産んでくれて、本当にありがとう。本音を言えばね、私、最初からあなたが一番のお気に入りだったのよ」
私はアームチェアに深く腰掛け、無意識のうちに左手の薬指にある結婚指輪を回していた。
唇が動いたが、結局言葉にはならなかった。
ここ数日、由樹の様子がおかしかった。口数が減り、笑顔も薄れ、私を見る眼差しにはいつも読み取れない感情が混じっていた。
もし、由樹との間に子供がいればどれほど良かっただろう。正真正銘、私たち二人の子供だ。彼女の瞳を受け継ぎ、彼女のように笑う子供が。
不意に、携帯電話が鳴り響いた。
「小岩井様でしょうか。奥様の小岩井由樹様が今朝、I―95号線で深刻な交通事故に遭われました。激しい衝突の末に車両が炎上、爆発し、現場は完全に焼き尽くされております――現時点では、生存の痕跡は確認できておりません」
その瞬間、私の意識は真っ白に染まった。次いで、胸の奥で何かが破裂し、素手で心臓を抉り取られたかのような激痛が走る。
「な……何を、言っているんだ?」
