第4章
「政也?」
背後から妃菜の声がした。彼女は歩み寄り、俺の腕に絡みつこうとする。
「どうしたの? 顔色が悪いわよ……」
俺は力任せにその腕を振り払った。あまりの勢いに、彼女は無様に地面へ倒れ込む。驚愕に見開かれた瞳を無視し、俺は目の前の障害物をすべて突き飛ばしてガレージへと走った。エンジンをかけ、アクセルを床まで踏み抜く。
ありえない。ありえない。ありえない。
脳内でその三文字が、絶望的な呪詛のように狂った反響を繰り返す。
I-95号線。通常なら四十分かかる道のりを、二十分とかからずに走破した。
遠くに見えてきたのは、規制線で囲まれた一帯だ。消防車、パトカー。赤と青の回転灯が、暮色の中で狂ったように明滅している。
俺は転がるように駆け寄った。膝を地面に強く打ち付けたが、痛みなど感じない。
目の前にあったのは、ひしゃげた金属の残骸だった。炎に喰らい尽くされ、黒焦げの骨組みだけになった無残な姿。だが、あのナンバープレートには見覚えがある。俺が彼女に贈った車だ。
「旦那さん、入っちゃいけません!」
制止しようとする警官の手を振りほどき、残骸へと飛びかかる。素手で熱を帯びた破片をかき分けた。鋭利な金属の縁が掌を切り裂き、滴る鮮血が指の隙間から灰へと混じり合っていく。
痛みはない。ただ彼女を見つけたかった。髪の一房でも、衣服の切れ端でもいい。彼女が存在したという証明が欲しかった。
どれほど掘り返しただろうか。指先に、冷たく硬い感触が触れた。震える手でそれを灰の中から掴み出す。
――指輪だ。
プラチナのリングは高温で煤けていたが、内側の刻印はまだ読み取れた。『由樹 & 政也』。俺がこの手で彼女にはめた、結婚指輪だ。
その瞬間、世界が崩れ落ちた。
俺は瓦礫の中で膝をつき、指輪を掌に強く握りしめた。拳が白くなるほど力を込める。予兆もなく溢れ出した涙は、血のように熱かった。
「由樹……」
喉から絞り出したその名は、人語とは思えないほど掠れていた。俺は指輪を胸に押し当てた。まるで、まだ彼女を抱きしめられるかのように。
「社長、お気を確かに……」
背後から佐藤が恐る恐る声をかけてくる。
「黙れ」
立ち上がり、彼を睨みつける。今の俺はきっと、悪鬼羅刹のような形相をしているに違いない。
「彼女は死んでいない」
佐藤は口を開きかけたが、言葉を呑み込んだ。
「由樹が死ぬわけがない!」
俺は咆哮した。
「あいつが俺を置いていくはずがないんだ!」
周囲の喧騒が止んだ。警官も、消防士も、俺の部下たちも、全員が同じ目で俺を見ていた。憐憫。まるで狂人を見る目だ。
ああ、俺は狂ってしまったのかもしれない。
屋敷に戻ると、俺は寝室に鍵をかけ、カーテンを隙間なく閉ざした。部屋は死のような闇に沈んだ。
ベッドの縁に背を預け、床に座り込む。膝を抱えて胸に押し当てた姿は、まるで捨て子のようだっただろう。
佐藤が何度もドアをノックし、使用人たちが交代で食事を運んできたが、俺は一切答えなかった。食わず、飲まず、眠らず、ただ闇の中で彼女の最期の姿を何度も反芻し続けた。
二日、三日……時間の感覚が曖昧になっていく。
ふと、視線がナイトテーブルの上に吸い寄せられた。そこに静かに置かれたギフトボックス。彼女が出かける直前、俺に手渡したものだ。『結婚記念日のプレゼントよ。約束して、あの日まで開けないって』
包装を破り、蓋を開けた瞬間、俺は凍りついた。
一番上にあったのは一枚の報告書。「妊娠検査」という見出し。データは鮮明だった。十週。
由樹は妊娠していた。俺の子を宿していたのだ。
手が激しく震え出す。もし俺があと一年待てたら。もし俺があんなに急がなければ。もし――。
箱の底には、古いスマートフォンが入っていた。電源を入れると画面が光り、未読メッセージが画面を埋め尽くす。すべて妃菜からだ。写真、動画、文字。その一つ一つが、刃となって目に突き刺さる。
由樹は、すべて知っていたのだ。
あの日、俺の腕の中で「浮気される夢を見た」と泣いていた彼女。あれは悪夢などではなかった。彼女がその目で見た現実だったのだ。それなのに俺は彼女を抱きしめ、こう誓った。「たとえ全男が変心しようとも、俺、小岩井政也だけは絶対に裏切らない」と。
なんという皮肉だ。
俺は部屋を飛び出し、妃菜のマンションへと直行した。ドアが開いた瞬間、彼女の手首を掴んでリビングへ引きずり込む。
「なぜバラした? 一体何が目的だ!」
妃菜は俺の剣幕に怯え、よろめいた。
「政也、気が狂ったの――」
乾いた音が響く。俺の平手打ちが彼女の頬を捉えたのだ。彼女は呆然とし、頬を押さえて信じられないという顔で俺を見た。
だが次の瞬間、彼女は笑った。ヒステリックな狂気を孕んだ笑い声。
「私を責める資格があるの? 私を孕ませたのは誰! 一緒に帝国を築いたのは誰! クルーズ船を私と子供に贈ると言ったのは、あんたじゃない!」
彼女は俺の顔を指差し、涙を流しながら金切り声を上げた。
「彼女が死んだのは、あんたのせいよ! あんたが殺したの!」
氷水を浴びせられたようだった。
彼女の言う通りだ。由樹が死んだのは妃菜のせいじゃない。俺のせいだ。俺がこの手で、彼女を深淵へと突き落としたのだ。
よろめき、背中が壁にぶつかる。全身の力が抜け落ちていく。
長い沈黙の後、俺はふいに笑った。その笑い声は空虚な部屋に反響し、まるで泣き声のように聞こえた。
「違う……」
俺は呟いた。
「あいつは死んでない」
上体を起こす。瞳の奥に、暗く濁った光が宿るのを感じた。
由樹は賢い女だ。誰よりも忍耐強い。彼女が死を選ぶはずがない。
これは逃亡だ。俺から逃れるための狂言だ。彼女はきっとどこかに潜んでいる。俺の手の届かない場所に。
俺は電話をかけた。
「佐藤。総員招集だ。金に糸目はつけない。ここ一週間で由樹と接触した人間を、一人残らず洗い出せ」
「社長、それは……」
「彼女は生きている」
俺は掌にある、あの黒く煤けた指輪を見つめた。口端が、冷酷で陰惨な弧を描く。
「必ず見つけ出す。たとえ世界の裏側までひっくり返してでもな」
