第3章
控室の扉が、乱暴に押し開かれた。一瞬にして室内の空気が張り詰め、気温が十度も急降下したかのような寒気が走る。
入ってきたのは三人の男たちだ。ホテルの警備員ではないことは一目瞭然だった。仕立ての良いスーツも、その脇の下にあるホルスターの輪郭までは隠しきれていない。
「谷口の奥さんはどいつだ」
リーダー格の男が言った。砂利がコンクリートを削るような、荒々しい声だった。
父が一歩進み出て、胸を張る。
「私は平原賢也だ。君たちは一体何者だ? 我々は今、家族の問題を処理して――」
「殴られた娘だがな」
男は父を無視して言葉を被せた。
「名は、夏目朱音という」
父の顔から血の気が引いた。まるで死人のようだ。
颯斗までもが硬直している。
この街で、裏社会に通じていなくとも『夏目』という姓の重みを知らぬ者はいない。
夏目圭也――港湾利権、労働組合、そして政治家の半数を掌握する男。
朱音は、その実の妹なのだ。
「ご……誤解です」
颯斗が不安げに弁明する。
男の視線が一同を舐めるように動き、かやに止まった。彼女は悲鳴を上げ、クッションに身を縮こまらせる。
やがて、その目が私に向けられた。
ソファに横たわり、虚ろな目をしている私に。
「加害者を連行する。夏目のドンが話を聞きたいそうだ」
母は躊躇わなかった。一秒たりとも。
手入れの行き届いた指先が、真っ直ぐに私を指す。
「あの子よ」震えながらも、その声は大きかった。
「あの子、綾羽よ。狂ってるのはあの子。あのかわいそうな娘さんを襲ったのは綾羽なんです。私たちはちょうど……彼女を叱りつけていたところで」
私は母を見つめた。その言葉に傷つくかと思ったが、何も感じなかった。
かつて心臓が動いていた場所には、ただ空虚な響きが残るだけ。
「綾羽……?」颯斗が低い声で呼ぶ。
私は夫の方を見た。彼は私の目を見ようともせず、後ずさりしてかやを庇うように寄り添った。
彼は、私が連れ去られるのを容認したのだ。
「立て」
男が命じ、私の腕を掴んでソファから引きずり起こす。
足に力が入らないが、男はお構いなしだ。そのままドアの方へと引きずられていく。かやの横を通り過ぎる時、彼女は指の隙間からこちらを覗き見ていた。その目は乾いている。
「ごめんなさい、綾羽お姉ちゃん」
彼女は男たちに聞こえるよう、大声ですすり泣いてみせた。
「止めようとしたのに。傷つけちゃ駄目って言ったのに、どうしていつもそんなに暴力的なの?」
結束バンドが手首に食い込む。冷たいプラスチックが、熱を持った皮膚を締め付けた。
私は黒塗りのSUVの後部座席に押し込まれた。窓には濃いスモークフィルムが貼られている。
街の灯りが彗星のように飛び去り、滲んだ光の帯となる。
冷たいガラスに頭を預け、瞼を閉じた。
いっそ殺してくれればいい。そうすれば楽になれるかもしれない。
到着したのは、古びた鉄錆と高級葉巻の匂いが充満する改装された倉庫だった。
私は回廊を歩かされた。
脇の部屋では誰かが鉄パイプで殴打されていた。酷い有様だ。私はそのまま廊下の突き当たりにある、薄暗く広いオフィスへと押し込まれた。
巨大なマホガニーのデスクの向こうに、黒曜石を削り出して作ったような堕天使が座っていた。
夏目圭也。
彼はすぐには顔を上げない。
白い布で拳銃を拭っている。ゆっくりと、リズムを刻むような動作だが、そこには圧倒的な威圧感があった。
「度胸があるのか」
彼は言った。低く、危険な響きを帯びた声だ。
「それとも馬鹿なのか。朱音に手を出してタダで済む奴はいねえ」
ようやく彼が顔を上げた。
その瞳は漆黒で、理知的で、捕食者のように鋭い。
視線が私の乱れた髪、こめかみの痣、そして今にも崩れ落ちそうな立ち姿を捉える。
彼は眉を顰めた。
「お前が妹を殴ったのか?」
彼は問う。
「朱音は訓練を受けている。だがお前は……強風が吹けば折れそうだ。どうやって勝てたというんだ」
何か言おうとした瞬間、激しい咳の発作に襲われた。
胸郭が震え、深層から鋭い痛みが走る。
圭也は私を見つめ、眉間の皺を深くした。デスクの上の固定電話を取り、ダイヤルする。スピーカーフォンだ。
「谷口」圭也が静かに告げる。
「夏目さん」
颯斗の声が部屋に響く。緊張と恐怖に満ちていた。
「申し訳ありません、綾羽のしたことには私たちも衝撃を受けています。弁護士が賠償案を――」
「あんたたちが寄越したこの女だが」
圭也が遮り、私をじっと見据えた。
「喧嘩できるようなタマじゃねえぞ。どう見ても……病人だ」
「騙されないで!」
背景から母の金切り声が聞こえた。
「あの子は病的な嘘つきなんです! 昔から暴力的で、いつも自分の過ちを妹になすりつける。夏目さん、あなたはあの子を知らないだけです。いつも被害者ぶって罰から逃れようとするんです!」
「そうか?」
圭也は背もたれに寄りかかり、手の中のペンを回した。
「ええ!」颯斗が割り込む。
「頭がおかしいんです。少し懲らしめてやってください、お願いします。彼女の不始末はすべて私たちが償いますから」
夫は今、マフィアのボスに私への拷問を許可したのだ。
喉の奥から笑いが込み上げてくる。
ヒステリックで、諦めと絶望に満ちた笑いが。
「彼女は何をしてるんです?」電話越しに颯斗が問う。
「笑ってるな」圭也の表情は読み取れない。
笑い声は乾いた嘔吐(えず)きに変わった。一日中喉の奥に澱んでいた錆の味が、突如として潮のように溢れ出す。
もう抑えきれない。
私は猛然と体を折り曲げ、鮮血を吐き出した。
それは圭也の塵一つないデスクを汚し、彼の白いシャツと、先ほどまで磨いていた拳銃を赤く染め上げた。
部屋が死のような静寂に包まれる。
私は床に崩れ落ち、酸素を求めて喘ぐが、空気は入ってこない。顎を伝った血が高いペルシャ絨毯に滴り落ちていく。
「今の音は何?」スピーカーから母の鋭い声。
圭也は自分の手についた血を見つめていた。
そして、床の上で小さくなって激しく痙攣する私を見て――初めて、その捕食者の仮面が剥がれ落ち、純粋な驚愕が露わになった。
「吐血したぞ」圭也の声が強張る。
「大量にな」
電話の向こうで一瞬の間があった。次いで聞こえてきたのは、疲労と苛立ちを滲ませた颯斗の声だ。
「ああ、騙されないでください、夏目さん。気を引くための演技です。舌を噛んだか、血糊のカプセルでも隠し持っていたんでしょう。その……大根役者は無視してください。ただ責任逃れがしたいだけなんです」
圭也はデスクの上の、凝固し始めた暗赤色の血だまりを見た。
それから電話へと視線を移す。その目は氷のような怒りで細められていた。
「演技、だと?」彼は静かに復唱する。
彼は電話を切った。
ツーツーという音が一度だけ鳴り、部屋は再び静寂に包まれる。私の壊れたような、湿った呼吸音だけを残して。
「医者を呼べ!」
圭也はデスクを飛び越え、部下に向かって怒鳴った。
「今すぐだ!」
