第2章
名取佳奈の胸の奥がまた、糸でじわじわ締めつけられるように痛んだ。中身をごっそり抜かれたみたいに、からっぽで、ただ痛い。
ちょうどそのとき、親友から電話がかかってきた。離婚すると聞いた途端、「今夜は飲め! 潰れるまで!」と怒鳴るように言ってくる。
午後の集まりでは、結局お酒は口にしていない。
名取佳奈は「うん」とだけ答えた。
酔ってしまえば、痛まなくなるかもしれないから。
会員制クラブの廊下は、しん……と静かだった。部屋番号を確認しながら歩いていると、不意に自分の名前が耳に刺さって足が止まる。
「名取佳奈の障害、もう一生治らねぇんだろ? 礼央、まだ離婚しねーの?」
「恩があるって言ったってさ、金は十分渡したじゃん。手十本買えるレベルだろ。なんで自分まで縛るんだよ」
「いま唯が戻ってきたんだし、礼央、名取佳奈は捨てろって!」
酔いの混じった男の声。名取佳奈はすぐに分かった。薄井礼央の友人たちだ。
彼女は思わず個室の扉へ寄り、耳を澄ませた。
こんなふうに言われて、礼央は何て答えるのだろう。
愛されていなくても、彼女は妻だ。夫婦なら――少しくらい、庇ってくれてもいいはずなのに。
けれど、薄井礼央の声は聞こえなかった。
代わりに、須藤唯の甘ったるい声が響く。
「ちょっと、みんな冗談やめてよ。礼央が私のために離婚だなんて……」
「唯、知らねーの? 大学の頃から名取佳奈、礼央狙ってたんだぜ。お前が留学した途端、隙見て入り込んだ」
「手のことを盾にして脅したんだよ。だから礼央も仕方なく結婚したんだって!」
名取佳奈は、身体が固まったまま聞いていた。
数年しか経っていないのに、黒が白になる。
薄井礼央の周りでは、もうそれが事実になっている。
――礼央も、そう思っているの?
いまここに踏み込んで、「離婚しましょう」と言ってやりたい。そう思った、その瞬間。
個室の扉ががらりと開いた。
トイレに出ようとした男が、扉の前に立つ名取佳奈を見てぎょっとする。
賑やかだった部屋が、すん……と静まり返った。
薄井礼央は上座に座っていた。どこか考え込むような表情。さっきの言葉を、真面目に吟味しているみたいに。
名取佳奈の目元が、かっと熱くなる。
泣くまいと堪えた。けれど、何を言えばいいのか分からない。
周囲も彼女がいるとは思っていなかったのだろう。先ほどの暴言を思い出したのか、視線が宙を泳いだ。
短い沈黙のあと、須藤唯が立ち上がる。
「佳奈、久しぶり。入ってよ。大学の話で盛り上がってたの」
さっきまで薄井礼央の隣にいた須藤唯は、赤いシルクのロングドレス。派手で艶やかで、目を奪う。
それに比べて名取佳奈は、パーカーにデニム。白鳥の隣の醜いアヒルの子みたいだった。
「ちょうどあなたの話もしてたの」
須藤唯は名取佳奈のところまで来て、自然な仕草で腕を取ろうとする。まるで昔から親友だったかのように。
――実際は、大学四年間で、まともに言葉を交わした回数なんて片手で足りるのに。
「ねえ、あの頃『白鳥の湖』が一番上手だったでしょ? また弾いてよ」
須藤唯が、名取佳奈の左手をぎゅっと掴んだ。
名取佳奈は中へ入る気なんてない。
断る言葉が喉まで出かけた瞬間、鋭い痛みが走って、思わず息が漏れた。
「っ……!」
力が強い。傷痕のあたりを狙ったみたいに、握り潰される。
名取佳奈は反射的に手を引いた。
外から見れば、須藤唯の手を嫌がって振り払ったようにしか見えない。
須藤唯の表情がたちまち曇る。
「ごめんね」
薄井礼央をちらりと窺い、申し訳なさそうに言う。
「私、佳奈も一緒に遊べたらって思っただけなの」
「佳奈、入らないのか」
薄井礼央がようやく立ち上がった。
名取佳奈を見る目は、いつもの冷淡さに戻っている。
「唯に悪気はないだろ。そんなに拒むことない」
名取佳奈の左手は、まだじんじん痛む。
須藤唯が掴んだのが傷のある左手だと、薄井礼央も見ていたはずだ。
それでも彼は当然のように無視して、須藤唯の気持ちだけを気遣う。
庇うどころか、目の前で別の女を守る。
――自分はいったい、何を期待していたのだろう。
「一曲、弾いてやれ」
薄井礼央は続けた。少し軽い調子で、冗談めかして。
「この前も家で練習してただろ」
その一言で、個室の空気がまた沸き立つ。
「佳奈さん、もう準備してたんすね」
「再デビュー狙いっすか?」
男たちの笑い声。そこには露骨な嘲りが混じっていた。
もちろん薄井礼央は気づかない。刺さるのは名取佳奈だけ。
この数年、彼女はほとんど毎日ピアノに触れていた。
ただし薄井礼央のいない時間に。怪我のあと、自分の音が狂うのを誰にも聞かれたくなかった。
なのに、あの日に限って薄井礼央が突然帰宅し、見られてしまった。
彼は何も言わなかった。気にしていないのだと思っていた。
まさか、こんな場所で持ち出すなんて。
頬も目元も、じりじりと熱い。
「弾きたくない」
皆が笑い終わった頃、名取佳奈は言った。
喉に何か詰まったみたいで、声が思うように出ない。
すると須藤唯がすぐに、泣きそうな顔を作る。
「私が悪かった……佳奈、ごめんね」
声を詰まらせ、可哀想さが溢れ出す。
案の定、周りが一斉に須藤唯の味方をする。
「佳奈さん、唯は軽く言っただけっすよ。怒んないで」
「ほらほら、一杯飲んで丸く収めようぜ」
名取佳奈は薄井礼央を見たいのに、見られない。
夫なら、普段は彼女の小さな感情の揺れだって拾ってくれた――はずなのに。
でも今日は、須藤唯がいる。
だから彼は、彼女を見ない。
皆が取り繕っても、薄井礼央だけが頑なだった。
「佳奈。せっかく集まったんだ、弾け」
名取佳奈ははっと顔を上げる。
目に水が浮かぶ。でも落ちない。長い睫毛が震え、必死に悲しみを押し殺していた。
薄井礼央は気づいたのか、気づかなかったのか。
いま大事なのは、須藤唯の望みだけ。
「行け。大丈夫だ」
近づいてきた薄井礼央は声を落として宥める。
「お前は上手い。みんな何も言わない。俺の顔を立ててくれ、な?」
磁石のように惹きつける低音。
昔はそれだけで、名取佳奈の胸は溶けた。
いまは、鈍い刃で心臓を抉られるみたいだった。
彼らの目的が嘲笑だと分かっているのに、薄井礼央がこう言ってしまえば、どう拒めばいい。
名取佳奈は目を閉じ、底のない絶望に沈む。
「……分かった」
弾かなければ、器が小さい、彼の顔を潰す。
弾いて失敗すれば、自分が恥をかくだけ。
名取佳奈は部屋の隅の電子ピアノの前に座った。
深呼吸して感情を整えようとする。
けれど無駄だ。左手の震えはむしろ激しくなる。
水のような旋律が流れ始めた。
彼女は随分と省略し、なるべく右手だけで弾いた。それでも、左手で和音を重ねた数ヶ所は、どうしても音が濁った。
この場にいるのは声楽科の同級生だ。薄井礼央と一緒に金融を学んだ者も、音には明るい。
だから彼女のミスは、一つ残らず聞き取られる。
最初は静かだった個室に、やがてくすくすと笑いが漏れた。
「礼央、家でも佳奈さんの演奏聞いてんの?」
「耳が可哀想だなぁ」
結婚三年。薄井礼央が彼女の演奏に遭遇したのは、たった一度だけ。
それが彼らの口では、三年分の拷問に変換される。
薄井礼央は――何と言うだろう。
名取佳奈の心が、勝手に持ち上がった。
