私が逃げ出したら、クズ男が狂い出した

私が逃げ出したら、クズ男が狂い出した

月島 ことね · 連載中 · 418.3k 文字

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紹介

かつて左手と引き換えに、夫の命を救った。その手には今も、消えない障害が残っている。
それからの5年間、彼は私に溢れんばかりの富を与えてくれたけれど、ただ「愛」だけは、決してくれなかった。

そして今夜――私は見てしまった。彼が元カノの写真を見つめながら、自らを慰めている姿を。

恩義だけで繋ぎ止められ、身体に傷を負っただけの妻なんて、もうまっぴら。
――さあ、私のすべてを消し去る時間がやってきた。

チャプター 1

半分だけ閉じた寝室の扉。その隙間から、名取佳奈は夫がひとりで慰めているのを見てしまった。

カーテンは引かれ、部屋は薄暗い。だからこそ、薄井礼央の手元で光るスマホの画面が、やけにくっきりと目に刺さった。

映っていたのは――別の女の写真。

彼が愛して、結局手に入れられなかった高嶺の花。

名取佳奈はドアノブに指をかけたまま、彫像みたいに固まっていた。

今日は、自分の誕生日だ。

しかも、海外のルノワール音楽院から採用の招待が届いたばかりで、薄井礼央にこの吉報を伝えたくて、わざわざ早めに帰ってきたのに。

胸は弾み、足取りまで軽かった。

――それなのに。

ぶつかったのは、こんな光景。

頭から冷水を浴びせられたみたいに、浮ついた心が一瞬で現実に引き戻される。

結婚して三年。彼は一度も彼女に触れなかった。そもそも、愛されていない。

ただ――自分を慰めるその瞬間ですら、須藤唯の写真を見ているなんて、そこまでは想像していなかった。

「奥様?」

階段のほうから、使用人の声が飛んできた。

「……あっ」

佳奈はびくりと肩を跳ねさせる。

我に返った彼女は慌ててつま先立ちになり、寝室の前から小走りで離れた。

「今、上がってきたところよ。どうしたの?」

わざと声を張る。

心臓が暴れるみたいに跳ねていた。

寝室の中から、ささ……と布が擦れる音。続いて、扉が開く。

薄井礼央が出てきた。

シャツもスラックスもきっちり整えられ、髪も一本乱れず撫でつけられている。

端正な顔立ちは少し冷たく見えるが、もともと彼はそういう人だ。

――何事もなかったみたいに。

さっきまでの出来事など、影も形もない。

名取佳奈も、暴くことはしなかった。

「今、帰ってきたの」

自分からそう言うと、息が少し上ずる。

「今日は早いんだな。疲れただろう?」

気遣う声。子どもをあやすみたいな優しさ。

三年間、ずっとこの調子だ。

丁寧で、穏やかで、決して声を荒らげない。

夫婦というより、よそよそしい客同士。仮面夫婦――そんな言葉がぴったりだった。

生活費は惜しみなく渡され、ハイブランドの新作は車で次々と届く。三階建ての家の三フロアが、丸ごと彼女の衣装部屋だ。

金の装飾品や宝石も、部屋いっぱいに溢れている。

働かなくていい。家事もしなくていい。ガラス細工みたいに扱われる。

――けれど。

彼は一度も、真正面から彼女を見なかった。彼女が言ったことも、覚えていない。

夫としての「体裁」だけ完璧で、肝心の愛だけがない。

「うん……早く寝ようかな」

平然を装う。なのに心臓は、肋骨を叩くようにどくどく鳴った。

「まだ五時だぞ?」

薄井礼央が太い眉をわずかに上げる。

「友だちと飲んだから、疲れちゃって」

佳奈は階段へ向かった。いまは一秒でも早く、彼の視界から消えたかった。

「部屋で少し横になるね」

背を向けた、そのとき。

「……誕生日おめでとう」

ぽつりと落ちた声に、足が止まる。

薄井礼央の秘書は毎日、スケジュールを送る。だから彼が佳奈の誕生日を忘れることはない。記念日も同じだ。

差し出されたギフトボックス。箔押しのロゴは見慣れている。

開けると、中にはパテック・フィリップのレディース腕時計。それも最上位のモデル。

「ありがとう」

唇の端を無理やり持ち上げて笑う。

「高いプレゼントね」

でも、好きじゃない。

結婚一年目、彼は山ほど贈り物をくれた。時計、ジュエリー。

佳奈は早い段階で、はっきり言っていた。手に着けるものは嫌いだと。

――左手に障害があるから。

そのたびに彼は誠実そうに謝り、別の新しいプレゼントを用意する。

けれど次もまた、同じものを贈ってくる。

彼は彼女の好みを、まるで覚えない。

やがて佳奈も、何も言わなくなった。

「胃、気持ち悪いのか?」

薄井礼央の心配は本物だった。

「キッチンにホットはちみつを作らせるよ」

「いいの」

佳奈は首を振り、また足を進める。

背を向けた瞬間、堪えていた涙が、ぱらぱらと落ちた。

唇を強く噛みしめ、嗚咽を飲み込む。

最初から須藤唯を忘れられないと分かっていたなら――薄井礼央のプロポーズなんて、受けるべきじゃなかった。

大学時代、薄井礼央と須藤唯は誰もが憧れる眩しいカップルだった。

名取佳奈も須藤唯と同じように綺麗で、同じように優秀だったのに、薄井礼央の目には入らなかった。

片思いは胸の奥にしまい込み、最初から叶わない恋だと、贅沢な望みも抱かなかった。

卒業の季節、須藤唯は突然「海外に行く」と告げた。

薄井礼央は、崖から突き落とされるみたいに振られた。

打ち上げの日。彼は一本、また一本と酒をあおり、酒瓶を取る手さえふらつき、勢い余ってウイスキーをカセットコンロにこぼした。

火が、ぼっと立ち上がる。

直後、ガス缶が爆ぜた。

薄井礼央の隣にいた佳奈は、迷いなく手を伸ばして彼を引き離した。

薄井礼央は無傷だった。

佳奈の左手だけが、三度熱傷。筋肉は萎縮していった。

十数回の植皮。低侵襲の手術。地獄みたいなリハビリ……

それでも、彼女の細い指は二度とオクターブを跨げなくなった。

傷ついた神経は指先を永遠に震わせ、黒鍵と白鍵を正確に押すことを許さない。

K大学で最も輝いていたピアノの新星は、そこで墜ちた。

始まったばかりの芸術人生は、根こそぎ壊された。

薄井礼央は深く罪悪感を抱いた。

大金を渡し、最良の医師を探した。けれど、壊れた人生は元に戻らない。だから彼は、できることなら何でもするつもりだった。

佳奈はその隙に、自分の想いを伝えた。

すると薄井礼央は迷わず、彼女と結婚した。

――いま思えば。

名取佳奈は、自分がとてつもなく滑稽だった。

恩を盾にする道化。時間をかければ薄井礼央も自分を愛してくれると、勝手に信じた。

現実は、三年かけて頬を張っただけ。

ソファに身を沈め、佳奈は疲れ切って目を閉じた。

嫌われる結婚を無理に保つより、品よく退場したほうがいい。

薄井礼央と須藤唯を、成就させよう。

スマホが震えた。親友からだ。

――薄井礼央、留学のこと、同意してくれた?

佳奈は迷わず返した。

「同意はいらない」

「離婚するって決めた」

決断したのに、心は軽くならなかった。

脳が勝手に防御機能を起動したみたいに、いま残っているのは麻痺だけ。

目的もなくタイムラインを流していると、見慣れた名前が飛び込んできた。

#バレエ界のトップ・須藤唯帰国! 溺愛社長の夫が直々にお迎え、顔面がアイドル級!#

タップした瞬間、佳奈の胸に小さな期待が灯る。

須藤唯、結婚したの?

――けれど、盗撮写真を見た途端、心が冷え切った。

その「溺愛社長の夫」は、薄井礼央だった。

佳奈は呆然と写真を見つめ、無理やり笑ってみせる。でも涙は止まらない。

写真の中。

薄井礼央は花束を持ち、少し俯いて須藤唯を見ていた。

その顔には、深く、甘いほどの微笑み。

彼が一人っ子じゃなければ、そっくりな別人だと疑ったかもしれない。

冷淡さは消え失せ、眉も目元もやわらかく、唇の端は上がっている。

名取佳奈は、そんな表情を一度も見たことがなかった。

彼女に向けるのはいつも、礼儀正しい冷たさ。会社の顧客に接するみたいな距離感。

彼は元々そういう人だと、佳奈は信じていた。

――違った。

笑えるんだ。優しくなれるんだ。

ただし、それは彼女にじゃない……。

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