第5章 一か月を限りに
車内の沈黙が、じわじわと息苦しいほどに広がっていく。
薄井礼央は一瞬だけ目を見開いた。けれどすぐに、いつもの無表情へ戻る。声も波ひとつ立たない。
「佳奈、たかがそんなことで、離婚まで騒ぐ必要があるのか」
――たかが、そんなこと。
佳奈は喉の奥で小さく嗤った。冗談にしたって悪趣味だ。
これまで何度、冷たい視線と嘲りを浴びせられてきたと思っている。夫である薄井礼央は、そのたびに一言も庇わなかった。辱めを受けても、彼は隣に立ってくれない。守ってくれない。
それでも今さら、「小さなこと」?
なら、薄井礼央の中では――自分の左手が使い物にならなくなったことも、取るに足らない些事なのだろうか。
胸の奥がからっぽになっていく。長年抱えてきた愛情が、滑稽な落語みたいに思えた。自分自身も、舞台の上で必死に笑いを取りに行く道化だ。
自分だけが「これで報われる」と信じて、勝手に感動していただけ。周りから見れば、自分は薄井礼央が幸せへ進むための、ただの躓き石。
――だったら、なぜまだしがみつく。
佳奈は掌をきゅっと握りしめ、荒れそうな感情を押し込める。できるだけ平静に聞こえるように、声を整えた。
「あなたがどう思ってても、私から言うことはないわ。とにかく、離婚が――私たちにとって一番いい」
言いながら、佳奈はバッグから一通の書類を取り出した。ずっと前に用意していた離婚協議書。それを薄井礼央の脇へ、そっと差し出す。
「ここにサインして。そうしたら、もう私たちは赤の他人よ」
彼を庇って、自分は片手を失った。薄井礼央はその後、彼なりに面倒を見てきた。
愛はなかった。けれど――帳尻は合ったのだと思う。これで、もういい。
残る望みはただひとつ。とっくに擦り切れていたこの関係から、一秒でも早く抜け出すこと。
薄井礼央は視線だけを落とし、離婚協議書の文字を確かめた。黒い瞳が、わずかに沈む。
「佳奈、ここまでやる必要があるのか。お前の中じゃ、みんながお前の思い通りに動かなきゃ気が済まないのか?」
その言葉に、濃い苛立ちと恨みが滲んでいた。
ああ、そういうことか。
あのときも。彼が自分と結婚したのは、佳奈が「追い詰めた」からだと思っている。
そして今も。佳奈が離婚を選ぶのさえ、彼には「脅し」に見えるのだ。
違う。これは解放だ。彼を自由にするための――退場。
ここまでしても、まだ不満なの?
佳奈は唇を噛み、次に何を言えばいいのか言葉を探した。その瞬間、薄井礼央が窓を下げ、外に向けて淡々と言った。
「戻るぞ」
運転手がすぐに乗り込み、車は静かに走り出す。
佳奈は窓ガラスに映る薄井礼央の横顔を見つめた。何かを考えているのか、ただ黙っているだけなのか。離婚協議書に目を通すことも、答えをくれることもない。
別荘へ戻ると、薄井礼央は車を降り、そのまま書斎へ向かった。背中は冷たいまま、振り返りもしない。
佳奈はその背を見送りながら、やっと固めた決意が、さらさらと砂みたいに崩れていくのを感じた。
――どういうつもりなの。
離婚したいなら、サインして終わらせればいい。彼にとって自分は邪魔なはずだ。さっさと切り捨てて、須藤唯のところへ行けばいい。
それなのに。
離婚を切り出しても、私は一言の返事すらもらえないの?
佳奈はソファに腰を落とし、力なく身体を丸めた。疲れきった目の奥が、じんと痛む。気づけば、そのまま眠りに落ちていた。
翌朝、使用人に起こされる。朝食はもう用意されていた。
佳奈は粥をひと口すくって口に運ぶ。けれど味がしない。蝋でも噛んでいるみたいだった。
ふと、あることを思い出し、機械みたいに顔を上げる。
「旦那様は?」
使用人は恭しく答える。
「旦那様は、今朝早くにお出かけになりました」
その目に、かすかな同情が浮かぶ。薄井礼央は生活の面では不足なく整えてくれる。けれど、この結婚で佳奈がどれほど息苦しく、痛みに耐えてきたのか――見ている人間には分かってしまうのだ。
佳奈は同情の視線を避けるように目を伏せた。
須藤唯が帰ってきた以上、結末は離婚しかない。そう思っているのに、薄井礼央は離婚協議書にサインしない。
彼の心が読めない。でも、もういい。昔みたいに、昼も夜も答えを探して自分を削るつもりはない。
離婚は決めた。海外のルノワール音楽院から入学の招待も届いている。なら、時間をこの無意味な婚姻に溶かすべきじゃない。
朝食を終えると、佳奈はビザ申請センターへ向かった。
ビザはとうに期限切れで、更新が必要だ。手続きは面倒で、スタッフからは「だいたい1か月ほどかかります」と告げられる。
――1か月。
それが自分の期限だ。この1か月で薄井礼央と正式に離婚し、それから海外へ行く。
ビザ申請センターを出た佳奈は、近くの商業施設へ足を向けた。
障害を負ってから、彼女はほとんど外に出なくなった。身の回りのものは薄井礼央が人を使って買わせ、家へ運ばせていた。
でも、もう違う。
自分で選ぶ。自分で生きる。
カウンターをひと回りしていると、翡翠のネックレスが目に留まった。淡い緑が、冷たい光を返している。
佳奈は少し離れた場所の店員に声をかけた。
「すみません。そのネックレス、出していただけますか。試着したいんです」
店員が近づいてくる。作り笑いを浮かべた、その瞬間――佳奈の萎縮した左手を見て、笑みがすっと消えた。残ったのは、露骨な傲慢と蔑み。
「お客様。こちらのカウンターの商品は高額です。年収が相当ないと買えませんよ。……そのお手元ですと、お仕事も難しいでしょうし。恥をかく前にお引き取りになったほうが」
見慣れた言葉。見慣れた目。
佳奈は昔なら反射的に左手を隠していた。けれど今は違う。
彼女は左手を、あえてカウンターの上に置いた。ひんやりとしたガラス越しに、視線を返す。
「あなたたちは接客係でしょう。客が望むことに応えるのが仕事じゃないの。嫌なら、今ここで店長に電話するけど?」
店員の顔が引きつった。苦々しさを隠しきれないまま、彼女は翡翠のネックレスを取り出す。
佳奈はその手元を見据えたまま言った。
「つけてください。お願いします」
店員は一瞬固まった。佳奈の手をちらりと見て、本能的な嫌悪を目の奥に走らせる。それでも逆らえず、息を殺すようにして佳奈の背後へ回り、留め具に手を伸ばした――そのとき。
甘く、柔らかく、耳に絡みつく声がした。
「その翡翠のネックレス、すっごく綺麗。私も欲しいな。礼央、買ってくれる?」
佳奈の背筋が、ぴしりと硬直する。
振り返らなくても分かる。そこにいるのが誰なのか。
ただ静かに買い物がしたかっただけなのに。こんなところで、離婚間近の夫と――彼の高嶺の花に出くわすなんて。
佳奈はゆっくりと首を回した。
須藤唯が、薄井礼央の腕に親しげに絡みつきながら、こちらへ歩いてくるところだった。
